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Kの散歩帖
里庭掲示板
2026年6月30日(火) ラベル630
私の履歴書 神岡勤務時代余話 その2 落語と音楽を“エアチェック”
私の履歴書シリーズ その57である。

神岡勤務の10年間に起きた出来事で、業務とはあまり関係のない、思い出話をいくつか紹介しようと思っている。
第1回目は神岡町全体のことについて述べた。 こちら→(2026/6/26)

今日はその2回目。
以前から時々聞いていた落語や音楽を、レコードやCDを購入するのではなく、ラジオなどから放送される音を録音するなど、お金を出さずに集めるという作業をこの時代に始めた。
今回は、そのような”収録作業”について触れることにする。


もともとかなり昔から音楽は聞いていた。一番最初にレコードを買い求めた記憶が残っている。
それは浪人時代(1963年)。自宅で浪人生活を始めたのだが、隣町になる川本町にレコード屋があり、バスに乗ってレコードを1枚買い求めた。ベートーヴェンの交響曲「田園」である。そのレコードは今でも手元に残っている。
聴く装置は高校の同級生が卒業にあたり、私に残しておいてくれたものであった。

以後、大学生活さらに就職と、時代を経るにつれ少しずつレコードを買い求めた。
それらレコードの大半が、最初に買い求めた”田園”と一緒に今でも残っている。


次に効く装置を買い求めたのは就職してのち。三井金属の昭和寮で聞いた記憶があるので1970年頃と思われる。
パイオニア製の本格的なステレオ装置であった。
1968年のグッドデザイン賞を受賞した、当時としては由緒ある品である。

落語のレコードも手元に残っている。NHKが発売した12枚のレコードで構成される落語全集。昭和の代表的落語家の噺が収録された立派なもの。発売年をネットで調べたら1975年であった。

以後当分の間は、以上のような体制で聴いていた、と思われる。
ただしその後は、仕事が多忙になり、音楽や落語を聴いて楽しむという時間は極めて少なかったと推測される。


その後時代が移り、ラジカセなどが普及し、カセットテープに録音された音楽を聞くようになったりする。
我が家でもラジカセなどを購入したと思われるが、いつ頃何を買ったかなどの記憶も記録も一切残っていない。


この種の音楽を聴くなどという記憶が鮮やかに思い出されるのは、神経症を患い、その治療の為に森田室に入院した時期からである。 こちら→(2026/6/2)


森田室では、休憩室に当時普及し始めたミニコンポが置かれていた。
患者が、休憩時など音楽などを聞くためのものである。
それは、レコードを聴くためのターンテーブル、FM/AMチューナー、CDプレーヤー、そしてカセットデッキなどがすべて揃う、高機能のミニコンポであった。

この装置を使えば、レコードやCDの音楽を聞くことができるが、さらにその音楽をカセットテープに録音することもできる。

患者の中にCDを持ってきた人もあって、その人の持つCDを聞かせてもらったりした。
その中に松山千春のCDがあって、私はその松山千春がたいそう気に入り、カセットテープに録音をさせてもらったりもした。
またFMでモーツアルトの音楽が流れることがあって、それをカセットテープに録音などもした。
当時“エアチェック”と言って、FM放送などをカセットに録音することが流行ったが、その初体験であった。

その話を聞いた森田室の女医が、自分の持っているレコードを10枚程度持ってきて、これをカセットに入れてと頼まれ、カセットテープに録音してあげたこともある。


この森田室での体験が私を目覚めさせた。
音楽は、買わずとも集めることができるという気づきであった。


私もミニコンポを買うことにした。
その経緯が当時の備忘録に残っていた。
森田室を退院したのが1991年3月23日。3月28日から勤務を再開することになり、その前の3月25日に会社に挨拶に行った。その挨拶に行った25日の午後Mと一緒に甲府に出かけ、ミニコンポ買い求めたのである。


買い求めたのがパイオニア製の「IMPRESSO」というミニコンポ。
ただ使ってみると若干不満が残る。カセットテープに録音する場合最大でも90分。その間に45分でテープが反転するため無音部分が発生する。これを補う装置も買い求めた。DAT(Digital Audio Tape)と言い、反転なしで120分の録音が出来た。

買い求めたのは韮崎であるが、本格的に使い始めたのは、翌年に転勤した神岡時代。写真下段は、神岡勤務時代の自分の部屋に、これらの装置をセットしたものである。
装置全体を写した写真を探したが、全体を移したものがなく、やむを得ずこの写真で代用した。

「IMPRESSO」には予約タイマーがついていて、録画したい番組があれば、その時間に合わせてタイマーをセットする。あとは自動で録音できた。
FM雑誌や新聞のラジオ欄を見て予約をセットするわけである。

DATに録音したものは編集してカセットテープに置き直す。
置き直したテープは、「落語」、「クラシック音楽」、「ポピュラー音楽」の3分野に仕分けして保存した。

この仕分けしたカセットテープは神岡から持ち帰り、今でもそのまま保存してある。
場所は裏納屋の「避暑室」。


カセットの本数にして落語が120本、クラシック音楽が180本、そしてポピュラー音楽が60本ある。
下に移るステレオ装置は全住者が残していたもの。今でも生きていて使用することができる。
IMPRESSOのカセットデッキをここに移していて、これにかければカセットの音をステレオ装置で再生できる。

しかしながらここに記載した方法は神岡時代で終了した。


世の中はカセットからCDに代わり、
私も当地に越してから、神岡時代に集めたカセットすべてを、パソコンを使って一旦はCDに書き直した。
(カセットテープはアナログデータ、一方CDはデジタルデータである。書き換えるにはA/D変換という特殊な技術が必要であった)


しかし今や、そのCDも昔話の時代になった。

今では、集めた音楽や落語データをすべてパソコンの外付けHDDに収め、パソコン経由で再生させて聞いている。
この外付けHDD収められた楽曲ファイルの内容を見ると、現時点でフォルダ数689、ファイル数7565となっている。
フォルダ数はおよそCDの枚数に近く、ファイル数は楽曲数とも見なされる。
神岡時代以降現在までに、700枚近いCDを集め、その楽曲数は7500曲余りと言い換えても、大きな間違いではない。


また集めたデータの一部(半分くらいであろうか)を、スマホやiPodの中に取り込んで、ウォーキングの時あるいは寝る前のベッドの中で聴くこともある。

また、
集める方法も今やラジオではなく、ネット経由でのダウンロード。
“エアチェック”という言葉も死語になり、今や聞くことはない。

四半世紀にわたる、懐かしい思い出話である。



2026年6月29日(月)
本日休刊
29日の深夜、実際には日にちが変わって30日の未明、サッカーワールドカップの対ブラジル戦が放送された。日本中が大騒ぎをしているので、もともとサッカーのファンではないが付き合って見ることにした。
放送は30日の午前1時から始まる。キックオフは2時から。
試合結果は1対2で惜しくも負ける。放送が終了したのが4時半ごろであった。

普段の生活なら、試合が終わる頃起き出して小欄を書くのであるが、以上のような事情により、もはや記事を埋める元気がない。

よって本日は休刊とします。
2026年6月28日(日)
水鏡失せる
今日午前中は、ウォーキングに出るにはうるさいくらいの雨が降り、室内で調べものをしたりする。

そして今日は昼食当番。
作ったのは親子丼。
私が作る親子丼には三つのレシピがあって、今日作ったのは、その中では一番手のかかる、東京人形町「玉ひで」の“鶏そぼろ丼”。
かなり以前、テレビで紹介していたものを保存したものである。

ゆっくり昼食を取り、後片付けをすると、ひどく眠い。
外は雨だしと思い、まあ良いかと、小一時間昼寝をした。

起きてみると、時間は3時過ぎ、雨は止んでいた。
雨でなければ外仕事と思いもしたが、すでに時間は遅い。外仕事でなくウォーキングに切り替えることにした。

結局ウォーキングに出たのは午後4時過ぎであった。


雨上がりで景色は澄み、時折陽が差して緑が鮮やか、植えられた稲株は大きくなり、
 かつて見えていた水鏡に映る景色 こちら→(2025/4/27)
は、もはや見ることができない。


それにしても歳月が過ぎるのがひどく早い。



2026年6月28日(日)
古典落語 第1巻
およそ10日くらい前のこと、少し調べたいことがあって、すぐ脇にある書棚に並んでているはずの「古典落語」を調べてみた。

大昔に買い揃えたもので、筑摩書房が出版した“古典落語”を集めたものである。
第1期と第2期に別れて出版されていて、第1期が5巻、第2期が3巻から構成されている。
8冊の“古典落語”が並んでいるはずであった。

ところが、調べてみると第1期の第1巻が見当たらない。しかも、本来第1巻が並んでいた思われる個所には、本が存在していた程度の空間もある。

さてはどこかに持ち出したまま、元に戻していないものとも思われた。
あちこち探してみた。
ところがどうしても見つからない。
それでも諦めきれず、2,3日の間は思い出すたびに、別棟も含めて探してもみた。
それでも見つからない。もはやないものとして考えることにした。


抜けたままで放置するかと考えたりもしたが、どうもそれも釈然としない。
あまり高価でなければ買い求めることにした。


最初にアマゾンを探すが、こちらでは出てこない。ネットを探すとメルカリには載っていた。ただメルカリで買うのはあまり気が進まない。
残る最後の手として、楽天を探すことにした。

ありがたいことに楽天ブックスで扱っていた。しかも価格が1150円。高すぎる値段ではない、買い求めることにした。
手続きをすると、以前何かを買ったのであろうポイントが350点残っていた。このポイントを使えば800円である。

という次第で買い求める手続きをした「古典落語の第一巻」が今日届いた。


中古本としては程度もよい。

あるべきところに収めてみるとぴったり収まった。
これでひとまず安堵。

調べものは、これからゆっくり行うことにする



2026年6月26日(金)  ラベル626
私の履歴書 神岡勤務時代余話 その1 神岡町について
私の履歴書シリーズ その56である。

前回は神岡部品に勤務した当時の話を、社長が、小坂さんから金井さんへ変わったことを中心に、述べてみた。
 こちら→(2026/6/24)

勤務の期間はほぼ10年間あって、この間にはエピソードと言うか余話というか、仕事に直結しない思い出話もいくつかある。
小欄これから先は、それらのエピソード的な話を何件か綴って見る。

今日はその第1回。
10年間住み慣れた神岡町の全体像について述べることにする。


神岡町は、平成の合併で飛騨市神岡町となったが、私の勤務した当時は吉城郡神岡町であった。後に「イタイタイ病」で名を全国に知られた「神通川」の延長上にある“高原川”という川に沿ってできた盆地の町である。


背後にある「大洞山」の山中に、かつて東洋一と言われた亜鉛の鉱脈があって、この亜鉛鉱石を堀出すために栄えた鉱山町である。
この鉱山を運営したのが三井金属鉱業株式会社であった。

私が入社した1968年(昭和43年)当時、工場見学で訪れた時は、大洞山の山上にも、「栃洞工場」があり、社宅もあり、街が広がっていたが、24年経った、私が神岡部品に勤め始めた1992年(平成4年)には、「栃洞工場」はすでに閉鎖され、神岡町の街の中にある「鹿間工場」のみとなっていた。

下に示すがその鹿間工場全景である。



三井金属の栄枯盛衰に比例して、町も栄枯盛衰の歴史を辿ることになるのだが、町の人口の推移をチャットGPTに調べてもらったら次のような結果が表示された。


朝鮮動乱の昭和初期から中期にかけてはひどく栄へ、3万人近い住民が住んでいたわけで、真偽のほどは確認できていないが、大洞山の山上にあった劇場に、“美空ひばりが公演に来た”、と聞いたことがある。

我々が神岡部品に勤務始めた時期は、すでにかなり人口が減ってきた時代にあたるが、それでもまだ往時の盛んな時代の面影は残していた。
鉄道があり銀行がありNTTもありなど、神岡町内で全ての用事をすますことができるといわれていたものである。
当時電話番号が9桁。電話番号が9桁なのは東京と神岡のみ、と言われていたものであった。
余談だが、確かに当時の名刺を見ると、神岡時代の名刺の電話番号は9桁。それに対して、神岡以外に住んでいた時の名刺の電話番号は10桁になっている。

我々が住んだ社宅は、神岡部品が建てたもので比較的新しいものであったが、そのすぐ近くに「横抗社宅」と呼ぶ、鉱業所の管理職用社宅(長屋風)が約20軒あったが、その社宅には入り口の横に四畳半の女中部屋が備わっていた。
さすがに我々が勤務した当時は、女中さんはいなかったが、以前の時代の管理職は女中さんを雇っていたものと思われる。


話の内容が少し変わる。
雪の話である。

神岡の周辺の山の標高は1000mあったが、我々が住む街の標高はおよそ500mである。
したがってかなり寒いし、雪も積もる。
積雪が1mという状況も珍しくはなかった。


あまり積もると雪の重みに耐えかねて家が壊れるので雪下ろしとなる。冬の間に2・3度は雪下ろしをした。
標高が高く寒いためであろう、神岡の家は、当地のように雪摺りを期待しない構造になっている。
屋根の勾配は比較的緩く、しかも材料は瓦ではなく、割れないトタン葺きである。
雪下ろしは、人間が屋根の上に登って下ろすのが原則であった。
作業前に缶ビールを数個屋根の上に放り上げ、時折ビールを飲みながら雪下ろしをするのが慣例になっていた。

積雪時の道路管理も完璧な体制がとられていた。
雪が降った朝は、朝の3時4時から除雪車が出動する。ガラガラという除雪の大きな音が聞こえてきたものである。
我々が出勤する時刻には、道路は除雪が完了し、通勤に困ることは全くなかった。


祭りも盛んであった。
下の写真は街の中心に近い、大津神社の祭り風景である。

神岡町は、中心から遠く離れた場所は別にして、中心では全くと言って良いほど稲作を中心にした農耕はない。したがって祭りの内容も、豊作を願うものではなく、深い雪から放たれる春を迎えるための行事であったかもしれない。


この祭りは、神岡の目抜き通りになる中心街の商店が中心になって行うが、その他にも、それぞれの集落ごとに祭りが行われる。
集落により祭りの開かれる日がずれていて、祭りごとに親戚や知人を呼び合う風習が残っている。
したがって、今日はどこそこの祭り、明日は別の集落の祭りという事態が発生する。
私も、招待を受けて、毎年あちこちの祭りの馳走に預かった。
それはそれで良いのだが、祭りの当日や準備のために、会社を休むのは当然と考える風習も残っていた。
したがって祭りの時節になると、欠勤者が続発する。
会社の業務に支障が出ることもあったりして、悲喜こもごもの日々が続く。
懐かしい想いのする、祭りの風習であった。


もう一つ、写真がないのだが別の話。
神岡町出身の名文家、荒垣秀雄氏のことである。
神岡で生まれた後、高山の斐太高校高校をへて早稲田大学を卒業する。
朝日新聞に入社し、戦後間もなくから朝日のコラム“天声人語”を長年にわたって担当したことは特に有名。
神岡町立の図書館に行くと、「荒垣文庫」と名付けられた書棚があり、数多くの書籍が並んでいた。
氏の生家を訪ねたことはない。今思えば、惜しいことをした。


本日はここまで、



2026年6月25日(木)
南天の花
梅雨前線と台風8号が折り重なって、九州方面から本州の太平洋側は大雨と報じられている。
当地も同じ影響で雨は降っているが、その降り方はさほどでもない。

強めの雨ではあるが降ったり止んだりという状況。
合間を縫ってウォーキングにでも出ようかと思う時間があるくらいの雨模様である。

その時もそうで、1階にいて、雨が降っていなければウォーキングに出ようとし、雨の確認で、裏庭に通じる窓を開けて縁側に出たとき気がついた。

南天の木に白い花が咲いているのである。


裏庭に通じる裏の木戸の横に生えている南天で、裏庭に出たときには必ず目に入る木である。
秋から冬にかけては赤い実がなることも承知済み。そしてその実を食べに小鳥が来ることも承知済み。
しかし今の時期、この木に白い花が咲くとは初めて承知した。

四半世紀この木を見てきたにもかかわらず、初めて承知したわけである。

今頃気づくとは、愚の骨頂と誹られる気がするが、事実であるから致し方がない。
これからはこの白い花がどう変化して赤い実になるのか、少し注意を払いながら、眺めていくつもりでいる。



2026年6月24日(水) ラベル624
私の履歴書 神岡部品勤務時代 その2
私の履歴書シリーズ その55である。

前回は、神岡部品の勤務初年度、子供の進学の関係で、私と娘が神岡に移住し、Mと息子はそのまま山梨に残って、息子の大学受験受験に備える経緯について触れた。
幸いにして息子が大学に進学し、Mも神岡に移り住むことになったのであった。
 こちら→(2026/6/20)

前回も記述したが、Mが移り住んできたのは1993年(平成5年)4月である。

その4月は、私自身にとっては神岡部品での仕事の2年目にあたる。
前年に「管2昇格試験」に合格した故かどうかわからぬが、その4月に私は新しい辞令を受けることになった。


取締役の前に「常務」がつくことになったのである。

ただし仕事上では何の変化もない。
それよりも大きく変化したのは、Mが移り住んだことによって、娘の食事を作らなくても良くなった事である。
生活の様子は大きく変わり、随分と気分的には楽になった。

当時の備忘録が残っていたので、予定表と合わせて掲載してみる。


Mが移り住んできた後の、1ヶ月後、5月の記録である。
事業部勤務時代の慌ただしい日常ぶりが影を潜め、なんとなく、ゆったりと会社生活を送っているように伺える。

その後も大同小異の日が続き、仕事上で特段大きな問題もなく、1993年(平成5年)は暮れた。
そして平成6年を迎えることになる。

ところが、
年が明けしばらく経ったころから、なんとなく妙な噂が立ち始めた。社長交代があるかもしれないという話が、どことなく聞こえ始めたのである。
そして、1994年(平成6年)3月17日の備忘録に次の記載が見える。「中田情報によると、小坂さん事業部の可能性強いとか、その後のことは不明(誰が来るのか?)。自分としてもそのつもりで、今後の対応策構築の必要があろう」

その後、備忘録は記載のない時期がしばらく続いて、どう動いたのかの詳細は不明であるも、予定表に社長交代の事実が載っている。
それは7月の予定表であった。


小坂社長は、事業部長として機器事業部に戻られ、新たに三井金属の子会社である九州機工から金井さんが社長として見えることになった。

金井新社長は、小坂前社長と同年輩の人。したがって私より5歳年長と思われる。
それ以前に1・2度会ったことはあるが、もちろん仕事を一緒にしたことはない。
ただ、小坂さんとは異なって、誠に温厚な人。配慮に長けた人で、仕事は非常にやり易かった。

以降、私が神岡部品を退職するまで、金井社長の下で仕事をすることになる。
誠に幸運なめぐり会いであった。


社長が交代しても、業務上において特段の大きな変化はない。
その年は無事に終わり、よく年(1995年)になり私は新しい辞令を受ける。専務取締役という業務であった。


ほぼ同じ時期であったと記憶するが、新しい役員も誕生し、神岡部品は社長をトップに4人の役員で運営されることになる。


この体制も、私が退職するまで同じであった。
会社業務は概ね順調。
強いて変化点をあげると、1999年6月にはISO9001を取得し、2001年3月にISO14001を取得している。

さらに、工場として神岡町内に大島工場を増設し、1996年に操業開始する。
また富山県の大沢野町に、三井金属の子会社として存在していた「大沢野金属加工」という会社を神岡部品の子会社として吸収合併し、2002年から操業を開始するようになる。


このような経緯をへて、私が退職を迎えたのは2001年(平成13年)6月30日。株主総会を前日に終えた、翌日のことである。年齢は57歳であった。

ほぼ10年お世話になった。

10年といえば結構長い。
この間にいろいろと経験したこともある。

話が少し転ずるが、1996年から、備忘録の形式を「5年日誌」タイプに変えていて、その冒頭にある「1月のはじめに」という欄に記載をしていた。

恥ずかしながらここに載せてみる。


会社業績がほぼ順調であったことも幸いしているが、ここに記載してある自分の生活目標の中心は、会社業務の事ではなく、それ以外の物事が中心となっている。

以下小欄は、神岡部品の業務から離れ、神岡で体験した10年間の出来事について、思い出すままに記載してみようかと思っている。


順不同で記載するつもりであり、次回何について述べるか、今はまだ決まっていない。



2026年6月23日(火)
久しぶりの草刈作業
この2,3日は雨で、その前はサロン田屋があったり眼科検診があったりで、5・6日ウォーキングを休んでいた。
今日は朝から曇りの天気、雨は降っていない。
久しぶりに今日の午後ウォーキングに出た。
その帰り道に雑木並木を通って戻ろうとしたら、雑木並木の草が予想外に伸びている。通り抜けるのが鬱陶しいほど。


今日の予定の中に草刈作業は入っていなかったのだが、急遽草刈作業をすることにした。


ナイロンひもの草刈り機でかり倒すだけ。作業時間は丁度1時間であった。


この前草を刈ったのは、12日と14日の2日をかけて母屋の横の傾斜を刈っている。


この作業を持って、草刈は一段落と考えていて、長い間草刈作業は行っていないのだが、もう一度里庭内を確認し、草刈作業を予定に入れなければならないかも知れない、と思い始めている。



2026年6月22日(月)
有森裕子氏も薦めるラジオ体操
今日は夕食当番である。
午後4時半すぎから夕食の準備を始めた。

何げなくテレビをつけると、NHKで、「午後ライブニュースーン」という番組が始まっている。
半分横目で見ながら夕食作りを始めた。

番組の後半の方で、MCである池田伸子アナウンサーが、有名人に会って自分の悩みを相談するというコーナーがあるらしい。“池田伸子の「ふわり、生き方相談」”という。

今日の相手は有森裕子さん。女性マラソンランナー。
かつて2度ほどオリンピックに出場し、銀メダルと銅メダルを取った人。2度目のオリンピックの時「初めて自分で自分を褒めてあげたい」とコメントし、一躍有名になった人である。

今回初めて承知したのだが、有森氏は、昨年から日本陸上競技連盟の会長に就任されているという。
もちろん女性として初の連盟会長。

意志の強い方なのであろう、物事をはっきりと言い切る喋り方の人であった。


その対談の後半部分で出てきた内容であるが、ラジオ体操を薦める話が出てきた。


何事を行うにしても、自分を整えてから臨まなけければならない、とし、「体を整えればメンタルも整う」と言う。
その体を整えるために最も有効なのが、ラジオ体操であると言うわけである。
ラジオ体操は、「日本人が考え出した素晴らしいパーフェクト体操」であると述べ、「これをやり続けている人は、そうでない人に比べ健康寿命が全然違う」と言い切るわけである。

これまでに小欄で何度か述べて行きたが、私は6時半からテレビで放送される「テレビ体操」を録画し、洗顔などの所用を済ませて、朝の5時頃から、前日の録画を見ながらテレビ体操をするのを日課としている。
この体操を行ってのち、2階自室に上がるわけで、したがって余程のことがない限りこのテレビ体操を欠かすことはない。

有森氏の言われる「やり続ける人」の部類に入っていると思われる。
意を強くし、そして若干の自慢の意も込めて、ここにその内容を示すわけである。



2026年6月21日(日)
久しぶり昼食に雑炊
今日は昼食当番。何を作ろうかと迷っているうちに、長い間作っていなかった雑炊メニューがあることを思い出した。

今日は正午からBSでワールドカップの日本チーム対チュニジア戦が放送される。
私はもともとサッカー派ではなくラグビー派で、今回のワールドカップも当初はあまり興味がなかった。ところがここにきて日本中が湧きたっている。そしてMも熱心なにわかファン。
私もつられて今日の戦いは観戦することにしていて、放送が始まるまでには昼食を作り終えなければならない。
そんな折雑炊は、時間がかからずもってこいであった。

メニューリストを繰ると、雑炊の項の中ににつのレシピが載っていた。
簡単な方を選ぶ。
選んだレシピは こちら→

幸い畑に行けばニラもある。


取ってきたニラを山水を利用して、他の雑草や茶色くなった古い葉を取り除く。
あとは台所に戻りレシピに従って作ればよい。30分程度で作り終えた。終わった時間は正午前。

昼食をとりながら、サッカー観戦を堪能した。
しかも今日は予想以上の大勝。

申し分のない、日曜日の昼の時間となった。



2026年6月20日(土) ラベル620
私の履歴書 神岡部品勤務時代 その1
私の履歴書シリーズ その54である。
前回は、三井金属ダイカスト事業部の韮崎工場から、三井金属の子会社である神岡部品への転勤の経緯について述べた。
 こちら→(2026/6/15)

いよいよ神岡部品工業株式会社での勤務が始まることになる。
当時の予定表が残っていて、それによると勤務を開始したのは、1992年(平成4年)4月2日からである。
年齢で言えば、あとひと月余りすると48歳になる、47歳の時であった。



与えられた職責は、取締役事業部長という。
いわば、現業部門の統括責任者という職務になる。

席次で言えば社長の次の役職になり、個室が与えられた。
総務、経理、購買課が同居する大部屋と社長室に挟まれたところに位置していた。
長年多くの人と机を並べる生活をしてきたわけで、初めての一人部屋。当初は若干戸惑ったという記憶が残っている。

神岡部品は三井金属の100%子会社として、昭和48年に設立された会社であるが、ダイカスト事業部(機器事業部)の直接傘下の会社でもある。
設立時には、10名程度の社員が、当時の川崎工場に実習に来て、私はその実習生の世話役を担当した。
その実習生の大半が、私の今回の赴任時には、管理職になっていた。
またそれ以外に、相互に出張という形で、互いに行き来したことが何度もあり、顔見知りも多い。
新勤務先として赴任するには、馴染みやすい会社であった。


私が勤務した当時の、神岡部品を示す資料を探したが、結局何も見つけることができなかった。
致し方なく、記憶に頼り、当時の様子を再現してみる。


左側に示す航空写真は、比較的近年に撮影したものであるが、私が着任した当時と大きな差はないように思われる。思い出すままにそれぞれの棟が何課の所属であったかを表示してみた。
左下に示す別工場は、大島工場は在籍中に操業を開始しており、また、大沢野工場は、工場を整備するまでのところで任務を終え、操業開始は私の退任後であった。

右に示す組織図は赴任時のもの。記憶をたどって作ったものである。
私は丁度10年在籍したが、この間は、組織に大きな変化はなかったと記憶する。
組織図中、各課の右に示す数字は社員数(パート社員含む)を、これも記憶に頼って表示した。
多少の記憶違いはあるかもしれない。在籍期間中に、総社員数は微増した記憶が残る。

総数では300人を超えていて、神岡町にあっては、神岡鉱業所につぐ2番目の規模の会社であった。


私を神岡部品に誘ってくれた小坂社長は、かなり個性の強い人であった。一般的な評価は好悪相半ばするが、私にとっては相性がひどくよかった。
「責任は俺がとるから好きにやれ」と言われ、仕事上で苦言を言われた記憶は全くない。
かつての病気のことを思ってか「遊べ遊べ」と本気で言われた。

ただし、「管2昇格試験」を控えた間、ほぼ1ヶ月間は様子が異なった。
試験では、スライドを使って約15分程度自分の意見を述べる場があるのだが、その発表の事に限っては、誠に細やかであった。
発表内容については今ではすっかり忘れているが、おそらく「神岡部品のこれまでと、将来展望」というような内容で発表したと思われる。
神岡部品採用の若い学卒社員を助っ人に選んでくれ、資料集めからスライド作りなどをその社員に手伝わせた。
社長を前にして何度もリハーサルを行ない、何度もダメ出しをされた。
お陰をもって、その年の「管2昇格試験」は合格することができた。合格の通知を受けたのは9月29日となっている。

その後は、また元の木阿弥。ゴルフには何度も出かけ、2人だけで飲みに出かけたのも数え切れない。


以上述べたごとく、会社の方は順調に推移した。
ただし、我が家の方は若干問題がある。
娘と2人の生活のことである。


前回も少し触れたが、神岡には普通高校がなく工業高校のみ。したがって隣町になる古川の吉城高校に通うこととなった。片道3・40分かけたバス通学になる。

話が4月に戻るが、8日が吉城高校の入学式で、この日もMが入学式に立ち合っている。
それを持ってMは山梨県に戻ることになった。


娘と2人の生活で最も問題となったのが食事である。
朝食は私がパンか何かで簡単なものを作る。昼食は娘が弁当を自分で作り、私は会社の食堂で取る。夕食は私が大半を作った。
当時はまだネットのない時代で、家にあった料理の本を数冊持ち込んだ。その一部が今でもMの書棚に残っていた。


表紙に「A]、「H」の文字が見える。連番を打っているはずで、これで見ると、少なくても8冊は持ち込んだものと考えられる。
本(雑誌)を捲り、めぼしい料理を探す。作りたいメニューが見つかれば、そのメニューが載っているページが指標となる。例えばAという雑誌の20ページに作りたいニューが載っていると、記号は「A-20」となる。
この記号の羅列を1週間分作り、それに必要な材料を、日曜日に、町にあるスーパーマーケットに行って買い求め、メニューを見ながら料理を作るという次第である。

ただこれは娘の口には合わなかったらしい。
これを補ったのがMで、Mはその年の3月に買い求めた軽自動車のアルトワークスに乗って、安房峠を越えて神岡に何度もやってきた。


料理を作り、料理の作り置きを作っては保存をかけたり、また、荷物にして送ってくれたりなどした。

一方、山梨県に残って大学受験に挑んだ息子でであるが、受験には少々苦労をしたものの、翌年の3月には大学に合格した。


これをもって、息子は埼玉県の所沢に移り、Mは神岡に住むことになる。
Mが移り住んだのは1993年(平成5年)4月10日であった。


これをもって娘と2人の生活は終了し、料理作りからは開放されることになる。
随分後年のことになるが、娘が言うに「あの時、もう少し美味しいと言って食べてあげればよかった」と、笑いながら話していた。

そんな悲喜こもごもの、神岡部品勤務の初年度の出来事である。


これ以降の話は次回に回す。



2026年6月19日(金) ラベル619
左目、眼科検診
左目の、月1回の検診の日。今回が通算26回目となる。
前回は こちら→(2026/5/15)

Mも同じクリニックで一昨年(2024年)3月に白内障の手術を受けていて、年に1回の定期検診日になり、両者とも患者という身分で行ってきた。

Mの方は検査も簡単、診察を含めて30分余りで終了したらしいが、私の方はいつもの通り。
待ち時間を含めて検査はほぼ1時間。その後医師による診察となった。

医師は開口いつもの通り「どうですか、痛みはありませんか」と声をかける。私の方は「特段問題はありません」といつもの通り答える。
器具を使っての医師の確認検査があり、その後「特に大きな問題はありません」という。
そして「二重見える件ですが、よくなる傾向には見えますが、今日のデータでは像が縦方向にずれている。もう少し様子を見た方が良いでしょう」との言葉があった。

この1・2ヶ月、私の方の考えは、「不自由ながらも何とか生活ができているわけで、異論を唱えたい部分は無いでもないが、医師の判断にしたがって行こうと心決めをしていて」、従って今日も「わかりました」と答えて診察室を出てきた。


今日は予約時間が9時半から。しかも患者が普段より少なく、診察がすべて終わったのが10時半過ぎであった。
大田市内で簡単な買い物をしても11時過ぎ、昼食でも食べて帰ろうかということになった。

話が少し転ずるが、2・3週間前Mは一人で山登りに出かけたことがある。
その時知り合った人がいて、その人は旧吉田村の村長であったらしい。その人が教えてくれた店が飯南町にあって、そこに行こうかと言う。
主として牛肉を提供する店らしい。


どうせ私は助手席に座って身を任せる身分。Mの言う通りに従って昼食を食べて帰ってきた。



2026年6月18日(木)
映画 「国宝」 を録画する
昨日、サロン田屋が開催されたとしているが、そのサロン田屋で話題になった話である。

昨年から今年にかけて話題になった、映画「国宝」が“プライムビデオ”で見ることができるようになったと言う話が出た。

この映画日本アカデミー賞を受賞し、共興収入は200億円を超えて歴代1位になったとされ、話題になった映画である。

Mは今年の3月、この映画を見るために広島まで出かけた。
この折り私にも誘いがかかったが、億劫さが先に立ち、一緒に出るのを断った経緯がある。
そのうちには、プライムビデオなどで放送される日が来るだろうという思いもしていて、出たおり見ればよいとして、同行を断った背景もある。


その映画が見れることになった、というわけであった。
1年以上はさきのことと思っていたわけで、予想外に時期が早い。
ならば録画をせねばならぬと思い立ったわけであった。


プライムビデオは通常の方法では録画ができない。通常の方法で録画をすると画面が黒くなり見ることができないのである。(当日のサロンの席上では、このことを忘れていて、簡単に録画できると説明してしまった)

私はその対策を昨年実施している。
 こちら→(2025/9/16)


昨日、サロンから帰宅後録画をすることにした。


プライムビデオを開いてみると確かに放送をしている。
昨年準備したプログラムを開いて録画を実行した。

この方法はダウンロードとは異なり、実物を画面に流して画面上の画像を録画する方式である。
したがって実放送と同じ時間がかかる。
今回の国宝は映画の放映時間が約3時間。従って録画も最低でも3時間はかかる。
昨日の作業はここまで。

今日になって不要な個所を削除するなどの編集を行ない、映画を収録している所定の場所に保存をした。
映像を一部流してみると、黒くならず、間違いなく通常の録画ができていた。
近いうち、折を見て全編観るつもりである。



2026年6月17日(水)
致し方なく 一汁二菜
本日はサロン田屋の開催日。朝の心積もりでは、小欄に載せる今日の話題はこのサロンの内容を紹介するつもりでいたのだが、肝心の料理の写真を撮り忘れていて記事にならない。
致し方なく、一汁二菜である。

一汁二菜はシリーズ化したので、前回の掲載日を載せると次である。
 こちら→(2026/5/25)
前回は煮込みハンバーグを載せていた。
たまたま今日のサロン田屋で、ここに掲載した煮込みハンバーグを話題にしたので、良いタイミングである。

話を戻して今日の一汁二菜。
前回の夕食当番の時作ったもの。しかも記事にする予定が無く、作る経過を示した写真は無い。
最後の食卓に並べた様子のみの写真である。


しかも全体を1枚に収めた写真がないので、2枚の写真を重ねて示した。
少々画像がずれた部分があるが、ご容赦願う。

少し以前、今年はエンドウ豆が豊作と記述したことがあるが、今日はまさにエンドウ豆中心のメニューになった。
写真下部にえんどう豆ご飯が写っている。これは2,3日前Mが炊き、冷凍していた物。解凍して夕食に供することにした。

写真中央部にあるエンドウ豆の煮物が今日作ったもの。
参考にしたレシピは下図である。


エンドウ豆は、Mが湯がいて冷凍したものがあり、それを使う。したがって煮る工程はなし。
いきなり味をつける工程のみである。
ただし、煮上がる最後に近いところで、レシピにはない削り節を入れてみたので、結果はいわゆる土佐煮風になった。
味もなかなか良い。

さらにもう一品、“えんどう豆の土佐煮”の左にあるもの。
小欄にも何度か既に登場した、「しめ鯖ときゅうり、レタスのごまだれ和え」である。
私の十八番。
味は、当然ながら良い。

写真上部に小さく写るはこれまでの残り物。
上の品はだし昆布を使った佃煮。これは私の作品。
下にある緑の品はほうれん草の胡麻和え。これはMの作品。
冷蔵庫から出して添えてみた。



2026年6月16日(火)
笹ユリ
Mが管理している笹ユリの話。
10日程度前から咲き始め、今は最盛期か、もしくは終盤近くという時期(らしい)。


Mが撮影した写真を借用した。

今年咲いた数は合わせて35本という。
下段の写真は、その中から一本ほど、切ってきて生けたもの。
私は近年鼻が悪いので、ほとんど感ずることができないが、芳香が漂うらしい。
来訪者の多くが、玄関に入ると「良い匂い」言って下さる。

咲き始めて以来、数組の方が花を見に来てくださった。
老人会の女性連。体操教室の女性連。Mの友人夫婦など。

そういう喜びも含め、Mはこの花を増やすやすべく、色々と手を尽くしているが、なかなか思うようには行かないらしい。
2本ほど、鹿に食べられたともいう。

来年はどういう結果になるのであろう、傍目ながら若干は心配している。



2026年6月15日(月) ラベル615
私の履歴書 山梨県・韮崎工場 から 岐阜県・神岡部品へ
私の履歴書シリーズ その53である。
前回は、森田療法室から退院後、勤務を再開した様子を述べた。
 こちら→(2026/6/8)

勤務を再開した年は1991年であるが、その翌年の1992年(平成4年)1月早々のこと、神岡部品の小坂社長とお会いすることになる。
そのメモが予定表に残っていた。1月10日となっている。


メモによると、会う時間が19時からとなっているから、会社ではなく我が家に来てもらって会ったのかもしれないが、そのことについては全く記憶がない。
話の内容は「神岡部品に来ないか」という誘いの内容であった。


小坂社長は秋田大学工学部卒の機械屋さん。もともと機器事業部とは関係のない人で、三井金属日比製錬所に勤務していた人である。
韮崎移転が終了した頃、技術部長として転勤で赴任して来られた。私より5歳年長である。
その頃私は生産管理課長であるから、一緒に仕事をしたという機会はない。工場内で会えば立ち話をするぐらいの接触であった。
その後小坂さんは、1990年(平成2年)に、三井金属の子会社である神岡部品に社長として赴任されていた。
その小坂社長から「悪いようにはしないから」とのお誘いであった。

私は心が強く動いた。
当時の事業部長の松谷さんに相談すると、基本的には希望に沿うようにして良いが、今年は昨年辞退した「管2昇格試験」を受ける年になる。その試験は事業部在籍のまま受け、合格してのち、来年神岡部品に移動してはどうかと、これまた心のこもった返事をして頂いた。

そのことを小坂さんに伝えると、小坂さんが言われるに「神岡部品に移っても、私が必ず合格させてあげるから大丈夫」と返事をされる。
その答えもあって、私は神岡部品への転勤を決心した。


ただし、転勤にあたってはもう一つ懸念される事項があった。
それは子供たちの進学がらみの話である。
転勤の話が持ち上がった1992年の時点で、息子は白根高校の2年生。大学受験までにはもう1年ある。一方娘は巨摩中学の3年生。高校受験を控えている年であった。
家族でいろいろ話し合った結果であるが、娘が私と一緒に岐阜県に行っても良いよと言ってくれ結論となった。
具体的には、Mと息子は山梨にそのまま1年間残り、大学受験に備える。一方、娘は岐阜県の高校を受験し私と一緒に神岡に移るという考え。1年間のみ2世帯に分かれて住むという案であった。


以下この案にしたがって動くことになる。
会社の方の了承も得てその年の3月には、山梨を離れ神岡に行くことになった。

山梨に住み始めたのは、私は1985年7月、家族は11月であるから、私と娘はほぼ6年、そしてMと息子はほぼ7年山梨県の白根町に住んだことになる。


6年(7年)と言えば結構長い。
以下、この間の出来事など少し振り返って見ることとする。


まず最初に、住んだ家のこと。


韮崎工場から車で10分程度の場所にある白根町(現、南アルプス市)にある借家。大きな屋で、1階が7部屋、2階が3部屋という間取りである。
家の前には板塀で囲われた庭があり、角には背の高い金木犀が植わっていた。秋になると強い香りを放ち記憶に残っている。

大屋は土建業で町会議員。


選挙のおりは、私も選挙カーに乗ってお手伝いしたこともある。
当時山梨の選挙では、「現ナマ」が飛び交う時代。奥さんは茶封筒に現金を入れたものを持ち歩いていた。


この間に子供たちは大きくなる。
4人そろって写った写真を探してみた。


1985年の写真は家族が山梨に移り住んだ年のクリスマスのもの。1987年はそれから2年後のやはりクリスマスのもの。1991年の写真は、森田室に入院時の写真。正月に一泊の外泊許可が出て帰宅した時のもの。1993年の写真は、息子が大学に合格し、東京に移り住む直前のもの。白根の借家で4人そろって写る最後の写真である。


次はそれぞれの入学時のもの。


入学式も卒業式もすべてMまかせ。私は一度も出席したことはない。
それが当時の一般的な風潮でもあった。

1992年の高校受験の写真。神岡には普通高校がなく、古川にある吉城高校を受験した時のもの。
巨摩中学の卒業式の日に、その足で受験のため神岡に向かったのだが、その時は私も同行していて、この先私と娘が住むことになる社宅に泊まることになっていた。
神岡に着いたときはすでに暗くなっていた。
暗い社宅にはいるものと覚悟しつつ社宅に近づくと、社宅は明々と光が灯り、炬燵には火が既に入っている。さらに炬燵の上には神岡の地酒の一升瓶が置いてあった。
総務課の古田さんという人の配慮である。誠に嬉しかったという記憶が蘇る。


そして三井金属最後の出社。


Mが車で送り、最後の三井金属出社を写真に撮っておいてくれた(写真、上段)。
写真下段は荷物の送り出し風景。娘と私の荷物を送り出したもの。


いよいよ神岡部品での新しい仕事をが始まることになるが、それ以後の話は次回に回す。



2026年6月14日(日)
実家の手伝い 採蜜作業
先日実家の手伝いにより本日休刊としたことがあったが、手伝いの作業内容は、Mの妹が中心になって行っている養蜂業の営みのこと。具体的にはこの時期に行う採蜜作業である。
出かけたのは土曜日の朝のことであるが、土曜日の朝に前日分の記事を記述しているため、表向きの休刊は金曜日の記事を休刊することとなった。

最密作業はほぼ毎年手伝いに行っているが、その内容を小欄に掲載するのは毎度ではない。
今年もスルーするつもりでいたのだが、Mが撮った写真でなかなか良いものがあり、ここに借用して掲載することにした。
実際の作業日は13日の土曜日のことである。


作業を大きく分けると、三つの工程からなる。
巣箱から蜜が貯まった“巣”を取り出す工程、もう一つが遠心分離機に“巣“をセットして蜂蜜を回収する工程、この二つの工程を運搬車に”巣“をのせて運び、繋ぐ工程の三つである。

巣箱周りが2名、運搬が1名、遠心分離機周りが4名という構成。
合わせて7名である。

作業の詳細は2023年の記事で述べていて、そちらをご覧頂くことにして
 こちら→(2023/5/27)
今回は省略する。



2026年6月13日(土)
新井紀子著の 「夏蜜柑とソクラテス」
ただいま図書館で借りている本の中の一冊である。


著者である新井紀子氏は初めて承知した。
一橋大学で法学を学び、その後イリノイ大学で数学を学んだという経歴の持ち主。現在60歳余りの年齢らしい。

数年前、「AIは東大に入学できるか」というプロジェクトがニュースで紹介されたが、その時のプロジェクトリーダーでもあるらしい。
若干余談だが、氏がプロジェクトを実行したときは、「AIは東大に入学できない」という結論であったと記憶するが、その後AIは進化し、今年だったかあるいは去年だったか、「AIは東大を首席で入学した」というニュースを読んだ気がする。


話を本に戻すと、今回図書館に行った折り、司書がおすすめ本を紹介する書棚の上に並べてあり、深い意味もなく、とりあえず借りてみるか、と思って借りたものである。


その後、時間のある時開いて読むと、これが予想外に面白い。

AI学者でありながら、考え方が古風である。
車や電車に乗るのが嫌いで自転車を愛用し、電子レンジも使わないという。

そしてもっとも好ましいのが、落語が好みという。
しかも現在の落語家でなく昭和の時代の落語家が好み。もっとも好きなのが六代目の三遊亭圓生、圓生亡き後は三代目の古今亭志ん朝と言う。
この好みは私の好みとぴったり一致する。

少し読み続けると、噺の演目がいくつか出てくる。
大半の演目は私自身承知済みであるが、志ん朝の演目の中に「こうふぃ」というのが有るともいう。
この「こうふぃ」だけは聴いたことがない。

YouTubeを開いてみると確かにあった。ただし「こうふぃ」ではなく、「甲府ぃ」というらしい。さっそくわが落語ライブラリーに収録することにした。


YouTubeの音声を録音し、編集してパソコンのライブラリーに収めると同時に、寝るときやウォーキングでも聴くことができるよう、iPod Touchとスマホに取り込んだ。

甲府出身の若者が出てくる人情噺である。
山梨に住んだ経験のある身では、これまた嬉しい内容の噺であった。


話題が再びそれた。元に戻す。

内容はエッセイ集で、ただいま10話程度を読み進めたところであるが、感ずるのは内容もさることながら、綴られている文章(日本語)が誠に良い。
爽やかで、明快で、読んでいてまことに気持ちがよいのである。

返却するまでにも少し日にちがあるので、読了できるかもしれないが、読了できるできないは別にして、綴る文章の「参考書」として、この本を購入しようかと思い始めている。



2026年6月12日(金)
本日休刊
本日早朝よりMの実家の手伝いがあって出かけることになり、本日休刊とします。
2026年6月11日(木)
サツキの剪定
今年6月7日に、集落の「サツキの下刈り」が行われたが、それが終われば、引き続いて我が家のサツキの剪定をするのが近年の私のルールである。
昨年も同様に行っている。 こちら→(2025/6/13)


今年は6月8日から作業を開始した。


作業手順は昨年とほぼ同じ。
8日;入り口にある大きめな塊と町道沿いに繋がるサツキ類の下側の面を剪定した。
並ぶ大きな石垣を見せるように剪定するのが技術の要諦。1.5時間。
9日;脚立に上がって、側面と上面の剪定。来客があって1時間で作業を終える。
10日;横庭の上に上がり、上面と背面の剪定。そして剪定して落ちた茎や葉を集めて植木越しに町道に落とす。それにもう一つ、横庭に上がる小道の脇の植木の剪定。時間は2.5時間。
11日;欅台の植木類の剪定。それに町道他に落ちた枝や葉の整理。集めて運搬車で運ぶ。2.5時間。

要した時間を合計してみると、4日間で7.5時間となる。
偶然にも昨年と同じ値になった。



2026年6月10日(水)
えんどうの青煮
今年は、Mが作るえんどうが豊作である。
特に、鞘を剥いて中の実を食べる形のえんどうがよくできていて、さやごと食べるえんどうは僅かしかできない。
さやごと食べる方のえんどうが料理の種類は多く、重宝するのであるが、これは作ってもらう身、致し方がない。


そのえんどうを使って夕食に供した。
作ったのは「えんどうの青煮」である。

この「えんどうの青煮」、えんどうが出るころ、年に1回つくると言うレアな料理であるが、参考にするレシピもレアである。


Kの母親が残しておいた料理本。本のタイトルが「土井勝の家庭料理」という。
裏表紙の見開きに、父親の書いた文字で「昭和五十一年四月十日 上田清子」の文字が残る。

価格は2600円とあるから、現在の貨幣価値なら倍はするであろう。当時の買い物としては、高価なものであったと思われる。

土井勝といえば当時一世を風靡した日本料理の名手であるから、中を眺めると見事なレシピが載っている。参考にすればよいのだが、今のところ参考にするレシピは、今回のえんどうの青煮のみである。


さて本題。
レシピ通りに作る。


冷すのは山水。
これも青煮を作る時の慣例。

先日作った一汁二菜の中身であるが、今回はそのなかの一品を取り上げた。



2026年6月9日(火)
本日休刊
都合あって、本日休刊します。
2026年6月8日(月) ラベル608
私の履歴書 「神経症」治療後の勤務再開
私の履歴書シリーズ その52である。
前回は、森田療法室へ入院し治療の結果、症状が軽快し、退院の日を迎えるまでの経過を述べた。
 こちら→(2026/6/3)

勤務を再開したのは、1991年2月28日である。

入院前は、症状が再び出ればどうしようと考え、ビクビクするような毎日を送っていたのだが、治療の結果、起きたら起きで仕方がない、起きた状況の中で仕事を進めて行こう、と思うようになっていた。


勤務再開後の職場は、技術開発室。
このことは以前述べた。 こちら→(2026/5/24)

主な業務内容は、マグネシウムダイカスト技術の確立と、MIM(Metal Injection Moldingの略)と呼ばれ、日本語では「金属射出成形」と言われる技術の確立である。

マグネシウムダイカスト品は、軽いのが特徴。
亜鉛ダイカスト品の比重が6.4、アルミダイカスト品の比重は2.6、それに対してマグネシウムダイカスト品の比重は1.8である。当時量産が始まっていたHDDのスイングアームなど、精密製品の部品として注目をされ始めていた。
ただしマグネシウムは酸化しやすく、操作を間違えれば出火の危険もある。
それなりに難しい技術確立の必要があった。

一方MIMは、金属粉末とバインダーを混ぜて射出成形したのち、バインダーを除去し、金属粉末のみを焼き固めるという技術。
通常の粉末冶金は、2次元形状のものしかできないが、MIM製品は3次元形状のものができるという大きな特徴がある新技術である。
もともと1988年から、子会社の神岡部品で試験研究が開始されたものが、翌年の1989年に、韮崎工場に設備移転されていたものである。

そういう状況下の職場であった。


冒頭を述べたように、勤務を再開したのは2月28日。翌日は3月である。
その3月の業務予定表が手元に残っていた。


組織の長として、開発室室内の動きを記録にとどめている。

また別の用紙で、当時の開発室メンバーを示すメモが残っていた(写真右)。
実名が載っているが、もはや問題はおきまいとして、消さずに載せている。
数字が2列並んでいるが、いずれも入社年を示している。左が西暦を意味し、例えば68は1968年のこと。その右は、年号を示し43とは、昭和43年入社の意味である。
右端には、出身大学名が記載されている。無記名は高卒者。
室員8名中5名が大学卒(うち一人修士)であるから、いわばエリート集団の組織といってよい。
名前の右に点がある人がマグネシウムダイカスト担当、無い人がMIM担当の内訳となっている。

発病前の私の仕事のやり方は、率先垂範型であった(と思う)。ともかく組織の先頭に立って、皆を引っ張ろうとしていた。
しかし、発病し森田室の治療の結果、私の仕事のやり方はかなり変わってきた(と思う)。
たまたま開発室のメンバーが優秀な人材が揃ったということもあるが、以前の様に私から指示を出すのではなく、メンバーが自発的に動く様を後方から見守るという態度に変わったのである。
それでも組織自体は問題なく動いていった。

MIMは戸田氏に任せた。

そしてマグネダイカストは野坂氏である。


たまたま彼は九州工大の金属工学科卒業。年はかなり離れているが私の後輩にあたる。
そんなこともあり、野坂氏には、公私にわたり随分と助けてもらった。

そのような経緯を経ながら、退院後の技術開発室の業務は、特段の問題もなく進行して行ったのであった。

手元にもうひとつ、別の資料が残っていた。
平成3年(1991年)のダイカスト事業部の売上見込み表である。

その中に、MIMとMGの売上見込み額も掲載されていて、上期に対し下期の方が、販売額は増大している。
技術開発室担当の新分野が、順調に業務を拡大している様が読み取れる。


そして、私の病状のことである。
3月に勤務を再開した当時は、正直言って、かなり不安が残っていた。
森田室で経験し会得したものが、実社会でそのまま通用するであろうかという不安である。
再勤務を始めた当初は確かに症状を感じた時もある。ただそれは致し方ないことと思い定め、目の前の仕事に集中するように心がけた。
それを繰り返しつつ日々を過ごし、勤務にも次第に慣れていった。

1・2ヶ月経った頃には、傍目で見ると、発病以前と少しもから変わらない私の姿に戻っていると見えたかもしれない。そんな状況までに戻っていた(と思われる)。
そんな感じで退院後の平成3年(1991年)を終えようとしていたのであった。


ただこの間に一つだけ特筆すべき事柄が生じていた。
それは「管2昇格試験」という、学卒入社員に対する試験である。
学卒入社社員には特権が与えられていて、部長職までは、特別のことがない限り試験なしで昇格就任することができる。ただしその上の、経営管理層になるためには、特別の試験があって、それを合格しないと経営管理層にはなれないという試験である。
その「管2昇格試験」が、昭和43年に入社した同期生に対して、その年実施された。9月のことである。
事前のいつであったか記憶がないが。事業部長である松谷さんから声がかかり、試験の趣旨が説明された後、4ヶ月も入院した後では、試験を受けても合格する確率はまずない。来年は必ず受けさせるので、今年は受験を辞退したいと考えるがいかがか、との話であった。私にとって異存はない。承知の返事をしてその年は受けなかった。


これまでは、同期入社では先陣のグループに入っていたと思われるが、これで確実に後陣のグループ入りである。
ただし、受験できないのは当然のことと承知し、遅れることについて悔しい思いをすることは、ほとんどなかった(という記憶が残っている)。

“遅れることに悔しい思いをしなかった”とは、負け惜しみのように聞こえなくもないが、森田室で体験した「あるがままに」とか「なるようにしかならない」という身の処し方が、そう思わせたのかもしれないと思っている。

このような経緯を経つつ、森田療法室退院の年、1991年は終わりを迎えることになった。

翌年の1992年(平成4年)には、また別の動きが始まることになるが、そのことについては次回以降に回す


2026年6月7日(日)
集落行事 サツキの下刈り
毎年、この時期行われる集落の行事、「サツキの下刈り」に参加した。
6月の初旬の日曜日に行われるのが慣例で、昨年の様子は
 こちら→(2025/6/8)

若干遅れて参加した人もいたが、参加者は16・7名。
昨年より参加者が多かった。


昨年は、この「下刈り」が行われた直後の6月17日に左目の怪我をしていて、8月に行われた「夏草刈り」は欠席している。
したがって、集落で行われる草刈りの作業に出席するのは一年ぶり。
若干の不安を抱きつつ参加した。

この作業に、私は電動バリカンを持参することを恒としていて、今年も同じ手順を踏む。
刈る場所は、上の広場に通じる坂道の両側のサッキと、建物の前のサツキの剪定。

なんとか無事に刈り終えた。

今年も参加者の中では最長老。
ただし、目の怪我以降急速に体力の減少を感じていて、この最長老という記録をいつまで続けることができるか、危ぶむ気持ちも起き始めている。



2026年6月6日(土)
薪小屋修理
今年の春頃気づき、気にはなっていたのだが、とりあえず草刈りを優先し、その草刈りが少し落ち着いたので気になっている作業を行うことにした。
薪小屋の修理である。

今年の春のこと、何げなく、木屋を押してみると、小屋全体が軽々と動く。こんなに動くようでは、すぐに倒れるのではないかと調べてみると、1・2欠陥が見つかった。
小屋が倒れないよう斜めに添え木を当てているのだが、その添え木の一部が腐食してなくなっているのある。
さらに、もう一つ決定的な欠陥は、柱と横木を固定する金具を小屋の四隅に設置しているのだが、その一つがこれも腐食で、途中で切断し、固定の役目をしていないのである。

そんなところを中心に、その他いくつか気づいた点を修理することにした。
修理にかかった日は3日間。6月1日、4日、そして今日。要した時間は合わせて7時間である。


最初が金具の交換。


折れた金具の除去が最初の作業。
ボルトは錆びついて除去できず、金具の一部を切断して内側から外側へ叩き出すことにした。電動のハンドグラインダーを用意して切断する。後叩き出して外し、新規の金具を取り付けた。


次が添木の設置。
古い整理は撤去して新しいものを設置した。設置場所は小屋の後方。


小屋の形状からして倒れるなら後方か横方向であり、それを防ぐ方向に四本の添え木を設置した。


次が、中央の柱の傾きと支柱の交換、ついでに屋根の高さの調整。


中央の柱が左に傾いたように見え、さらに中央部分の屋根が少し持ち上がって見える。この対策することにした。
さらに、その部分にある支柱の根元が腐食していて、支柱の交換も同時に行うことにした。


最初に既存支柱の撤去をする。簡単に抜けないので、「てこの原理」を使って抜きあげた。
次が柱の傾き修正。人力では傾きが修正できないので、運搬車で引っ張り傾きを修正した。屋根の高さ調整は、椅子に登り、木槌で上から叩いた。完璧ではないが、少しは改善された。

そのままの状態で新規支柱を製作し埋め込む。


これらの結果の完成図である。


これで数年は、小屋の寿命が伸びたのではないかと思っている。



2026年6月5日(金)
モリアオガエルの巣
中国地方は昨日梅雨入りと発表されて、今日はその2日目。
午前中は小雨ながらほぼ間断なく降り続け、今日はウォーキングはだめかと思っていたら、午後には雨が弱まり、雨の合間を縫ってウォーキングに行ってきた。
その時に出会った情景である。


田植えが終わった田圃の畦の水際にモリアオガエルの巣が見つかった。
場所は、保養館を過ぎたところで、川沿いに右折してしばらく歩いたところの田圃である。
そしてしばらく歩き続け、Uターンして戻り道になった県道沿いの田圃の畦でも同じく巣が見つかった。この場所では巣が、遠目で確認したところでも三つある。


少々びっくりした光景であった。
というのは、これまで20年前後ほぼ同じ道をウォーキングしているにも関わらず、このように田圃の畔でモリアオガエルの巣を見つけるというのは初めてのことであったからである。

モリアオガエルの巣そのものは当地では珍しくはない。わが里庭内でも梅雨の時期になると見ることができる光景である。


2008・9年当時の写真。田圃とか堤とかの上に張り出した枝に巣を作った様子である。

これが本来の姿。
それが枝ではなく畔の上というところにびっくりしたわけである。

モリアオガエルにとっては、やむを得ない事情があるのであろうが、それが何であるか、今のところ分からない。



2026年6月4日(木) ラベル604
イワダレソウ
昨秋「別棟」に、グランドカバー材としてイワダレソウと呼ぶ草花を移植した。
 こちら→(2025/9/18)

昨年は、およそ根付いたと思われるところまで確認して、あとは放置状態。
冬を迎え、そして今年の春を迎えたわけである。

4月の中旬に一度草を刈ったが、そのときはあまり気づいていない。

その後再び草が伸び、4・5日前に2度目の草を刈ったのだが、そのときは2・3輪白い花が見え、どうやら活着したものと認識して居た訳である。

そして今日のこと、ウォーキングの際に立ち寄ってみると、白い花が無数に咲いていた。苗を植えた区画とほぼ同じ区画一面である。


たまたま今日Mも確認したらしく、「写真を撮っておいたよ」と言う。
上の写真の中には、Mの撮った写真も2枚入っている。


これからは、グランドカバー材として、どれほど力を持っているのか確認しつつ試していくことになる。



2026年6月3日(水) ラベル603
私の履歴書 「神経症」との戦い その2 森田療法室入院(後編)
私の履歴書シリーズ その51である。
話の内容は、昨日の続きである。

昨日の文章の初期段階で「手記」なるものについて簡単に触れているが、ここでその「手記」についても少し詳しく述べて見る。(手記は治療者側から指示されたものではなく、自分の自発的な行為であった。)


タイトルは「手記 森田療法を受けてみて」としている。
400字詰めの原稿用紙に手書きで書いたもので、総ページは29枚で構成されている。
冒頭部で「第三者に読んでもらうことをイメージしながら書く」と記述しているので、単なる個人備忘録として書いたものではない、と思われる。

手記には書いた日付が記してないので、前述の日記で調べてみると、退院間際の2月16日日に「書き始め」の文字が見え、21日の記載に「読み直してみると言いすぎたり、足りなかったところが目につくが完了とする」とあり、6日間をかけて書いたものと確認できた。

この間、定められた治療業務は通常通りこなしていて、その間の自由時間に書いたわけで、相当なスピードを持って書き上げたものと思われる。年齢の若い時期、記述の速度も早かったのであろう。とても今の私では、できる芸当ではない。

この中に森田療法を理解するうえで都合がよい文章が載っているので。少し長くなるがこの場で紹介してみる。(文は原文のまま)

作業について述べた個所である。
『森田療法は、朝起きてから寝るまで、いや寝ている時間を含めて、24時間すべてが森田療法であるが、その中でも、治療の根幹となるのがこの作業である。
作業には共同作業と個人作業とがあるが、本質は同じである。入院初期の何も分からない時期の不安は別として、作業の内容は通常社会のそれに比べ、非常に軽い。軽いがゆえに、こんなことで治るのかと患者は悩むが、治療者のいわれる「積極的に作業へ参加する」という本質を理解すれば、非常に効果がある。
例えば、サラリーマンの場合、仕事をサボってもお金はもらえる。しかし、森田ではサボる分だけ治療が遅れる。
『私は作業をしに来たのではない。治療をしに来たのだ。この目前の作業を自分の能力の限りで当たることが治療をなのだ。この作業を継続すれば、自分の病気は治るのだと信じて動け』と自分は理解した。
入院初期は、治療者は「作業が治療だ」と言っているのに、患者は「作業そのもの」に眼が行き、それが治療だと頭で理解しても、本質として、あるいは体感として、それができない。
それを感じ取れるようになれば、作業そのものに対する見方が変わってくる。私は入院後一ヶ月経った頃から、それを感じるようになった。それ以前でも作業に対して力を抜いたつもりははないが、それ以後は、いかにつまらない作業でも治療の対象となりえた。
治療者はバカの一つ覚えのように「作業に取り組め」、「逃げるな」、「ドキドキしながらでもやれ」と面接で、日記のコメントで言う。患者としては「何かもっと違うアドバイスはないのか!」といらだつが、結局はこれしかないのである。これをやるのが森田療法で、これができるか否かは患者サイドの問題である。
もし、これを真に患者がやりとげれれば、必ず治療上の効果は上がる。私はこれを後半の1ヶ月余り、
身にもって体験した。』

結論として、森田療法について述べた個所である
『結論を数字で表現すると、50%は目標を達成ができたと考える。50%の意味は、少なくとも森田の生活自体は、症状を感じながらも、必要なことは100%できる状態にまで回復したが、この状態を社会に戻って実行できるかどうかが、退院してみなければわからないからである。社会に戻って、症状は感じながらも、必要なことが実行可能になれば、100%目標を達成したと言えるであろう。
今の感じから言えば、社会に戻って100%とまではいかないながらも、合格点は取れるぐらいまで回復したのではないかと思っている。
入院前、全く自信というものをなくして居た自分が、少なくとも将来に明るい予兆を感じで退院日を待っている。この気持ちの格差の何と大きいことか。当然ながら不安はある。しかし、この森田での経験を活かせば、なんとかなるのではないかと思うのである。
森田の生活は平凡である。こんなことで症状改善になるのかという疑いがあるが、結果としてみれば、知らぬまに症状改善になっている。森田療法とはそんなものである。』


このような経過を経ながら退院に向かうことになる。
退院日は2月23日であったとはすでに記述した。
ただし、主治医から退院日を告げられたのは、日誌を読み直すと2月19日となっている。
そのことを当時の患者に告げたのは20日であった。

それ以後、私宛の特別な動きをしてくれた人がいて、最後の退院のときに渡してもらったものがある。
関係者全員が、私宛の言葉を記したサイン帳である。
記入者を数えてみると、主治医他ドクターが7名、寮母さん、そして患者が14名からなっていた。


写真左がサイン帳の全体図。
右が揮毫してくださった方の内容の一部。全員の方の紹介ができないので、特にお世話になった3名の方のものを抜き出した。
うち左の写真は、今回撮影にあたり、思い出の便(よすが)とすべく、私が写真を置いて一緒に撮ったものである。
上から順に主治医、寮母さん、そして患者のSさんである。


特にSさんは懐かしい。
入院中もいろいろな場面で楽しく付き合いさせてもらい、そして、このサイン帳を企画してくださったのもSさんである。
私が退院した年の秋の頃と思われるが、当時の院患者共々山梨県を訪ねてもらい、我が家にも来てもらったことがある。


Sさんが森田室を退院された以降も何度か手紙のやりとりを行い、結婚されたという報告もいただいている(らしい)。
Mに言わせると、「ウェディングケーキを前にした写真が載っていた」と言うが、私にはその記憶が一切ない。
今回の機に合わせ、ありそうなところをあちこち探してみたが、結局見つけることができなかった。


退院日の1991年2月23日は土曜日。
月曜日になる25日に会社に出向いて挨拶を行ない、2月28日から勤務を再開している。



2026年6月2日(火) ラベル602
私の履歴書 「神経症」との戦い その2 森田療法室入院(前編)
私の履歴書シリーズ その50である。

前回は、「神経症」治療の一環としてま静岡県にある龍澤寺というお寺に参禅したことについて触れた。
 こちら→(2026/5/27)

今回は、慈恵医科大学病院の付属設備である「神経症」を対象にした「森田療法室」という施設に長期入院したことについて触れる。
入院したのは、参禅したのと同じ年の平成2年(1990年)秋のこと。年齢は46歳の時であった。

結論から先に述べると、4ヶ月にわたる長い入院であったが、結果としては、「かなり軽快した」という実感を持って退院することができた、と思っている。


きっかけは、三井金属が加入している健保組合が発行している機関誌「すこやかファミリー」と言う冊子であった。


1990年の6月号。Mが「この冊子は捨ててはならない」と大事に保管していたものが残っていた。
森田療法についての記事が6ページにわたって掲載されている。
私が治療についてもっとも悩んでいた時期に、奇しくも発行されたわけで、そういう意味では運命的な出会いを感じなくもない。
Mが受けてみたらと教えてくれた。


話が一旦ずれるが、入院の最終盤において私は「手記」を書いている。このことについては詳しく後ほど述べるつもりであるが、この「手記」に、冊子に記載された記事を読んだ時の感想を記している。
記憶が鮮明な時期に書いているわけで、今思い出して記述するよりは事実に近いと思われる。
ここに引用してみると「手記」には、次のように記載していた。

『昨年の6月頃であったと思うが、会社の健保が配っている「すこやかファミリー」という小冊子に森田療法の紹介記事が掲載された。それまで森田療法という名前は聞いたことがあったが中身はほとんど知らず、その記事を読んで案外自分の症状改善には良い療法ではないかと感じた。山梨医大の先生に相談したところ、受けてみるのもよいであろうとのこと。長期入院を覚悟せねばならないので、会社の上司に相談をすると、自分の健康を最優先で考えるべきであるとの返事をもらう。迷った末ではあるが、7月慈恵第3病院を訪ねる。2回目の外来の8月3日に入院手続きを終え、森田棟の見学も行う。入院日が決定すれば電話にて連絡するとのことで、毎週水曜日には家内は家を留守にしないようにし、待ちに待ったが、結局入院できたのは10月31日であった。
会社には入院の前日まで出社した。』


ところで、森田療法とは、いかなるものであるか、ここで少し整理してみる。
先の冊子の副題には、『「あるがままに」を体得し、心を解き放つ』とあるが、

も少し、説明を加えると

『森田療法とは、不安や症状を無理になくそうとせず、「あるがまま」に受け入れながら、やるべきことをして生きていこうとする考え方の治療法である。
人は、不安を消したい、緊張したくない、苦しくなりたくないと思うほど、かえってその症状に強くとらわれてしまう。森田療法では、この「とらわれ」が苦しみを大きくしていると考える。
そのため、不安や感情は自然なものであり、完全に意志の力で消し去ることはできないものとして、まず「あるがまま」に認めることを重視する。
そのうえで、気分に振り回されすぎず、不安があっても現実の生活や、今なすべきことを続けていくことを大切にする。
つまり、「不安が消えてから生きる」のではなく、「不安を抱えながらでも生きていく」という姿勢を重視するのである。』

となる。

ただこれらの考え方は、理屈では理解できても簡単に身につくものではない。
これを体得するためには訓練が必要で、そのために入院をもって実践し、身につけるのである。
私の場合はほぼ4ヶ月間入院した。退院したのは翌年の平成3年(1991年)2月23日である。


森田療法では
・日記
・作業や運動
・規則正しい生活
などが重視される。

それらの結果を示す資料を箱に入れて保存していた。



最初がまず日記。


B4のノートに毎日の思いや出来事を記述して提出する。その内容に対して主治医や他のドクターがコメントを書いて戻してくれるというシステム。
退院にあたって、それをコピーして持ち帰ったものである。
B4見開きでコピーしたもので、今回数えてみたら58枚に登った。
日付の他に入院後の日数が記述してあり、最後のページの2月22日は入院後115目となっている。

入院中の様子も窺い知ることができるので、日記の中から無作為に2枚、比較的初期のものと後期のものを選んでみた。



次は写真。
入院中の様子を伺い知ることができる写真を2組。
(私と寮母さん以外の他の患者には、モザイクがかけてある)

まず、作業と運動の様子。



次が森田室、室内の様子。


食堂と休憩室である。


予定の紙面が尽きた。続きは次回に回す。



2026年6月1日(月)
過ぎたるは ・・・
今どき、2階自室から外を眺めた時見えるのがヤマボウシの花である。

ところが、その白い花が今年は特に多い気がする。
確かめるため、昨年の咲き様を見てみようと、写真を探してみたら運良く出てきた。


比べてみると、確かに今年は花の数が多く見える。気のせいだけではないようである。


当地では、木に咲く白い花が多い年は豊作と言われているが、そのような言い伝えは、各地にあるのかチャットGPTに聞いてみると、次のような答えが返ってきた。

『日本には、「山の木々に白い花が多く咲く年は豊作になる」という言い伝えが各地にあります。ミズキやウツギ、コブシなどの白い花が山に目立つ年は、稲や畑作物もよく実ると言われてきました。

これは、花が多く咲く年には、冬から春にかけての気温や雨量などの気候条件が安定していることが多く、農作物にも良い影響を与えるためと考えられています。昔の人々は、山の花や木の実の様子を自然の兆しとして観察し、その年の天候や作柄を判断していました。科学的な法則ではありませんが、長年の経験にもとづく自然観察の知恵といえます。』


ヤマボウシの花が多く咲き、今年は豊作になればそれは嬉しいことにちがいないが、どうも、眼前に見える景色としてはうるさく見え、“過ぎたるは及ばざるが如し”の感を受け、景色を見る側としては嬉しくない気もするのである。