2025年1月31日(金) ラベル131 |
ダイカスト生産量のグラフを作る |
私の履歴書シリーズ こちら→(2025/1/25)
に絡む話題になる。
Kが三井金属に入社し、配属された場所はダイカスト事業部と言い、亜鉛ダイカストの生産を主務とする職場であった。昭和43年(1968年)のことである。
そして退職したのが、平成13年(2001年)で、最後の勤務地神岡部品でも、生産の大半はアルミと亜鉛のダイカスト生産であった(そのほかには、粉末冶金と自動車部品の組み立て)。
現役時代のすべてがダイカストに関わったものと言える。
ダイカストという産業は第二次大戦後発展したもので、自動車や家電製品などに多くの部品を提供していて、日本にとっては今や欠くことのできない産業の一つである。
このダイカスト産業に、Kが関わった時代はどういう位置を占めるのか知りたいと思い始めた。
この場合ダイカストの生産量をグラフ化してみて、その中でKの携わった期間を重ねれば、およその関係がわかるかもしれないと考えたわけである。
こんな経緯でダイカスト生産量をグラフ化する作業に着手した。3日前のことである。
ただしこの作業は思ったほど簡単ではなかった。
少々苦労したので、忘備の意味も含めてここに掲載することにする。
最初に試みたのが(社)日本ダイカスト協会のホームページを覗いてみることであった。
日本ダイカスト協会は、日本におけるダイカスト産業の元締めにあたる団体で、Kが入社した当時は足繁く通っていた団体でもある。
東京タワーのすぐ前にあるビルの5階に事務所があった。
検索をかけるとホームページが出てきた。 こちら→
事務所の場所は、当時と同じ場所と記載されている。
当然のことではあるが、事務局長は、Kが懇意にしていただいた方とは代わっていた。
狙いのダイカスト生産量を探すと、「統計」という項目があって、その中にExcelファイルまたはPDFファイルのどちらでも表示できる形式で値が示されていた。
Excelファイルを開くと、アルミ、亜鉛そしてその他、の合金別のデータが表示されている。
必要な個所をそれぞれコピーして、我が方のパソコンのExcelファイルに貼り付けた。
これをもとにグラフを作る。(写真右)
ただし得られたデータは1999年から2023年までの値で、それ以前の値の掲載はない。
これ以前のデータのグラフ化は、日本ダイカスト協会以外のデータを探すことになる。
予定の紙面が尽きた。これ以後の話は次回に回すことにする。
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2025年1月30日(木) |
避難時食料旧品の試食 |
一昨日に記載した避難時食料に係わる話である。
一昨日記載したように、避難時用の食料はすべて更新することにしたが、それで出てくる旧品の処置のことである。
食べられるものと、食べることにならず廃棄する物とに区分けする必要がある。
昨日のことであるが、その手始めの作業をした。
昨日は夕食当番で、その業務の中の一環として、旧品の試食作業も兼ねながら行った。
旧品ばかりで料理をして、すべて食べられない場合は夕食にならないので、一品は問題のない材料を選んだ。
正月用に買ったブリの頭の半分が冷凍で残っていて、ブリのあら煮である。
あらを熱湯につけて霜降りにし、チアユなどを除いて、あとは煮る。これまでに何度か作った経験があり、問題なく美味しくできた。
そして、問題の旧品の試食試験になる。
最初が米である。
旧品のペットボトルから、通常通り3.5合の米を取り出した。新米に比べるとわずか変色している気がしないでもないが、その他は全く問題がない。
いつも通りに炊飯器で炊いてみた。
食べた結果であるが、できたご飯は、水気が少なくポロポロである。食べられなくはないが、美味しくはない。
昨夜はそのご飯で夕食を終え、残りはチャーハンを作る時に使うものとして冷凍した。
そして本番の一汁二菜。
一菜はブリのあら煮があるので残りの、一汁一菜である。
菜にはサバ缶を使い、汁にはチキンラーメンを試すことにした。
サバ缶と大根・白菜の煮物。参考にしたレシピは こちら→ 缶詰には問題が全くなく、できた料理の味も誠に上出来であった。
チキンラーメンは汁の具材として考えた。一人半分ずつで作るつもりで、割ってみると、湿気もなく綺麗に半分になる。
ラーメンの袋に、熱湯かける方法と、鍋で煮る方法の二つの記載があったので、今回は煮る方法を選んだ。
熱湯で煮込んで1分である。たまたま温泉玉子があったので、それと、きざみねぎをトッピングした。
その出来栄えであるが、結果はあまり芳しくない。
油が酸化したのか、さわやかさがない。Mは初めの方で「申し訳ないが止めにする」と言い、Kは半分くらい食べたところで、止めにした。
結論として、残るチキンラーメンは廃棄することにした。
処分の方法が決定してない旧品が、まだ数点残っている。
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2025年1月29日(水) |
春いずこ |
ウォーキング時に撮った写真である。
左3枚が一昨日、右3枚が今日撮ったもの。
1月9日、10日で降った雪が こちら→(2025/1/10)
ほとんど溶けて、このまま春が来るのかと思っていたが、昨日と今日で30cmの雪が降り、再び雪景色である。
この間比較的暖かく、このまま春が来るのではなどと思っていたが、どうもそうではないらしい。 予報によれば、今度の土・日には再び寒波が来るとも言う。
考えてみれば、未だ”寒の内”。
春が来るには早すぎる。
本格的な春は、もう1月先のことであろう。
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2025年1月28日(火) ラベル128 |
避難時食料の更新 |
前回の体操教室の折り、きっかけは忘れたが防災の話になって、その時、「我が家では防災食を1週間分別棟に保管している」と自慢げに紹介した、ことがある。
そのことに嘘はないのだが、その“避難時食料”を長い間更新していないことを思い出し、今回別棟から持ち出してきて交換することにした。
蓋を取って少々びっくりした。出てきたのは、「2021年2月更新」というメモ書きである。 長い間更新していないとは思ったが、丸4年も更新していないとはを持っていなかったのである。
中に入っているものは、4Lのペットボトルに詰めた米、醤油などの調味料、缶詰、そしてインスタント食品の類である。
賞味期限を見てみると大半の品が、2021年の半ばから後半にかけてになっている。
一般の食品の賞味期限がその値になることは理解できるが、缶詰類の賞味期限も、2021年となっている理由が理解できない。
その時気がついた。
今回の出てきた品物は一度更新したものである。その更新経緯を小欄に載せている可能性もある。
探してみると出てきた。 こちら→(2021/2/26)
缶詰とインスタントコーヒーは2021年に更新せず、2018年の品が残っていたのであった。
これで賞味期限の謎が解ける、そして結論も明快。塩と梅干し以外、今回はすべて更新である。
以上を踏まえて、今回の反省点である。
これまでも更新の気持ちがなかったわけではないのに丸4年も放置された原因は、更新ルールが不明瞭であったことに起因するとも思われる。
今回これを機に、ルール作りをすることにした。
今後は何も考えずこのルール通りに行えばよい。
買い物リストとして
・毎年買うもの
醤油(中瓶)、味ぽん(中瓶)、削り節(小パック詰め)、チキンラーメン、インスタント味噌汁、しおっぺ、焼き海苔、インスタントコーヒー(中瓶);すべて各1個(袋)
・2年に1回(奇数年に)買うもの
缶詰(鯖缶×4、イワシ缶×2、サンマ缶×2、貝類缶×2);合計10個
冬仕事として
毎年1月に行う。
原則、阪神大震災の発生した1月17日を当該日とする。
(テレビなどで防災の報道をするであろう、我が家の”更新”を思い出す、はずである)
備忘のため、スマホカレンダーに毎年表示されるよう設定した。

(左が今年、右が来年のカレンダー) |
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2025年1月27日(月) ラベル127 |
私の履歴書 生地の「上田屋」 |
私の履歴書シリーズ その2である。前回は こちら→(2025/1/25)
誕生の経緯に触れる。
Kは昭和19年(1944年)5月8日に上田義衛、清子の長男として生まれた。上に姉が2人いて、末っ子の長男である。
場所は、島根県邑智郡石見町(現邑南町)矢上、集落名は七日市と言う。その昔牛市が開かれていたというのが集落名の謂れとされ、その市が開かれたという場所の記憶が今でも残っている。
屋号があって上田屋と言う。
Kらは勤務の関係で関東地方を中心にあちこち住んだことがあるが、生活習慣で屋号を使う地域に住んだことはなく、屋号が根付いている、というのは珍しいことかもしれない。
後年、義衛が上田屋の経歴を残している。
「過去帳」という、関係する歴代の人々の亡くなった日を記録したものと、それをもとにした家系図である。 この記述の中で確認できる最も古い記録は、弁左衛門いう人が文政3年(1820年)5月10日死亡という日付になっていて、今から遡ると、丁度200年ほど昔のことになる。
もともとは「上田」という屋号の家があって、「上田屋」はその上田からの分家と言う。
「上田」の所在地は全くわからないが、「上田屋」の所在地は、Kの生地である七日市の家と思ってよいのであろう。
分家した年代の記載はないが、家系図から推定すると、江戸の末期か明治の初期のころと思われる。
「上田屋」の初代は忠五郎という。
二代目は忠五郎の長男増市とその妻サダヨ。
ただし、その増市・サダヨ夫妻に子供が生まれなかったため、忠五郎の6男である義衛が増市夫妻の養子になって、跡を継ぐことになった。妻の名前を清子といい、三代目になる。
義衛、清子が結婚したのは昭和8年(1933年)で、義衛33歳、清子23歳の時であった。
この2人の子供としてKが生まれたわけで、話が冒頭に戻るわけである。
Kが生まれた時義衛は44歳、清子は34歳であった。
姉弟3人の、昔の写真が残っている。
Kが記憶に残る最初の家族の面々は以上の人々になる。
祖父母(実際は叔父叔母になるが)と両親、それに姉2人とK。
合計7人の家族であった。
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2025年1月26日(日) |
久しぶりの 大人の絵本 |
数日前、写真に撮っておいたのを思い出し、印刷して製本した。
久しぶりの“大人の絵本”である。
図書館で借りた「暮しの手帖」から引用したもので、すでに返却していて、何号であったかは思い出せない。
返却の前、何気なく開いていて目に留まり、急に大人の絵本用に写真に収めたものである。
大人の絵本にする場合、何か雑誌など捲っているときに閃くことが多く、今回の場合は、最初のページの「思い通りの人生なんて」という文字に惹かれて撮る気になった気がする。取材対象の“ささめやゆき”さんを承知しているわけではない。
製本後“ささめやゆき”さんなる人物をネットで調べると、版画家で絵本作家でイラストレーターであるという。 写真に写る、髪が黒くふさふさとした様子から、若い人かと想像したら、1943年生まれでKより1歳先輩らしい。
これまでは全く無意識の人であったが、今後は注目してみようと思い始めている。
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2025年1月25日(土) ラベル125 |
私の履歴書 プロローグ |
以前小欄に、「私の履歴書」について掲載したことがある。今回探し出してみると、1年以上前のことであった。 こちら→(2023/10/4)
その文末に「ぼちぼち始めてみようか」と記載しているが、昨年の傘寿の年には結局実行できなかったわけで、年を越して、ようやく着手しようかと思い始めているわけである。

(左は、今年の我が家の年賀状、
右は、今年正月に、孫に始めて撮ってもらったK) |
これまでの80年間を振り返ってみると
0〜23歳の大学を卒業するまでの23年間で、住んだ場所は生地の矢上と北九州市戸畑の時代。
次が、三井金属に勤めた期間で、24〜57歳までの34年間。住んだ場所はあちこち、いわゆる転勤族の時代。末尾は神岡での10年間になる。
そして最後が、58から80歳の今日までの23年間で、終の棲家となった八色石での生活。始めの4年間こそ社会福祉協議会に勤務したが、その後は無職。「里庭」作りが中心の“閑”に生きた時代。
の三つの時をを過ごしたと言えよう。
この80年間を、「私の履歴書」風に、振り返って記述してみようかと思っているわけである。
先で変わる要素は含んでいるが、今考えているのは、およそ30回程度に分けて記載する予定。 できれば、今年中には終えたいと思っていて、頻度は、月3回前後の積りである。
小欄始まって以来の大型企画であるが、小欄も今年が丁度10年目。
この企画が終了したのちは、小欄が閉刊になっても悔いは残るまい思っている。
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2025年1月24日(金) |
備忘録の印刷と転記 |
先日、年が改まると過ぎた1年分のデータをまとめる作業があると記述したが、 こちら→(2025/1/16)
今回もその類の話。
Excelで作った「備忘録」があって、それへの入力は日々音声入力で実行しているのだが、出来上がった1年分の備忘録を印刷し、それを元にして、これまたExcelで作った「家族の歴史」というファイルへデータを転記する作業を行った。
上の写真が、一年分の備忘録を印刷したものである。
A4、1枚に12日分印刷する仕様になっていて、31枚の綴りである。
印刷するには二つの目的がある、
一つは、過去の備忘録を紙ベースで一部保存しているので、その保存用のためで、もう一つは、家族の歴史というExcelファイルへの入力時の元資料とするためである。
「家族の歴史」については以前触れた。 こちら→(2023/5/10)
このファイルへ昨年分のデータを入力する作業である。
一年分の備忘録を読み返して、必要な個所を転記する。 単純な作業なので、すぐに眠くなる。一年分のデータを入力し終えるに、3、4日かかった。
これをもって、昨年度のデータをまとめるという作業は、一応完了となる。
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2025年1月23日(木) |
薪ストーブの煙突掃除 |
12月末から使い始めた薪ストーブであるが、こちら→(2024/12/28)
1ヶ月近くなって燃えが悪くなってきた。
炎に勢いがなくなり、ストーブの前面に貼ってあるガラスに煤が付着し中が見えにくくなったりする。
こうなると、煙突の掃除が必要で、毎年一ヶ月前後使った、使用期間の半分程度の時期に、掃除をするのが慣行である。
掃除の手順はきまっていて、問題は少ない。
ストーブを少しずらして、煙突の縦になった部分を外す。煙突の横になった部分の端に煤を受ける袋をぶら下げる。
掃除は、外から行う。先端にブラシがつき、三つに分かれた掃除道具があって、これをつなぎ合わせて柄の長い掃除ブラシを作る。
脚立を使って、このブラシを煙突の縦方向と横方向に差し込み、付着した煤をかき落とすという作業になる。
段取りで最初に外した煙突の縦の部分は、焼却炉に運んで、これもブラシを使って掃除をするという恰好である。 元に戻して組み立てれば、これで掃除は終了。およそ30分あまりの作業である。
この掃除作業を。今年もう一度行うことになろう。
それは、ストーブを使用する末期の時期で、2月の中・下旬と思われる。
その時期は、すでに春が近くなっている。
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2025年1月22日(水) |
サロン田屋 |
今年になって2回目の「サロン田屋」に行ってきた。
11時頃田家につき、台所に顔を出すと、普段とは違うペアの方たちが食事を作ってくださっていた。「Tさんは用事があって、私たちなのよ」ということらしい。
Tさんは、普段食事を作る傍ら、その後で行う体操のリーダーでもあるので、今日の体操はどうなるのかなと思っていたら、ほどなくTさんも田家に戻ってきた。
今日のスタッフはTさんを入れて3名になる。
一方参加者は、普段参加する人で、用事があったり、体調が思わしくなかったりして欠席者が多く、参加したのは4名であった。
ほどなくして昼食になる。
昼食を作るスタッフが変わると、メニューの趣も少しばかり変化がある。今日のメイン料理は煮込みラーメンであった。それにおにぎり、盛り込みの副菜、漬物と言うメニューである。
昼食のあとは、大方の人は雑談であるが、私は昼寝をすることが多い。
寒くない時期ならそのまま畳の上で昼寝をするのだが、今の時期は寒い。車に寝袋を積み込んでおいて、昼寝をするときは車から持ち込み、それで昼寝をする。今日もそのようにして昼寝をした。
30分弱は昼寝をした。
その後が体操。体操は30分あまり。
そして「お茶」になる。
お茶でもスタッフの手作りの品が用意される。今日はスイートポテト。
昼食同様、これも美味しい。
帰宅したのは午後3時過ぎであった。
昼寝付き、体操付きでお昼とお茶。
これで500円であるから、まことに有難い制度である。
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2025年1月21日(火) |
集落用会計プログラムの改善 |
昨年もこの時期に記載しているが こちら→(2024/1/16)
「中山間地域支援交付金」という事業の会計報告書を作成する作業である。
一昨日のことであるが、今年もボツボツ話がくる頃だと思っていた矢先に、「世話役」とする方から電話が来た。
「いつまでもお世話をかけてはいけないと思い、自分ら2人で作業を始めたが、不明の点がある。教えてもらえないか」という趣旨であった。
場所は、この交付金などをベースに建てられた集落所有の建物の事務所。早速出向いた。
パソコンの電源が入り、渡し済みのExcelプログラムが開かれている。
プログラムには簡単な操作手順書を添えていて、その手順書はすでに印刷されていた。
手順書を元に順次作業を進めてゆく。手順書に書いてない説明事項などを、相手は手順書にメモを追加するなど。
1時間あまり、この入力作業を進めて、ほぼ終盤になった頃である。
帳票の最後部に、通帳残高を算出する個所があるのだが、その残高が、実際の通帳残高に合わないのである。
調べてみると、支給額総計が理論値よりも少なく、残高が合わないのであった。
以前にもこういうことがあって、そのときはルールが改正されて支給額が高くなったのだが、その時はプログラムの隠れた部分で操作をして結果が合うよう修正していた。
手順書には、その操作方法などは書いてない。
このまま渡しては問題が残ると考え、プログラムを修正することにして持ち帰った。
修正作業はその日の午後である。
今後とも、何らかの要因で支給額が変わることはあると思われる。
これまでの支給額を積み上げるという方式を変え、支給総額を元にして、その後の帳票作業を展開する方式に修正することにした。
同時に、会員への支給額は支払済で変更はできず、これも元値にするよう修正した。
それらの元値の入力場所は、これまで帳票の作成日などを初期値として入力していた、シートの「メニュー」である。
赤枠で囲んだ、「交付金額」と「個人払額」を、この場所で入力する。
この「メニュー」の下段にはデータ処理として使うマクロを操作するボタン名が配置してある。
一方、これらの計算処理をどこで行っているか示すと次である。
このプログラムの中心部というか、舞台裏というか、の場所になるが、シート「計算結果」という場所(表示はその一部)で行なっていて、上段の写真では処理結果の数字が並んでいる。下段はその背後にある関数が載っている。
緑色で塗った二つの列を今回新設し、×印で消した三つの列は、これまで使っていたが今回は使うのをやめた列である。
修正には思った以上に時間がかかり一昨日から、昨日の午前中までを要した。
ただし、若干の懸念が残る。
というのは、以前の“積み上げ方式”と今回の“元値方式”では結果に差が出るのではないかという疑問である。
昨日から今日にかけて積み上げ方式でも計算してみた。
最終結果で比べてみると、確かに僅かな違いが出る。
ただし、個人収支に問題が出るほどの大きな差ではない(この値が個人の確定申告で使われる)。
今回の修正した方法で、今後問題なく使用できると判断した。
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2025年1月20日(月) |
八色石産のネギで鍋 |
八色石集落に米を作る傍らネギも作る農家があって、毎年冬になるとその農家からネギを分けてもらう。
米を入れるための大きな紙袋に満杯に詰めて2袋。値段は破格の格安である。
畑から抜いたままの、葉っぱ付き、土付き、根付き、で来るので、袋に詰めて縦にしておけば長期保存ができる。
そのねぎで鍋を作った。
今日はKが夕食当番で、何にしようかなと独り言を言ったら、そばで聞いていたMが、「ネギ鍋にした」らと言うのでその言に従ったわけである。
土がついた表皮をむいたのは3本であるが、切ってみると2本で間に合いそうなので、1本は後日用に保存した。
参考にしたレシピは藤井恵さんの鍋の本。
「長ネギ豚しゃぶ」である。
準備するのは、材料とつけダレを用意するのみ。
あとは煮ながら食べるだけである。
これまでに何度も食べた鍋であるが、今回も美味。
しめは餅でなく、先日ゆがいた乾麺のうどんが余って、冷凍したものを解凍して入れた。
これも良い。
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2025年1月19日(日) |
ハミ焼酎 |
一ヶ月くらい前からのことであるが、右足首の後方がひどく痒い。
このような症状は、部位は異なるが以前からも出ていて こちら→(2022/10/11)
老人性の乾燥肌が原因らしい。
発症したときは、クリニックで、その後もたまにもらっている保湿剤や薬などをつけたりしていると、いつの間にか気にならなくなってくる。
今回も、以前と同様な処置をして来たのだが、今回はなかなか治らない。
そんな話を数日前Mにしたら、ならば、これを試してみてはと言って黒い液体の塗り薬を出してきた。
プロポリスである。養蜂時に出る副産物で、外傷に効くと言われている。 そのプロポリスを3日ほど塗ってみたが、ほとんど効果は現れなかった。
いよいよクリニックかなと思案をしていた折、もう一つ閃いたものがあった。
「ハミ焼酎」である。
もらい受けた経緯は失念したが、集落に住むハミ取り名人から一年程度前に頂いたものがある。 ものは試しで塗ってみることにした。
今日で2日目である。
その結果であるが、赤くふくれている感触が、触ってみると少し硬くなって来たような気がしないでもない。
ひょっとしたら、効果があるのかもしれない、と思い始めた。
もう2,3日続けて塗ってみるつもりである。
それでもダメなら、いよいよクリニック行きである。
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2025年1月18日(土) |
照ノ富士引退 |
横綱・照ノ富士が引退した。
引退を表明したのは昨日の朝、午後には記者会見も行われたと言う。
それを報じる読売記事。今朝の社会面である。
スポーツ面でも大きく報じられているが、社会面にも掲載されるところが逸材の証である。
小欄でも何度か取り上げていて、その掲載日を引用すれば次である。
こちら→(2020/7/21)
こちら→(2020/8/2)
こちら→(2021/5/23)
こちら→(2021/9/12)
Kが、照ノ富士の引退を知ったのは、昨日の相撲中継時である。
4時半過ぎから見始めたのだが、その中継中にも、何度か引退のことに触れられた。
午後に開かれたという記者会見の様子も紹介され、「一番記憶に残る相撲は?」と聞かれて、照ノ富士が答えた取り組みも放送された。
平成31年の春場所、復活のきっかけとなった、序二段での最初の相撲である。
(動画は消去)
ここから出直して、最後は横綱にまで上り詰めたわけである。
同じモンゴル出身の横綱・白鵬と比較されることが少なくない、
白鵬に比べ、数字も少し劣り、顔も厳つい。
しかし、白鵬に比べ潔いところが誠に良い。
かつて国鉄総裁の石田禮助氏が、自分を評して述べたと言う「粗にして野だが卑ではない」という名言が、照ノ富士にもぴったり当てはまる。
贔屓の相撲取りがまた一人いなくなった。
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2025年1月17日(金) |
あれから 10958日 |
今日は阪神大震災が起きてから丁度30年目の日になる。
起きたのは1995年1月17日、5時56分。
新聞やテレビなどが、こぞって特集の記事を流している。
今朝の読売では
見開き2面で特集記事を構へ、起きた日から今日が10958日目に当たるとし、以降の経過を総括している。
NHKは各主要ニュースで特別番組を流していたが、
朝のニュースの場合は、発生当時の生々しい映像の再生も行っていた。
一方我が身は、神岡部品に勤め始めて3年目の年になる。
偶然にも、一昨日、当時住んでいた社宅の写真を小欄に載せている。 こちら→(2025/1/15)
その下段の写真で、ロッキングチェアを置いている部屋が映っているが、その部屋でこの地震を始めて承知した。
その部屋は4畳くらいの広さで、異形の形をした板の間であったが、その部屋を自分の居室にしていて、小型のテレビも置いていた。ソニー製の外側が赤いブラウン管テレビである。
当時は今のようにNHK一辺倒ではなく、民放も見ていて、承知した番組はフジテレビの「ズームイン!朝」。
たしか、福留功男アナウンサーがMCを務めていた時期である。
燃え盛る中継映像が記憶に残る。
この地震でもう一つ思い出す出来事がある。
仕事に関わる話だが、神戸にある会社に陣中見舞いに行った記憶である。
神岡部品のお客さんになる会社で、神戸に工場があった。飲み水が不足しているとの情報で、奥飛騨から出る銘水をペットボトル詰めたものを持って行った。
段ボール詰めしたものをトラックに積んでの見舞いである。
営業課長ほか3人で行った記憶がある。
一昨日の記事で、「こないか」と社長に誘われたと記しているが、地震の前年に社長が交代していて、新社長は営業出身の方。その影響があるのか、社長が“外交”、私が“内政”と、仕事のやり方を大きく棲み分けしていて、自分がお客さんを訪ねることは多くない。
陣中見舞いにいった会社も初めて訪ねる会社で、応接室に通され何と言って挨拶しようかと緊張した記憶が蘇る。
それに反し、途中悲惨な景色を見たことと思うが、その記憶は全く残っていない。
大都市を襲った地震で、果たして復興するのかと、思った時期もないではないが、その後の復興事業も昨年をもって全て完了したという。
なんだかんだと言いはするが、まんざら日本も捨てたものではない。
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2025年1月16日(木) ラベル116 |
写真の保存 |
年が明けると、前の年一年分のデータをまとめたり、保存したりという作業が何件かある。
そのうちの一つ、写真の保存をした。
昨今、一眼レフで撮る写真は極めて少なく、対象となる写真の大半は、KとMがスマホで撮った写真になる。
撮った写真がどこに保管してあるかと言うと、スマホ本体ではなく、「Googleフォト」というクラウドに保存している。K用、M用それぞれ別のGoogleアカウントを取り、別保存をしている。
そのクラウドに保存された写真データを、パソコン経由でダウンロードし、外付けHDDの中に保存するという作業である。
写真では、左がGoogleフォトの内部を示し、右がHDDの内部の様子を示している。
右の写真で示すように、データは年度ごとカメラ別に分け、さらにその中を2ヶ月ごとのフォルダに細分化している。
誰がいつの時期に撮ったか、分かる仕組みになっている。
(ここには、2001年以降のデジタルデータを保存している)
具体的な作業は、左の画面を開いて、ダウンロードする写真を選択し、ダウンロードさせる。
原則、2ヶ月分の写真データを選択するのだが、2ヶ月分で何百枚かの写真になり、ダウンロードさせるに10分弱はかかる。
ダウンロードしたデータは仮保管と言う形になるので、その仮保管されたデータを、今度はHDDの中に移し替えると言う作業である。
今回移し替えたデータは、Kのものが4.4Gで3755枚。Mのものが、7.8Gで2030枚となっている。
Mの場合、枚数が少ないのに容量が大きいのは、写真サイズがKより少し大きい他に、LINEで送られてくる写真などもGoogleフォトに同期させていて、送られてきた孫の動画がかなり入っている為とも思われる。
2人分のデータ整理で半日近くを要した。
何ゆえこのような面倒をかけるかと言うと、二つ理由があって、一つは終活である。永久にGoogleと契約することはないので、HDDに保存して、永久保存にするためである。
もう一つは経済的な理由で、Googleフォトの利用を無料で抑えるためである。無料枠は15Gなので、Googleフォトのデータはいずれ消去せざるを得ない。そのための別保管である。
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2025年1月15日(水) ラベル115 |
古いアルバム |
Mが仏間の押入れの整理を思い立ったらしい。その時、古いアルバムが2冊出て来たという。
古いアルバムは、原則「別棟」に置いていて、なぜ押し入れから出てきたか、判らないらしい。
出てきたアルバムは、神岡に勤務をしはじめた時のもので、平成4年(1992年)、誕生日が来ればKが満48歳になる年のものであった。
勤務の会社は、三井金属の子会社で、名前を神岡部品工業株式会社という。
その年の正月を越してからのこと、部品の社長から、「来ないか」と声がかかり、急遽「行く」という決意を固めたという経緯がある。
その時は、息子は高校2年から3年に代わり、娘は中学を卒業し高校へ入学する年に当る。
皆に相談をかけたら、娘が「ついて行ってもいいよ」と言ってくれ、神岡には工業高校しかなく古川にある吉城高校を受験して、Kと娘が神岡に移り、Mと息子が山梨に残って大学受験に備えるという、変則の1年を過ごした時のことである。
父と娘の生活は、なんといっても食事が大変であった。
朝食はKがパンか何かで簡単なものを作る。昼食は娘が弁当を自分で作り、Kは会社の食堂で取る。夕食はKが大半を作った。
当時はまだネットの無い時代で、家にあった料理の本を数冊持ち込み、その中から1週間分の献立をたて、買い物をし、夕食を作った。
娘の口には合わなかったらしい。
それを補ったのがMで(住んでいた場所は山梨)、軽自動車で松本経由安房峠を超え、神岡まで来て食事の作り置きをしたり、また場合によっては荷物で送ったりして、何とか一年を過ごしたのであった。
後年のことになるが、娘が言うに「あの時、もう少し美味しいと言って食べてあげればよかった」と、笑いながら話していた。
幸いにしてその翌年、息子は大学に合格し東京で住み始めたので、Mは神岡に移り、住み始める。
以後、神岡での長い生活が始まることになった。
Mは9年、Kは最初の1年と合わせて計10年の神岡生活である。
振り返れば、人生の中の価値ある10年で、往時のことを懐かしく想うわけである。
アルバムを見ながら、もう一度、当時のことを思い出したのであった。
奇しくも、先日この社宅のことに触れたが こちら→(2025/1/8)
三井金属ではなく神岡部品が建てた社宅である。
この社宅のすぐ上には、三井金属が建てた管理職用の社宅が建っていたが、こちらは長屋風で、それに比べると、我々が住んだ社宅はまことに住みやすかった。
最後の写真で後ろに立派な雪除け(雪吊り)が写っているが、これは会社が職人を呼んで毎年やってくれるもので、Kの作ではない。神岡独特の生活風習である。
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2025年1月14日(火) |
雪中の薪運び |
薪ストーブ用の薪の備蓄が無くなったのが、大雪が降った10日である。
10日一杯は燃せたのだが、11日朝には燃すものがない。
11日は良い天気で、薪を運ぼうと思い立った。
ただし、前日までに積もった雪が50cmほどある。
納屋から運搬車を出してみたが、1mも進まないうちに、雪に阻まれ前進できない。運搬車での薪運びは諦めた。
次に考えられる手が大形の橇。これまでに何回か実行している。 例えば こちら→(2023/2/5)
しかし橇でも、ある程度固まった雪が必要で、今回のように降ったばかりの新雪では、橇の通る道を踏み固める必要がある。薪小屋までの長い距離を踏み固めるのかと思うと、少々心が萎えた。
2,3日経てば雪も減る。
それまでは灯油ストーブで過せばよい、と横着心が起きてその日は薪運びを中止した。
そして今日の午後である。
雪の深さも20cm前後まで減っている。
運搬車を動かしてみると、操作に若干手間はいるが、ほぼ問題なく前進できる。薪運びを行うことにした。
今回は少し多めに積む。
これで5・6日は持つであろう。
要した時間は丁度1時間。普段の倍であった。
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2025年1月13日(月) |
亀屋のおばさん 逝く |
我が家の2階からも見える向こう三軒のうち、真ん中の家が松島さんのおばさんの家。ただし松島姓は八色石に何件もあるので、おばさんを特定するときは屋号を使って“亀屋のおばさん“と言う。
そのおばさんが亡くなった。
亡くなったのは昨日の朝。そしてその夜、通夜が行われ、今日は葬儀と出棺。
それらのいずれにも、立ち会わさせていただいた。
写真上段は我が家の2階自室から撮ったもの。電柱に遮られるが、その向こうがおばさんの家である。
写真下段左は、向こう三軒の左の家の“大籏さんのおばさん”と一緒に写った写真。右が亀屋のおばさんで、2014年にMが撮ったものである。
“大籏さん”のおばさんも、昨年10月になくなった。 こちら→(2024/10/2)
そして下段、右が遺影。了解を得て撮らさせて頂いた。
小欄に何度も登場する「別棟」という場所は、県道を挟んで亀屋の向かいにあり、そんな縁もあって、亀屋のおじさんおばさんには大変お世話になった。
我々が当地に越してすぐの頃、別棟の草刈りをMと一緒にしていると、おじさんおばさん2人揃って草刈り機を持ち、一緒に草刈りをしてもらったこともある。
おじさんは随分以前(2007年)に、亡くなっているが、Kの草刈り機の師匠はおじさんである。
おじさん亡き後はおばさんにお世話になった。
草刈機用丸刃の研磨機で古いのを頂いたのがおばさんで こちら→(2018/5/14)
筍の採取場を教えてもらったのもおばさんである。 こちら→(2022/5/2) また別棟で草刈りをしている時、“チオビタドリンク”を持って出て、「飲みんさい」と渡してもらったことが何度もある。
その「亀屋のおばさん」がなくなった。享年94歳。
喪主の話によると、1年余の入退院を繰り返して後の大往生と言う。
またお世話になった人が、一人なくなった。
晩年腰が少し曲がってきて、その曲がった腰の後ろに草刈り機を横にして乗せ、ひょっこりひょっこり歩いておられた姿が目に浮かぶ。
蛇足;
亡くなったのを承知したのは、昨日(12日)の午前11時頃。
ウォーキングに出たおり、たまたまおばさんの家の前を通ったら、おばさんの家の右隣りに長男(元校長先生で喪主)一家が家を建てて住んでいて、その長男が家の中から出てきてばったり会い、亡くなったことを知らされた。
正月明けであり、手伝いは不要とのこと。
さらに、当日の夜が通夜で翌日が葬儀という段取り日時も告げられた。
1月14日が友引である事の処置と思われるが、亡くなった日の夕方に通夜、翌日が葬儀・出棺という段取りは、通常よりもかなり早い。
日時確定のためには、役場、お坊さん、葬祭業者ほかの折衝が必要で、亡くなった日の午前11時頃にはその段取りが決まっていると言うことは、その間に大変な作業をこなさなければならない。
折衝力の凄さに少々驚いた。
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2025年1月12日(日) |
お好み焼 |
ネタ切れのピンチヒッター、料理の話である。
すでに何度か述べたように、朝食はMが作ってくれるが、昼食と夕食はKとMが交互に担当する。
Mが昼食を作ればKが夕食を作るというルールである。
Mが仕事に出る日はKが夕食を作る関係で、夕食を作る割合は、Kが若干多いかもしれない。
Kの作る夕食メニューは、原則一汁二菜であるが、その原則を破るメニューが鍋とお好み焼きである。
鍋とお好み焼きの出る頻度は鍋の方が圧倒的に多いので、お好み焼きが登場する場面はそう多くない。せいぜい月に1回程度であろう。
そのお好み焼きを作った。
お好み焼きの有り難いのは、調理は食べながら行うので準備だけで良い。
写真では上の3段が準備編で、今回用意した材料は、写真左上載せていて、豆腐、ムキエビ、チーズ、豚肉、銀杏、キャベツ、そしてトマトとなった。
最近では、作るにあたってレシピを見ることはほとんどないが、料理を作り始めの頃は参考にしたレシピがあって、それは今でもレシピ集に保存してある。
こちら→
こちら→
いずれも豆腐を入れるというレシピで、今なお豆腐があれば、豆腐を入れることを原則にしている。
小欄に、これまでお好み焼きを取り上げた記憶があって、ここにきて探してみると2回載せていた。
こちら→(2024/11/28)
こちら→(2023/4/23)
これらも合わせて読んでいただくと、今回の記載内容で不備のところを補っていただける。
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2025年1月11日(土) |
陽に映える雪景色 |
2日続けて雪の話で恐縮だが、昨日とは趣が異なる話題なのでお許し頂こう。
朝から、山陰では珍しい快晴に近い良い天気である。 しかも、積もる雪は昨夜まで降ったもので、これ以上ない新雪。
真新しい雪が、陽に映えるという、普段では見ることの出来ない景色になった。
冒頭の一枚は、Kが8時過ぎに2階自室から撮ったものであるが、残る写真は、すべてMの手によるもので、10時過ぎから、1時間近くかけて撮ったものである。 Kが撮った写真も他に何枚かはあるのだが、Mの写真の方が優れているので、Mの了解を得てそちらを掲載した。
そもそも、KとMとでは、写真の撮り方の姿勢が違う。
Kの場合は、物事を説明するための補助資料としての写真である。いわば、報道写真と言っても良いかもしれない。
一方Mの場合は、自分の思いを、写真に込めようとして映像を撮る。
背景や、構図を考慮し、自分の持つ美意識を写真の中に埋め込もうと配慮する。大袈裟に言えば、芸術写真を狙うと言って良いかもしれない。
そんな次第で、写真の出来がおのずと違う。Mの写真を採用した理由である。
Mは、この撮影に小1時間かけている。
この寒い時に、なぜそんな時間をと思うが、写真の他に、動画も撮っていた。
裏山で母屋に近い場所に欅と公孫樹の大きな木が立っているのだが、その木の枝に積もった雪が、陽の温もりで溶け落ちる様も撮っていたのである。
写真と異なり動画の撮影は相手がいる。こちらの思う通りに雪は落ちてはくれない。落ちてくるのを待つわけである。したがって時間がかかる。この動画を4・5本撮っていた。
中で一番良さそうなものを紹介してみる。
こちら→
スマホの手持ち撮影であるから、多少ぶれるのは致し方ない。
当地方で、このように雪が粉状に解け落ちる様子は珍しいことで、そういう意味では珍重すべき動画かもしれない。
今日はMの手による資料で、小欄を埋めることになった。
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2025年1月10日(金) ラベル110 |
本格的な雪 |
一昨日記述したサロン田屋での会話「今年は雪が少なくて有難いね」が一転して、今冬初の本格的な積雪となった。
昨日から今日に掛け、間断なく降り続いている。
目視だが、昨日の朝が10p弱、夕方が10p強、そして今朝のそれが30p強、夕方が40p強である。
冬でも雪がなく、しかも天気が良いと、外仕事でやり残した事柄などが気になり始めるが、雪が積もっていると、その気遣いが全くない。
何の憂いもなく、屋内で過ごすことができる。これが有難い。
それでも、日課にしているウォーキングだけは出るように心がける。
身支度をして出ると、雪もそれほど苦にはならない。
雨が降れば、ウォーキングに出る気は全く起きないが、雨に比べると雪の方が抵抗感が少ないのである。
少し余談めくが、昨年は異常気象気味で、暑い夏そして短い秋で冬に突入し、しかもなかなか本格的な雪にならず、このまま冬が終わるのではないかと思っていた矢先の今回の積雪であった。
冬には冬らしく、雪もちゃんと降ってほしい。
この先も時折降って、せめて1月一杯は、ゆっくりと「冬籠り」をさせて欲しいものである。
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2025年1月9日(木) ラベル109 |
林 新氏のプロデュース作品を観る |
1ヶ月前のことであるが、読売の記事「五郎ワールド」を介してして林新氏のことを承知した。
こちら→(2024/12/10)
そのときは、氏が生き方の参考にしたという映画“椿三十郎”を見たのであるが、今度は林氏がプロデュースした番組を見てみようと思い立った。
林氏については、先の記事以外何も知識がない。
とりあえずネットで検索してみることにした。
出てきたのが、次の記事である。
氏がプロデュースした作品名も載っていて、とりあえず、一番最初に紹介されている番組を探すことにした。
探す先は、NHKオンデマンド。
番組名を入れて検索をかけるとすぐに出てきた。
ありがたいことに無料である。
録画をして、それを見た。
3万人の日本兵が死亡したというインパール作戦のことを取り上げている。
1993年に放送された番組というから、30年前のものである。
50分の番組であるが、入念な取材の裏付けを持った、重厚な番組になっていた。
今年の7月末までは無料で見ることができるとあり、興味のある方は見られれば良い。
折を見て、別の作品も見てみようと思っている。
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2025年1月8日(水) ラベル108 |
神岡の雪 |
今日サロン田屋が開催され参加したが、その時の挨拶は「今年は雪が少なくて有難いね」というものであった。
一方、北陸や東北の雪は、近年まれにみる大雪と報じられている。
夕方のNHK番組“ニュースーン”では、この雪の状況を解説委員が説明していて、その説明の道具に国土交通省の道路情報提供システムというものを使っていた。
道路に積もっている雪の状況をリアルタイムで見ることができるシステムで、解説委員は東北の状況をこのシステムを使って説明していた。
今回の大雪の場合、我が家の関心事は、東北もさることながら、北陸の、現役時代最後の10年間を過ごした、岐阜県の神岡の積雪量である。
解説委員が使っていたシステムを使って、神岡の積雪量を見てみようと思いついた。 初めて使用するシステムで若干戸惑う場面もあったが、ようやく目的の神岡の情報に辿り着いた。
国道に積もる雪の量が数字で示されていて、近くでは1メートル前後の数字も確認できるが、我々が住んでいた神岡の中心地は、思ったよりも雪が少なく数字では24センチメートルと表示されている。
そして神岡の状況を示す写真として、かつて住んだ社宅から歩いて5・6分の距離にある西里橋付近の状況が写真映像で表示されていた。
10年間住んだ経験から言うと、町の中でも1メートル前後雪が積もるのは毎度のことで、24センチメートルというのは少ない方。
今のところは、さしたる問題はない状況と思われた。
神岡の雪を探したついでに、かつて住んだ社宅の様子も探してみることにした。 探す道具はGoogleマップのストリートビューである。
社宅は道の駅と直線距離で200メートル弱の距離で、道の駅を右手に見て、緩い坂を登った場所にある。
ストリートビューを繰って坂を上ると、そこには懐かしい姿で社宅が写っていた。
2014年の映像とある。
10年間苦楽を共にした社宅で、当時のことを懐かしく思い出した。
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2025年1月7日(火) |
レンガを積む |
今朝の読売、2面に掲載された昨日夕刊のコラム。
小欄にこれまで何度か記載したように、不遜な言い方だが、1面のコラムより示唆的な内容が多い。
今回の内容もそうであった。
新しい年を迎え、自分の気持ちをもう一度締め直さなければ、と思い直した次第である。
我が身を振り返り、もとより大聖堂を作っているつもりは更々ない。
しかし、小さな壁を作っている、程度のことは思ってみたい。
その壁を少しでも高くするため、今日もまた、一生懸命、心を込めて、レンガを一つ積み増ししようと、自分に言い聞かせたわけである。
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2025年1月6日(月) |
”紅白”の申し込み倍率 151倍 |
パソコンでネット画面を開くとき使うプラウザは、マイクロソフトのEdgeが大半である。
その冒頭に出る画面はマイクロソフトニュースを表示するようにセットしていて、芸能関係のニュースも数多く表示される。
Kの場合、新聞等では得られない情報の、入手元になっている。
その画面の今朝の表示で、NHK番組「あさイチ」で司会を務める鈴木アナが、昨年の「紅白」で司会をしたとき観客の倍率に触れ、その数は151倍と紹介したという。
発表の詳細を知りたいと思ったが、そのときはすでに「あさイチ」の放送は終わった時間で、ならばとNHKプラスで再生してみることにした。
それによると、本番開始の10分前に、「前説」という時間があって、鈴木アナが観客に向かい「皆さんは151倍の競争に勝ってこの場にこられた方・・・、云々」と説明する場面がでる。
なるほど、そういうことであったかと合点したわけであった。
なぜゆえ、この観客の当選倍率にこだわるかと言うと、実は、我々もこの当選倍率に関係していたのである。
申し込みをし、落選したのであった。
こちら→(2024/11/30)
以来、どの程度の競争率であったか知りたいと思うわけで、今回の紅白を見るときも話題になったりする。
NHKに関係する息子らも、話題に加わるが、「かなりの倍率らしいよ」言うだけで正確な数は知らない。
今回の映像で、落選以来抱いていた疑問に対し、ようやくにして答えが出たという話である。
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2025年1月5日(日) |
広田弘毅の書と動画 その3 |
先月記載した、広田弘毅に関わる話題である。
前回は こちら→(2024/12/15)
このときは、以上をもってこの話題は終了のつもりであったが、思わぬところで、もう一つ話題が見つかった。
2,3日前のことである。
2階の廊下の奥に普段話題にしない、主として小説類を集めた書棚があるのだが、別用でこの書棚を見る必要があって、覗いた時に目に入った。
「黙してゆかむ 広田弘毅の生涯」と言う本。著者は北沢晃二と言う人である。 裏表紙を開くと、そこには「昭和53年10月10日読了 上田勝則」の文字があった。
先に記載した「落日燃ゆ」は昭和51年に読んだと思われるゆえ、この本を買って読んだのはその2年後になる。
「落日燃ゆ」の影響を受けて、この本を求めたに違いない。
Kの場合、読み終えた本のすべてに、こういう署名をするという習慣はないので、この本の場合は何らかの”思い”を持って読み終えたと思われる。
ただしこの本のことはすっかり失念している状態で、今から推測すると、本自体と言うより、広田弘毅と言う人物に”思い”を持ったものと推測をする。
昭和53年と言えばKは32歳。東京駒場から神奈川県大和市に住む場を変えた年である。
今とは違って、前途洋々の時代。その若い時代の読書記録である。
振り返って今思うと、この時に受けた”思い”が、今の私に影響を与えているのは間違いない。
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2025年1月4日(土) |
ホームページのサーバーを変更する |
小欄(Kは“コラム”と自称している)は、“八色石里庭物語”というホームページの1コーナーという形式になっていて、一般的に言われる「ブログ」とは、見た目は似ているが、異なる性質のものである。
ブログは、ブログを運営する会社があって、その運営会社に投稿を申し込むと、投稿の場が与えられ、あとは記事を投稿すればよく、比較的投稿の手順は簡易である。
しかし、ブログ形式の表現しかできない。
一方、ホームページはそれとは異なる開設方法をとる。
ホームページを表示するための場所を“(レンタル)サーバー”と呼び、その場を提供する会社があって、その会社に申し込んで一定の容量の保存場所を借りることになる。
借り賃は原則有料で、借りる容量の大きさによって価格がる。ただし、容量は小さいが借り賃を無料にしてくれる場合もある。
Kの場合これまで、「ネットオウル」という会社の、「スターサーバー」という名称のサーバーで、価格は無料の「フリー」というプランを借りていた。 容量は小さいが、広告が入らないという有難い特徴がある。
昨年12月20日のことであるが、そのネットオウルからメールが入った。
これまで実施してきた「スターサーバー」という名称のサーバーを来年3月末で停止し、代わりに12月19日から新たに「スターレンタルサーバー」という新サーバーを立ち上げる。これにはフリーという無料のプランもあるという趣旨のものである。
小欄をもう少し続ける気持ちもあって、ここでホームページを中止するわけには行かず、新しいサーバーを借り受ける作業を始めることにした。始めたのは、昨日からである。
実は、この種の切り替え作業は以前に行ったことがあって、こちら→(2020/2/4)
始めてではない。
以前実施した手順はすっかり忘れているが、なんとかなるだろうと思い手続きに着手した。
ネットオウルのホームページを開き作業を始める。
途中何度か立ち止まったり、他の資料を調べたり、など手間取ることは多々あったが、ほぼ1時間程度をかけたところで手続きを終え、ネットオウルから、「手続きを完了しました」というメールを受け取ることができた。 これで“手続き完了!”、と大いに安堵した。
ここまでが、昨日の経過である。
そして今日である。
今日行う作業は、新しく開設したサーバーに、これまでのデータを転送することと、これまで我がホームページを利用していただいた方に、閲覧先のURLが変わる旨の情報を示すことにある。
あらかた準備して、転送を試みた。
ところが上手く行かないのであるない。エラーメッセージが出て転送できないのであった。
あれこれ原因を探し出しているうちに、先に来た「手続きを完了しました」のメールの中に記載してある手順で一つ抜けたことが見つかった。
それを適用してみる。それでもうまく転送できない。
とどのつまり、利用していただいている方に変更伝える情報の出し方を変更することにした。
当初はもう少し凝った方法をイメージしていたのだが、最終的に出来上がったのは次である。
ここに至るまでに、4〜5時間の手間をようした。
旧URLのトップページ(左)には「お知らせ」の欄を設けて新URLへの移動を促し、新URL(右)ではその「お知らせ」がないと言う格好である。
お知らせの欄には、「新URLを開く」というボタンが配置してあるが、そのコピーを下記にも貼り付けた。
小欄読者は、このボタンをクリックして、新URLのホームページを開き、それを「お気に入り」などに登録して、次回以降は新URLでの閲覧をお願いしたい。

旧URLのページは、いずれ1月末頃を目処に削除し、見れなくする予定にしている。
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2025年1月3日(金) |
初詣 |
娘が戻ると言うので、バス停のある広島県北の町まで送ってゆき、午後のことである。
Mと2人で恒例の龍岩神社に初詣をした。
と、ここまで書いて昨年の参詣日を調べてみると、小欄には載せていない。備忘録を開いてみるが、こちらにも記載がない。恒例と記載したが、昨年は能登地震などもあったりして、初詣してなかったようである。
一昨年は、3日に雪のなかを初詣していた。 こちら→(2023/1/3)
今年は、雪の全く見えない初詣であった。
難関は、440段の階段。
普段はおよそ20段ずつ登り一休みするのだが、あるとき30段登って休んでみると、疲れがひどくなかなか元に戻らない。
やはり20段ずつ登るのが良さそうで、その後は20段ずつを1クールにして登り、ようやくにして登り終えた。
今年もMがコーヒーを作りリュックに入れて登る。 誰かに遇えば一緒に飲もうと大目に作って登るのだが、今年は誰にも会わず2人だけで飲むことになった。
風が冷たいので祠の中で飲む。
脇に参詣帳が置いてあり、我々も記帳する。繰ってみると、今年の参詣者は8組であった。
寒いので、長居をせず降りることにする。
誰にも会わなかったと思いつつ降り始めると、すぐに誰か一人登ってくる姿が見える。Mが声をかけると、三次市からきたという男性。コーヒーを飲まないかと勧めると、男性は飲むと言い、立ったままでコップにコーヒーを注ぎ、持参したリンゴなどをあげていた。
少し余談めくが、
一昨年の記述を読むと、登り始めが2時20分、境内に着いたのが2時40分で、20分をかけて登ったと記載している。
今年は、その測定をしなかったと反省するが、写真でその時間を知ることができると思いついた。
写真の撮影時間で見ると、登り始めが13時27分、境内に着いたのが13時49分で、22分をかけて登っている。
1割伸びたと見るべきかほぼ同じと見るべきかは、よく分からないが、2年ぶりの記録としては上出来であろう。
今後は、この値に注目してみようかと思い始めている。
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2025年1月2日(木) |
歩き初め |
娘が戻るのを明日ということに決めた後、3人で龍岩神社に初詣をするという話が一時は出ていたが、そのうちMと娘の間でスマホ教室が始まり、娘から「お父さんゴメン、今日の初詣はやめにして」ということに相なった。
ならば、龍岩神社に初詣するならと控えていた、ウォーキングを実施することにする。
今年の初ウォーキング、歩き初めである。
歩き始めたのは午後の2時頃。
昨日もよい天気であったが、今日は昨日に比べ風もなくさらに暖かく感じる。
最初はめていた手袋を外し、そのうちネックウォーマーも外すという暖かさである。
冬にしては、絶好のウォーキング日和であった。
この気持ちよさが、今年を象徴するものであればよいがと念じつつ、いつものウォーキングコースを歩いてきた。
出来ることがだんだんと減っていく中で、普段通りのウォーキングが、いまだ出来ると言うことは有難いことでもある。
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2025年1月1日(水) |
孫ら東京に戻る |
昨日は福岡に住む娘も帰ってきて、6人そろっての賑やかな年越しになった。
”紅白”を見たところで私は寝る。
皆はその後もテレビなど見ていたようで、今朝は遅い10時頃からの新春膳となった。
今日元旦の八色石は、山陰にしては珍しい快晴の良い天気。
そんなこともあってか、孫は、やり投げの競技を行うというらしい。
遅れて参加したKは、どこでやっているのかわからず、裏山に向かうと、「栗の木ベンチ」と名付けている場所で集まってやっていた。 これまで、子供らがやり投げの競技で遊ぶなどなかったはずで、こんなことが起こるのは、パリ五輪で金メダルを取った北口選手の影響によるものと思われる。
何度も投げた後であるが、その中で最長の距離の場所を記念に残すということになる。
周辺で杭になるものを探すが見つからず、Mが「私が取ってきてあげる」と言って納屋まで戻り、金属製の杭と槌を持って戻ってきた。 息子と孫で、先の場所に杭を打つ。
その場所は、Kが草刈りをする場所で、金属製の杭を打たれては邪魔になるが、これは致し方がない。
ほぼ30分のやり投げ競技会になった。
その後お茶などしたのち戻ることになる。出発したのは午後2時過ぎであった。
見送ったのち、辺りは急に静かになる。
残る3人で、「静かだけども、これもいいね」と見送った後の少し寂しい気分を労り合った。
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