| 2026年7月31日(金) ラベル731 |
| 私の履歴書 神岡勤務時代余話 その6 2度に渡る米国MCA社訪問 その2 |
私の履歴書シリーズその62である。
アメリカのアリゾナ州に、三井金属がアルミダイカストを中心とする子会社を設立し、その会社名をMCAと言うのだが、1998年にそのMCAを2度訪れていて、その報告である。
前回が第1回目で こちら→(2026/7/20)
今回が2度目のMCA訪問の内容となる。
渡米したのは平成10年(1998年)6月22日から7月5日の間であるが、渡米の動きはもう少し以前から始まっている。
背後の事情は全承知していないのだが、これまで社長を勤めてこられた小坂さんを退任させ後任の社長に交代する、という動きが始まっていたのである。
ただこの交代には、小坂社長は納得されないと予測される部分があり、新社長への業務の引き継ぎなど円滑に進まない個所が生じる可能性がある。
この不測の事態を避けるために、以前から親交の深い(と上層部の人には見られていたのであろう)私に小坂社長の“なだめ役”として出張させ、交代業務を無事に終了させるという狙いがあったのである。 ただし表向きは、社長交代に伴う技術的業務の引き継ぎという名目であった。
その、背後に隠れた役目を示唆する、当時の神岡部品社長の金井さんのメモが残っている。
金井さんらしい配慮が伺える。
そのような背景のもと、6月22日の出発日を迎えた。
当日の備忘録が残っていた。少々長いが雰囲気が伝わるので載せてみる。
『5時起床、6時出発。神鉄タクシーにて富山飛行場。
富山8時50分発、羽田10時頃着か。リムジン10時半に乗り成田着11時45分頃。4階のみやげ店にて地図を買う。少しぶらぶらした後出国手続き。2万円両替(142円/$)。
エグゼクティブラウンジに入る。12時半ごろか。写真を撮る。
出発ロビーは「D」、別ロビーにあり場所を移してまた一杯。
出発はほぼ予定通り。
ロスアンゼルスにて国内線の乗り継ぎ。場所が遠く戸惑う。2・3回人に聞いてやっと。
Phoenix空港には武田さんの出迎へ、そのままホテル。
17時過ぎより日本人のみにて夕食。ホテルでは日本料理も食べられる模様。』
この時の搭乗券が残っていた。
それ以前はエコノミークラスの搭乗券であったが、今回のMCA旅行からはエグゼクティブクラス(現在のビジネスクラス)に格上げになっていて、待ち時間をロビーで過ごすことはなく、ラウンジに入りビールなど飲みながら過ごすことができた。
写っている写真は、このラウンジの中の様子である。
先の備忘録に乗っているホテルの写真が次である。
第1回目の時は小坂さんの下宿先に泊まることになったが、今回はホテルである。場所はPhoenix市の郊外。会社までは車で3・40分かかるが、MCA社員の誰かが朝夕送迎してくれた。
第1回訪問時を含め、MCA社内で撮った写真は極めて少ない。
たまたま2枚ほど残っていたので、社内の様子を伺う便(よすが)として残しておく。
さて本業務である引き継ぎについて、全ての引継ぎ業務に私は同席した。
小坂社長の内心は、穏やかでない部分もあったと思われるが、表面上は何事もなく推移した。
私と2人で行われた技術的事項の引き継ぎについては、小坂社長の持論である「その場その場の適切な対応のみ」とのことで、基本的には何もなし。ただし書類は残さなければならないので「お前勝手に書いておけ」との指示で、私が書いたものが残っている。
これら個々の引き継ぎ内容書を添付した、総合の出張報告書法提出している。
18ページにのぼる報告書で、その表紙とスケジュールに当たる部分
を抜粋して添付した。
報告書の3ページ目に、今回の懸念事項に関するコメントを簡単に記載して載せている。その部分のみも添付した。
なおこの出張報告書の提出先であるが、第1回目の時は、神岡部品内幹部のみに提出したが、今回の第2回目は三井金属本社該当者に対して行っている。
ともかく、懸念された事項は何も起こらず、表向きの形式を整えて、すべての業務を終えたのであった。
なお私の任務はこの報告書の提出を持って終了していて、その後MCA社とのつながりは全くなくなった。
MCA社のその後であるが、ネットで調べると2007年4月を持って廃業となっている。
その後のMCA社運営業務は、順調ではなかったものと思われる。
余談;
小坂さん、金井さんとのその後であるが、我々が当地に越して後の2003年なって、2人でそろって我が家尋ねていただいたことがある。
備忘録を探してみると、4月25日から27日までの2泊3日であった。
その時の写真を探したのだが、デジタル、アナログとも一枚も探すことができなかった。
その後も年賀状でのやりとりは続いていたが、2019年に小坂さんは鬼籍に入られたという。80歳だったらしい。亡くなったことは奥様からの欠礼状で初めて知り、従って葬儀には参加していない。悔やまれる。
一方、金井さんはご健在。年賀状のやりとりは今も続いていて、「もう一度訪ねたい」と毎年書いていただいているが、実現していない。
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| 2026年7月30日(木) |
| 邑智病院定期検診 |
3ヶ月に1回の、邑智病院での定期検診に行ってきた。
前回は こちら→(2026/5/7)
この間1ヶ月程度前のことであるが、朝起きた時、なのあたりが重い感じがし、そしてウォーキングなどの運動をすると、すぐに息苦しくなってくるという状態が1週間近く続いたことがある。
その時点で考えると、今日予定される定期検診までは日がある。臨時に病院に行き見てもらおうかと思った時があって、電話をしたら、電話口に看護婦が出て、私を担当してもらっている先生は、初診の診察は担当しておられないらしく、その時ゆけば別の先生に診てもらうことになるとの答えがあった。
別の先生に見てもらうのもと躊躇し、迷っているうちに、少し状況が落ち着いて今日になったという経緯がある。
そして今日のこと。
いつもの通り血液検査がある。普段は血液検査で全て終わりなのだが、今日は続いて心電図も取りますという。
先般電話をした情報が担当医に伝わり、いつもはない心電図検査が入ったのかもと推量され、心電図もあわせて受けて、検査室を出たのであった。
しばらく待って担当医の診察になる。
診察室に入りそのことを伺うと、医者の曰く「電話でそのような情報が入ったと、看護婦からしらさられたので、今日心電図検査を入れさせてもらいました」との答えがあった。
抜けのない対応がされていると、少々感心したわけである。
最初にその心電図の説明があった。
心電図的に見て異常は見当たらないらしい。もし心筋梗塞の疑いがあれば、波形にその兆候が現れるのだが、それが見られないとのこと。
「このまま少し様子を見ましょう」とのことで、次に話が移った。
あとは血液検査の結果の診断。
血液検査の結果を個別の項目ごとに説明してくれるが、一言でいえば、「規定値を超える値も散見されるが、とりあえずは問題はなかろう」という結論であった。
いつも結果を載せてている、γ-GTPとHbA1Cのグラフを示せば次となる。
「HbA1Cのの値が上昇傾向にあり若干心配ではあるが、この暑さの性もあり運動量が減っているのかもしれない。まあ今のところは問題ないでしょう」というコメントがついた。
これまで長い間3ヶ月に1回の健診であったが、理由を説明すれば長くなるので割愛するが、私の申し入れで、これからは2ヶ月に1回の検診に変更してもらった。
したがって次回は9月となる。
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| 2026年7月29日(水) |
| パソコン復旧 |
本「散歩帖」を記述するに使用しているパソコンが不調で、小欄の投稿を長期間休むことになった。
このほど漸くにして復旧したので、掲載を再開することにする。
不調の内容を正直に申し上げれば調子が悪かったのはインクジェットプリンターでパソコン本体ではない。
したがって「散歩帖」の掲載をそのまま続けようと思えばできなくはなかったのだが、プリンターの修復に時間を取られ、一方小欄の継続となると、時間的に厳しく、さらに正直に言えば、少し休むのも悪くはないと屁理屈を重ね、掲載を休むことにしたのであった。
プリンターのどこが悪かったかといえば、カラー印刷の色が極端に悪いのである。
画像が全体に赤みを帯びている。この現象の理由は容易に想像できて、青色のインク(シアン)が何らかの理由で出ていないためと考えられた。
これに類する状況には、これまでにも何回か遭遇したことがあり、この場合はプリンターを「クリーニング」という操作で処置すれば、問題は大方解決するのがこれまでの経験であった。
これまでの記憶にたどってパソコンを操作し、クリーニングを行おうとした。ところが、その操作画面が出てこないのである。
色々と試みたが、結局は出てこない。思案のあげくではあるが、ChatGPTに相談をかけてみた。
この回答の中には赤枠で囲んだ示唆に富んだ回答も含まれているのだが、この時点ではまだそのことに気づかない。
この回答に対してさらに質問をし、またChatGPTが答えてくる。
逆にChatGPTからスクリーンショットを送れ、などとの指示も来たりする。
問題が発生した25日から26日にかけては、ChatGPTとのやり取りに明け暮れた。2日間合わせて4・5時間は交信を重ねたかもしれない。
それでもパソコン上には、操作画面が出てこないのであった。
原因は、ChatGPT画面で表示された「Microsoft IPPドライバー」で接続されていることが、必要画面が出ない要因であることは分かったが、その対策ができないのである。
そのうち、本体だけでも操作ができるという指摘事項を思い出し、その操作をやってみると、シアンが完璧に出ていなかった。
本体操作でクリーニングを何回か実施するも、やはりシアンが全く出ない。
もはやクリーニングでは対応できないと思い始めた。部品の交換をした方が早いと思ったわけである。
アマゾンで調べると、当該プリンターに適合したプリントヘッドが見つかった。
26日に発注し28に到着した。
到着後ヘッドの交換作業。初めての作業なので戸惑う。
交換後エラーが出たりして少々驚いたりもしたが、なんとか無事に作業を終えることができた。
ノズルヘッド交換前後の印刷結果は上の写真の通りである。
上が交換前、下が交換後。そして右の写真はノズルチェックパターン印刷結果である。シアンの色が交換後は正常に出ている。
ChatGPTにノズルヘッド交換のことを記載したら、次のようなコメントが返ってきた。
いつも自信満々のChatGPTも、今のところ解決法が分らない模様である。
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| 2026年7月25日(土) |
| 本日休刊 |
メインパソコン不調で、本日休刊します。
修復の目処が立たず、複数日休刊するかもしれません。
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| 2026年7月24日(金) |
| 左目、眼科検診 |
左目の、月1回の検診の日。今回が通算27回目となる。
前回は こちら→(2026/6/19)
今日の予約時間は9時半となっていて、従って我が家を出たのは8時半であった。
いつもの通りMの運転である。
クリニックに着いたのは、丁度9時半であった。
今日は普段より患者数が少ない。
いつもの通り検査があって、その後医者の診察になる。
普段は医者の診察になるのは、検査が始まって1時間後くらいとなるのだが、今日は検査が始まって後、30分後くらいには医者の診察となった。
「痛くはありませんか」という医者の問いに「痛みはありません」と答える。
ついでいつもの通り、「二重に見える件はどうですかと尋ねてくる」。
今回は少し、答えを事前に考えていておいた。
「二重に見える点は変わらないが、脳が慣れてきたのか二重に見えた像がほとんど時間をかけずに一重なってくる。したがって裸眼で過ごす時間多くなってきた。不自由さにも慣れてきたので、もはや二重に見える対策の手術はしなくてよいかもと思い始めている」と答えた。
医者もこの二重に見える対策の手術はしたくないという思いがあるのか、私の答えに反応して「その兆候は検査結果にも現れています。ともかくもう少し様子を見ましょう」と、手術はしない方向の動きを含んだ返事があった。
そうなると私にはもう一つ、懸念事項が生じて来る。
昨年行った、シリコンオイルの除去手術が今一つ不備で、大きな黒点が残っている。この黒点は、できれば、もう一度手術で取ってもらいたい。
二重に見える手術があれば、その時同時に取ってもらうつもりであったが、その手術がなくなると、オイル除去手術が中に浮いてくる。
そのことを医者に相談すると、「ならばオイル除去手術を先行して実施しましょう」ということになった。
最後の診察料支払い時に渡される、次回以降の予定表には、
8月25日;シリコンオイル抜去手術、術前検査と説明。
9月17日;シリコンオイル抜去手術
と載っていた。
この半年以上「もう少し様子を見ましょう」ということで事態が全く動かない状況が続いたが、少し動き始めた感じがして、少々安堵した。
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| 2026年7月23日(木) |
| コウモリ除けの網 |
ずいぶん前、1年以上前かもしれないが、Mから頼まれていたのにすっかり忘れていて、この度、再び催促されて実行を思い立った。
我が家にある裏の納屋の話である。
納屋の一部が2階建ての構造になっていて、その2階部分の裏屋根にコウモリが巣くうという。確かに糞が落ちていて、その形跡は認められるが私は見たことはない。一方Mは何度も見たという。
2階構造の壁になる部分の上部が、三角形で空いていて、ここからコウモリが入ると思われる。対策はこの三角空間をふさぐことが主眼となる。
最終的には、作業は3日間を要した。
最初に三角形状の寸法取りを行う。これが18日の午後。試行錯誤、あれこれ考えながら行うので約1時間を要した。
次に行ったのが、この形状に合わせて侵入防止用の網の切断作業。これが20日の作業である。
場所は駐車場。車を出してその開きスペースで行うことにした。
材料になる網は畑用に使用している残りがあって、これをMが出してくれる。
広げてみると思ったより幅が広く、そのまま横方向に切断すれば三角形状の半分は取れそう。
左右で2枚取ることにした。
これも、ぶっつけ本番の試行錯誤的作業。あれやこれやと考えて、やっとのことで切断し終える。
要した時間は2時間であった。
作業をしたのは午後の時間で、かなり汗をかいた。
次に行ったのが網を張る作業。行ったのは21日のこと。前日午後に作業して暑かったので、この日は午前中早い時間から作業をすることにした。
朝食を食べ終えてすぐの、7時から作業開始である。
網を固定するに方法として、最初に思いついたのが釘である。
物は試しで使ってみると問題なく使用に耐えそう。これで行くことにした。
その際網の部分を一重ではなく、少なくとも二重以上に重ねて打つことにした。
結局、その方法で最後まで押し通し、作業を終えることになった。
ただし、釘を打つ間隔は20Cm程度。当初予定したより多くの釘を使うことになり、階下まで下りて釘を取ってくるという場面生じる。
何とか、やり終えた。
この三角形の空間の空間のほかに、長方形の小さな空間があり、これも合わせて閉じることとする。こちらは小さいのであまり問題はない。
両方合わせて用意した時間は2時間であった。
前日に比べ朝早くの作業。屋根裏であったが、感じる暑さは少なめであった。
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| 2026年7月22日(水) |
| 今年のブッポウソウ |
今年ブッポウソウが飛来してきた最初の日を、備忘録で検索すると5月5日となっていた。
上の写真は、Excelで作成した備忘録において、「ブッポウソウ」という単語をキーワードにして検索を実施した例を示している。
今年のブッポウソウ初飛来は5月5日ということがこれから読み取れる。
その後数羽の雛を育て、最後の雛が巣立ったのが昨日、または今朝のことと思われる。
例年、雛が巣立つ数日前から、警戒のためであろう、親鳥はギャーギャーと鳴き声を立てながら一日中巣箱の周辺を飛び回る。それが今年は、一昨日まで続いていた。
ところが昨日になると、朝少々鳴き声が聞こえていたのに、その後は一日中ピタリと鳴き声がない。
したがって、昨日雛がすべて巣立ったと思ったわけであった。
ところがMに言わせると、今朝もまた鳴き声が聞こえたという。その後は静か。
したがって、今日も最後の一羽が飛び立ったのかとも思われるわけで、昨日か今日かという曖昧な表現になったわけである。
昨今は初夏のこの時期、ブッポウソウが飛び交うのは日常になって、あまり珍しくはない。
したがって写真を撮ることも極めて減っている。
今年撮られたブッポウソウの最後の写真が次である。
Mが18日にスマホで撮ったもの。
巣立とうとして、外の世界を眺めているところと思われる。
一方私も、今年一度だけ、ブッポウソウの姿をスマホのカメラで撮っている。
それに纏わる記事を小欄に載せた。飛来してまもなくの時期である。
こちら→(2026/5/9)
なおこの記事では、過去のブッポウソウとの係わりを振り返って述べているので、経緯を知るには都合がよい。
以上のような経過を示して、「今年のブッポウソウ」は終了したのであった。
余談;
今回、少々突然気味のブッポウソウの話題を取り上げたのは少々わけがある。 昨日一通の茶封筒が届いた。
裏を確認すると大学時代、寮に入った時の同室の同窓生。年賀状のやり取りはしているものの、封書でのやりとりは珍しい。今回が2度目。
1度目はずいぶん昔になる。
こちら→(2018/2/22)
1回目は切手の話であったが、今回はブッポウソウの話。中国新聞に2日続けてブッポウソウを話題にした記事が載っていたといって、切り抜きを送ってくれたわけである。
そのような経緯があり、彼への返事の意味も含め、ブッポウソウを取り上げてみた。
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| 2026年7月21日(火) |
| 鶏と夏野菜のすき焼き |
つい先日、鳥とトマトのすき焼きを小欄に掲載した。 こちら→(2026/7/16)
本日も、ネタ切れにて致し方なくという側面はあるものの、またしても、外見上は似た鍋の報告である。
しかし鍋造りの基本的な考え方は、先日のものとは大きく違う。
先日の鍋は鶏とトマトを中心にし、その他の野菜が添えられていたのだが、今回のものは鶏と周辺にある夏野菜で作ったすき焼きであるが、夏野菜の中にたまたまトマトが入っていたというところが、考えとして違うのである。
などという屁理屈はさておき、やはり出来栄えはほぼ似ている。
こま切れ鶏肉をブライン液に浸し3時間、その後油で焦げ目がつく程度に焼く。
すき焼き用の鍋に移し、あとは周辺にある夏野菜を並べ、前回同様の割り下を加えて煮るだけという、極めて簡単な手順である。
入れた野菜他はシシトウ、ナス、トマト、玉ねぎ、キュウリ、そして豆腐である。
キュウリに対するK・M間の評価は分かれた。私は悪くないと思ったが、Mは美味しくないという。そうは言いながらもMも結構食べていた。
ともかく、夏野菜の種類を問わず、いつでも鶏と合わせて鍋ができるという考え方は、今後夏場のメニューを考える際、大いに役立ってくれると思われる。
最後に、とろけるチーズを2枚入れるのは必須条件である。
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| 2026年7月20日(月) ラベル720 |
| 私の履歴書 神岡勤務時代余話 その6 2度に渡る米国MCA社訪問 その1 |
私の履歴書シリーズその61である。
業務とは直接関係のない話に触れている。
前回はパソコンについて述べた。 こちら→(2026/7/15)
今回は、三井金属・機器事業部傘下の米国子会社、MCA社を同じ年に、異なる目的で2度訪問した話を載せることにする。
以前、機器事業部傘下の米国子会社GECOM社を訪問した話を載せたことがあるが、
こちら→(2026/5/13)
GECOM社は、自動車用のロックを作る会社であったのに対し、今回のMCA社は、アルミダイカスト製造を主要業務とする会社である。
GECOM社より約10年遅れて設立されている。
MCA社の設立経緯を資料が残っていた。
1995年9月から設立の動きが始まっている。
アリゾナ州カサグランデに工場があり1997年5月頃から本格操業を開始したものと思われる。
正式名は“Mitsui Componennts(U,S,A,),Inc.” というが、会社内では呼びやすさもあってか、MCAと呼ばれていた。
そのMCAの社長に、その昔、私を神岡部品に誘っていただいた小坂さんが、
こちら→(2026/6/15)
神岡部品を離れた後の職場として、就任されていたのである。
いつ就任されたかの資料がないので不明であるが、1997年5月より前に、社長に就任されたと推定される。初代社長であったあのかもしれない。
私にMCA出張の話が出たのは、その翌年の1998年の年初と思われる。
証拠の書類が残っていた。
神岡部品で小坂社長の後任になられた、金井社長の宛てのファックスと海外出張伺書である。
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シートベルトのメーカーである“タカタ社”の米国法人がテキサス州のサン・アントニオにあり、MCA社の得意先の一つである。
この米国タカタの訪問を表向けの口実にして、ゴルフを実施しようという計画であった。
そして帰国後記述した出張報告書が以下の三枚つづり。
報告相手は神岡部品の幹部3名の方である。
「米国雑感」と称した簡単な米国見聞録があるので、文字は小さくなるが提示してみる。
この間、私と金井社長とで交わされたファックスが残っていた。
何が主目的の海外出張であるかが、笑い話的に記述してあるので、これも掲載してみる。
さて本命のゴルフの結果である。
3月14日と15日の2日ゴルフに出かけている。
備忘録には、14日は近くのゴルフ場に出かけたとある。ただし途中から雨で、10ホールで中断したとのこと。14日の関係資料は何も出てこなかった。
15日はRAVENという名のゴルフ場に出かけている。
写真左側上段はゴルフ場のパンフレット(部分)、下段は当日のスコアカードである。
私のスコア前後半合わせて105。まあ、平均的な、私のスコア結果である。
写真右は当日の備忘録。日米でのゴルフ場の違いなども書いてあるので載せてみた。
プレー中の写真を探したのだが、一枚も見つけることができなかった。
写さなかったのか、又は撮影禁止であったのか、それとも写真は写したが行方不明になったのか、真相はわからない。
以上がMCA訪問記の、最初の記事内容である。
およその予定紙面が尽きたので、2度目の訪問記は次回に回す。
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| 2026年7月19日(日) ラベル719 |
| 枝から薪つくり 後編×2 |
昨日の続きである。
できれば今日で作業を終えたいと思い、昨日の反省を踏まえて、今日は午前中から作業をすることにした。
作業を始めたのは午前9時前。温度計を確認するとすでに31度を示していた。
日差しが強いので、恒例のパラソルをセットする。
昨日は近くでMが作業をしていたので、頼んで写真を撮ってもらったが、今日はそれができない。忘備ためにセルフタイマーで1枚写真を撮った。
ほぼ2時間で作業を終える。
片付けを終えて家に戻ったのは11時前であった。
温度を確認すると33度になっていた。
この後は薪積み作業が残っている。
この作業は、かなり腰の痛い作業。
例年のこの薪積み作業はMに手伝ってもらっていて、今年もおそらく、そういうことになると思われる。
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| 2026年7月18日(土) |
| 枝から薪つくり 後編 |
1週間あまり前に作業をした薪作り作業 こちら→(2026/7/9)
の続編である。
前の作業でできた、そのままでは薪にならない太い薪材を割る作業である。
作業の準備は昨日し終えている。
油圧を利用した電動薪割機で割る訳で、電源は納屋からコードリール2本を繋いでとるようにしている。
さて今日のこと、午前中はウォーキングをしたり、またその他にも用事があって、薪割作業は午後することにした。
日陰はパラソルで作り、座ってできる作業なので、少々暑くとも午後でもできると考えたわけである。
そして午後14時頃のこと、作業をしようとして外に出てみる。
日差しも強くかなり暑い。念のため温度を確認しようと、日陰にぶら下げてある棒状温度計を見ると36℃を示していた。これはひどすぎる。
これで熱中症にでもなれば笑いものになる。
とりあえずは中止して、夕方に出来そうならやろうかと思い直した。
17時頃様子を伺うと、日差しはまだ残っていて、温度33℃。もう少し様子を見ることにした。
18時前である。太陽は山の後ろに隠れて日差しはない。温度計を見ると32℃。
暑いとは感じるものの、Mも畑仕事をしに出るというので、私も出ることにした。
準備はしてあるのですぐに作業かかることができる。
日差しはないのでパラソルは立てなかった。
少々暑くは感じるが薪割作業はなんとかなる。
ところが思いもしなかったことが発生した。
これまでこの時間に外仕事をする経験があまりないので気づかなかったのだが、今度は虫である。
顔の周辺で虫が飛び交う。そのうち蚊であろう、2・3個所噛まれて痒くなる。
4・50分経ったところで、もはや我慢できず中断して家に戻ることにした。
19時前、家に戻って温度を確認すると31℃であった。
次回からの夕方の作業は、蚊取り線香など虫除けの設備が必須である。
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| 2026年7月17日(金) |
| 左目の怪我 1年経過 |
昨年、左目の怪我をしたのが7月16日であったので、昨日で丸一年ということになる。
昨日そのことに気づけば、何らかの記述をしたと思うが、それを忘れていたので。今日記述してみることにする。
恥ずかしながら、一年経過した今日の近影をお示しする。
昨年怪我をしたのは午後3時ごろ、大田市にある眼科のクリニックに急行。診断名は「左目眼球破裂」であった。
その場で眼球を縫合する手術が行われ、その翌日にもう一度追加の手術が行われた。手術内容は網膜剥離を防ぐためのレーザー照射や眼球を安定させるためのオイル注入など。
手術後の説明では、およそ1ヶ月後に注入したオイルを除去し、その他の問題も併せて処置をして、およそ半年程度の処置期間が必要と思われる、との説明であった。
幸い失明は免れたし、半年我慢すればもとに戻ると思ったのであるが、その後、ものが二重に見えるという問題が発生し、さらには下まぶたがめくれるトラブルも起きた。
我が方勝手な推測では、ものが二重に見える(左目で見える画像と右目で見える画像がずれるという現象)問題は、医者にとっては予想外であったのかもしれない。
当初半年程度と言われた処置期間が、後方にずれるようになる。
当初の説明では1ヶ月後と言われたオイル除去手術が、実際に行われたのは10月19日の3ヶ月後であった。
また、物が二重に見える対策としての手術は、オイル除去手術の3ヶ月後といわれていて、私の気持ちは、今年の1月か2月には手術と覚悟をしていた。
しかし、その後、“ずれの量”が少しずつ改善されるという傾向が見え、場合によればこの手術はせずともよいという医者の判断で、「もう少し様子を見ましょう」という時期が続いている。
以上が現在の様子。
私の気持ちとしては、早く決着をつけたいという気持ちがないわけでもないが、一方昨今は、見えにくいという場面があるものの、普段の生活は裸眼で過ごしていて、日常生活での支障は少ない。
医者の判断に任せようという気分になっている。
したがって現在の状況(様子見の状態)が、いつ終了するのかは全く目処がついていない。
日に4回の目薬投与と1ヶ月に1回の検診という日々が続いているのが、一年経った現時点での様子である。
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| 2026年7月16日(金) ラベル716 |
| 鶏・トマト すき焼き |
今日は夕食当番。
冷蔵庫を見ると、頂き物のトマトが5・6個ある。
あまり手をかけたくなかったので、トマトですき焼きと考えた。
牛肉がないのはわかっている。
したがってこれまで作った経験のある豚肉でトマトすき焼き こちら→(2025/3/16)
と考え冷蔵庫見ると、普段常備されている豚肉もない。
一方鶏肉は冷凍されたものが多めにある。
初めてのことではあるが、鶏肉ですき焼きに挑戦してみることにした。
ネットでレシピを探してみる。
いくつか候補があったが、和風の味付けのものにした。 こちら→
胸肉を解凍して、削ぎ切りにし、K考案のブライン液(水100CC、酒大さじ2杯、しょうゆ大さじ1.5杯、砂糖大さじ0.5杯)に4時間浸す。
その後はレシピに従い、フライパンで焦げ目を付ける程度に焼く。
後はいつものすき焼き鍋で、野菜を入れて煮るだけ。
ただし、我が家にはすき焼きのタレが無いので、普段すき焼き時に作る割り下(水300t、粉末だし小さじ1杯、しょうゆ70cc、みりん55cc、砂糖大さじ1杯)を作って入れた。
入れた野菜はレシピ通りのものが揃わ無かったので、周辺にあるものを入れた。列記してみると次のとおり。
トマト、玉ねぎ、しいたけ、じゃがいもである。少し経ってから、豆腐があったのでこれも入れてみた。
さて、結果のお味である。
予想以上においしかった。Mも思ったより美味しいと言う。 今後も度々登場しそうなおいしさである。
これで“3種肉のトマトすき焼き”が揃うことになった。
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| 2026年7月15日(水) ラベル715 |
| 私の履歴書 神岡勤務時代余話 その5 パソコン |
私の履歴書シリーズその60である。
業務とは直接関係のない話に触れている。
前回は「書、篆刻、表装」について述べた。 こちら→(2026/7/7)
今回は神岡勤務時代の終盤において、かなり熱心に取り込んだパソコンについて述べることにする。
パソコンを購入したのは平成11年(1999年)であるが、購入した経緯を綴る文章を残していた。
この文章を記述したのは、当地に越して数年経った平成16年頃記述したものであるが、購入の経緯を生々しく述べているのでここで紹介してみる。
先にパソコンを購入したのは平成11年と述べているのに、文中では平成10年となっていて、齟齬が生じている。簡単に釈明すると平成10年に一度ワープロを購入した。当時のワープロはかなり進歩していて、簡単な表計算ができ、しかもネットにも繋ぐことができる。したがってワープロでも自分が狙う作業ができると思ってワープロを買い求めたのであろう。ただし性能不足ということに気づき、翌年の平成11年にパソコンに買い直したという経緯があったのである。
パソコンを買い求めた日の備忘録が残っていた。日付は1999年2月27日土曜日である。
『午前中Mは仕事。パソコン購入を考える。午後Mも出かけるというので、富山へ出る。JOSINにて、富士通のパソコンを購入。約18万円なり。機種名はSVV335という。帰ってセットアップなど、夜遅くまでやる』
以後備忘録には、パソコンに関する記述がしばしば登場する。
かなり夢中になって取り組んだものと思われる。
このパソコンの習得も独学で行った。
他人に習うということは全くない。すべて本である。当時からその後も含めてパソコンに関する本はかなり買い求めた。
うち現在でも残っているものは次である。
上記に示すは購入した本のうちの一部分。すでに何度も廃棄処分をしていて、定かではないものの、これ以外に20冊程度は買ったかもしれない。
勉強法は、不明な事項があれば本を読んで理解し、実際にパソコンに適用してみる。うち重要と思われるものはメモにして残すという方式。
写真下段は、その重要事項のメモファイルである。
ファイルにして5冊残っていた。
およそ項目で分けられていて、「パソコン本体操作」、「写真や印刷などの周辺機器操作」、「メールやネット、パワーポイントなどの周辺技術」、「Excel」、「VBA(マクロ)」の5冊である。
先に紹介した文中でも出てくる”株”の話であるがこれもかなり熱心に取り込んだ形跡がある。
当時は電話回線を使ってネットにつなぐ時代であり、接続のプロバイダーとして有名なのはNiftyなどがあった。
1999年6月26日の備忘録には次の記載がある。
『昨夜いじったのが悪かったのか野村とオンラインで繋がらなくなる。NiftyにTEL。結果は同じ。「ゴミ箱」よりファイルを戻して作動するようになる』
また2000年7月の資料であるが、松井証券とオンラインで接続し松井証券のデータを我がパソコンのExcel上に自動で書き写すVBAソフトを作ったりなどしている。
“株”以外で、会社業務につながるようなソフトも作成している。
当時作成したアイル類をまとめたフォルダが残っていた。
これらのうち、「Excel文章右揃え」、「Enter切り替え」、「VBA記述素材集」の三つは現在でも使用している。
冒頭でも述べたが、私がパソコンを購入したのが1999年の2月、そして神岡部品を退職したのが2001年の6月。この間2年半の間に、パソコンを使うという技術、特にExcelを使うという技術は、粗方マスターしたような気がしている。
以上述べた、
この2年あまりの間に習得したパソコン操作技術は、文頭引用した文章にも記しているように、当地に起して以降の社協勤務時代などで大いに役立ってくれたわけで、そしてまた、さらに後年の、「島根あいてい達者」県知事賞受賞にもつながるわけで、そのことについては後日、別途報告することになるかもしれない。
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| 2026年7月14日(火) |
| パソコン廃棄の事前準備 続き |
一昨日の続きである。
昨日は来客があったりなどして諸々作業ができなかったが、その代りとして今日続きの作業をすることにした。
残るはデスクトップパソコンが1台、ノートパソコンが3台である。
最初にデスクトップパソコンをばらすことにする。
これは経験済みなのでそう難しいこともなく完了した。
次がノートパソコンである。
チャトGPTの曰くは、ノートはデスクトップに比べ3倍の時間がかかるというから、かなり難しいものと覚悟しつつ作業を始めた。
デスクトップ同様に裏蓋全体を外すものと考え作業を始めるが、ビスの構造が小さく、さらに形状も異なって、わが手持ちの道具では外すことができない。
色々と頭を巡らしたがやはり対応の方法が見つからない。もはやダメかと思いつつも、眺めていると、裏に10Cm角程度の小さな蓋がビスで止めた形になっている。
まさかとは思いつつも、物は試しでその蓋取ってみることにした。
この蓋を止めているビスは通常のビス。我が手持ちの道具で開けられる。
その小さな蓋を開けてみてみると、その下にHDDらしきものが収まっていた。
デスクトップのものに比べると一回り小さい。最初はこれが本当にHDDと訝ったが、形状はHDDである。
これを取り出してみた。ラベルにHDDとの表示がある。間違いはなかった。
小さい蓋の下に収まっていることをはじめから承知していれば、それこそものの10分で取り外せる。
この形状でもう1台取り外すことができた。
最後に残るのがソニー製のノートパソコン。これはまったく外し方がわからなかった。
結論としてこのソニー製ノートパソコンは、HDD外しは諦め、処分方法は別の方式を考えることにした。
写真上段がHDDを外し終わったパソコン類。デスクトップが5台、ノートが2台である。
写真下段がはずしたHDDとSSD。上に並ぶ5個がデスクトップから外したもの、下の2個がノートから外したものである。
今日は1時間程度で作業を終えた。
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| 2026年7月12日(日) |
| パソコン廃棄の事前準備 |
梅雨明けでカンカン照りである。
この数日若干体調の悪いこともあって、無理はしないこととし、屋外作業はやめて屋内作業をすることにした。
その作業は昨日から始めたもので、「別棟」に長年置いてある、もはや使えないパソコンの処分をする作業である。
しかし、パソコンの処分には問題があって、
パソコン類や液晶ディスプレイの類は、資源有効利用促進法という法律の制約を受けて、勝手に粗大ゴミなどで廃棄することができない。特定の業者なり指定された業者によってのみ処分ができる。
一方、パソコンの中にある個人情報などのデータは、法律では消さなければならないという規定がない。したがって回収業者などは、消去の義務がなく、データの消去は廃棄する個人の責任で行うことになる。消去を業者などに頼むと結構な料金を取られることになる。
そのような状況、如何に動くのがベターか若干迷い、チャトGPTに相談をかけると、「自分でHDDを外すのが一番、デスクトップパソコンなら10分、ノートパソコンなら30分で外すことができる」と回答してきた。
その言に従い、ものは試しで、自分でHDDを外してみることにした訳である。
昨日別棟に運搬車同行で向かい、廃棄パソコンを回収してきた。
中には神岡時代に購入した、我が家での第一号のパソコンも残っている。合計で、デスクトップパソコンが5台、ノートパソコンは3台あった。
戴いたものが、1・2台はあるが、あとは全て購入したものである。
簡単とされるデスクトップパソコンから始めることにした。
まずカバーの取り方からしてわからない。あれやこれや試行錯誤でカバーを取り外す。その後HDDを取り外すのだが、これも取り外し方がよくわからい。あれこれいじりながらの作業となる。
結局1台終えるのに3・40分かかった。
同じメーカーのものでも、機種が変われば、外し方がかなり変わる。
前の機種で得られた情報が、次の機種の作業で参考になることはあまり多くなかった。
ただし、NECのものに比べ、富士通の製品の方が、とりはずすという面で見れば合理的にできあがっていた。
そんな次第で、午前中作業を行ったが、作業が終了したのは4台のみ。
残るパソコンについては、また折りを見ながら実施することになる。
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| 2026年7月11日(土) |
| 2人の訃報 |
私の生まれた地元で、同級生の世話役を担ってくれているH氏からショートメールが入ってきた。昨日のことである。
内容は2人の同窓生がなくなったという訃報連絡であった。
一人はN君。
同窓生であるとともに、母方の従弟でもある。
したがって同窓生の付き合いより従弟としての付き合いが深い。
4歳の頃、半夏祭時の写真。左が私で右がNくん。
N君は、中学は隣町の学校に入り、その後松江高専をへて、(株)サンヨーに入社した。
小中学校の古稀の同窓会で会ったのが最後かもしれない。
年賀状のやりとりはその後もずっと続けていた。
そしてもう一人はYさん。女性である。
幼稚園から高校までずっと同窓であった。
“私の履歴書”の卒園式の写真にも一緒に写っている。 こちら→(2025/2/12)
この写真にはN君も写っていて、奇しくも3人が並んで写っていた。
最前列左から4番目が私。その左がN君、そしてその左がYさんである。
Yさんは高校の同窓会にもよく参加され、一昨年の同窓会
こちら→(2024/9/29)
でお会いしたのが最期となった。
同窓生の訃報情報は、わが身も“その世界”に入ったことを知らせるわけで、特に身につまされる。
いよいよ覚悟を本気でしなければならない。
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| 2026年7月10日(金) ラベル710 |
| 「Summer room」の清掃 |
うら納屋の一室を整備して、夏場専用の暑さ除けの部屋を作った。
2022年6月のことである。 こちら→(2022/6/27) このおり、この部屋を「Summer Room」と名付けた。
それはそれでよかったのだが、その後2024年になり、別の夏場対策を考案した。
1階にあるクーラーを利用するという案で、こちらは「避暑室」と名づけた。
こちら→(2024/6/14)
そうなると、やはりクーラーが効いた「避暑室」の方が快適になる。
なんとなく「Summer Room」の方は忘れられた形になってきた。
したがって昨年も「避暑室」を開設した。 こちら→(2025/6/17)
ところが昨年の7月、3台目のクーラーを台所に設置することになった。 こちら→(2027/7/1) こうなると台所のクーラーを利用することが多くなる。
それに「避暑室」を利用するとなると、1階のクーラーを2台同時に稼働することになり“もったいない感”が起きて来始めた。
ただし昨年は、その直後に目を怪我し、“避暑室”談議は沙汰止みとなった。
そんな背景のことを踏まえての今日である。
”もったいない感”を優先して、「Summer Room」利用の方向で、とりあえずの結論とした。
「Summer Room」は、その後特に大きくは変えていない。たまに入ることも、もちろんある。
ただし、その後本格的な利用をやめて以降掃除がされていない。
今日は掃除をすることにした。
はたきをかけ、机の上などは水拭きし、床は箒で掃いた。
掃除のおかげで清潔感もました。
母屋の2階が暑い時は、こちらに引っ越してくることになる。
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| 2026年7月9日(木) ラベル709 |
| 枝から薪作り |
わざわざ、薪ストーブ用の薪の木を切り倒すのではなく、邪魔になる木を倒したとか、あるいは邪魔になる枝を落としたとか、という理由で薪になる材料ができることがある。
その際薪にならない小枝は貯めておいて、年に一度か二度焼却処分をするのだが、一方薪材になる少し太い枝や幹は貯めておいて、どこかの時期で薪材に作り変える。
この作業を毎年夏前後に行うのだが、昨年は目の怪我の性でこの作業をしていない。
したがって、このような枝や幹が2年分溜まってきた。
今回、この処分というか、薪造りというか、の作業を行うことにした。
実施したのは7月3日。その後数日雨模様で、再開したのが昨日と今日の2日という日程になる。
当地に越してすぐに購入したパラソルが未だに健在で、それをセットして日陰を作りながら行う。
傍目に見れば優雅に見えるが、実の作業はそうでもない。
チェンソーで薪材になる寸法に切断するわけである。
この際二つの山に分ける。一つは細めのものでそのままで薪材になるもの、もう一つは太めのもので、そのままでは薪にならず後日薪割り機で割ってのち薪にするもの、の二つである。
7月3日の作業はほぼ2時間。当日はそれで終了。
さて、そして昨日である。
以前の通り作業を開始した。30分は問題ない。
ところが途中から、チェンソーがアイドリング中切れるようになる。これでは仕事にならないので、納屋に戻りドライバーを持ってきて、回転数を少し上げ、アイドリング中にきれないように調整したりなどした。
ところがそのうち、一旦切ると、今度はエンジンがかからない。
プラグが問題かと、プラグを抜き出してみるも、我が家に同じタイプのプラグはない。やむなく簡単に掃除をして元に戻すが、やはりエンジンはかからなかった。
この間要した時間は2時間余り。作業を中断して、今日に回す。
そして今日である。
エンジンがかからなければ修理に出すこととして、とりあえずエンジンをかけてみた。
ところが全く問題がない。普通に掛かるし、その後のアイドリング中でも切れることもない。
ならば作業をするかと思い立ち、作業にかかったという次第。
今日の作業もおよそ2時間、チェーンソーで切断する作業はすべて終了した。
次に控える作業はそのままでは薪にならない、太い幹を割る作業である。
近いうちに取り掛かる予定でいる。
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| 2026年7月7日(火) ラベル707 |
| 私の履歴書 神岡勤務時代余話 その4 書、篆刻、表装 |
私の履歴書シリーズ その59である。
業務とは直接関係のない話に触れている。
前回は父の死について述べた。 こちら→(2026/7/3)
今回は、趣味で行った事柄について述べる。
神岡勤務時代に、筆字で文字を書き(書)、それに捺印するための印鑑を彫り(篆刻)、出来上がった紙を額装する(表装)、という趣味というか、遊びというかを、数年行った期間がある。
記憶では、神岡で10年間勤務した初期の頃と言う気がしていたのだが、今回この項を書くにあたり調べてみたら、どうも後半の時期、平成8年(1996年)頃から平成10年(1998年)頃までのおよそ3年間であったと思われる。
私は趣味の事柄などをはじめとして、何か物事を行おうとする場合人に習うということは全くない。すべて独学である。
当時はネットに学ぶということはない時代であるから、全て教材は本であった。
当時教材として使った本類や、当時使った道具が今でも残っている。
まず、書に関するもの。
硯が二つ残っていて、どちらの硯のことを言っているのかわからないが、この硯を買った時の様子を示す備忘録の記事が見つかった。1996年8月24日土曜日の記事である。
『富山に出て書道の硯等少し贅沢な買い物をする。2万円余の金を使う。帰宅は14時頃。
買ってきた、硯と筆、墨を使い良寛の詩を書いてみる。思い通りの出来栄えにはならないが、それでも以前よりは良い。Mは早く寝るが、自分は2時ころまで起きている。』
当時この種の買い物は車で一時間ほどの富山市で買い求めるのが常であった。またこの記事が1996年ころから”書”を始めた証拠の記事でもある。
次が篆刻に関するもの。
写真下段で左に写るのが現在でも残っている印である。数にして21個ある。この他に、他の人へプレゼントとして彫ったものもいくつかあるので、当時彫り上げた総数は30個程度と思われる。
その右に写るのが彫刻刀。その右が、彫刻時母材を固定するための治具。自作である。
その右が鏡。印は反転文字で彫るわけで、印の原稿を鏡に映して反転させ、彫ることになる。そのための鏡である。自立できる構造になっていて、これも自作である。
一番右が印の原稿。印鑑には文字部が白いもの“白文”という、と文字部が赤いもの“朱文”というの二つがあり、黒い部分を彫るように原稿を作る。
写真の下方に写る鍵状のものは、印を押す時のガイド。これも自作。その右が朱肉になるもので、“因泥”と呼ばれている。
印鑑を掘り上げた時の結果を示す用紙が残っていた。
習作第一号から第十八号までのものが残っている。第一号に比べ第十八号の出来栄えはかなり上達しているように見える。
第一号の日付は平成8年3月29日、18号のそれは平成10年1月18日となっている。
この日付も篆刻を実施した期間の裏付けとなる。
そして最後が表装に関するもの。
額の材料を削るために使う台と鉋類。それに鉋の刃を削る砥石である。
台は自作。額の四隅は材料を45度に削るわけで、そのための台もある。
さて、そのおよそ3年間の結果が残っている。
数にしてわずか4点。写真では大きさがわからないので、(縦×横)の表示で寸法を入れた。額装の大きさで単位はCmである。
元の漢詩は、良寛が3点そして漱石が1点。
他の人にあげたという記憶はないので、額装まで終えた完成品は、この4点を持って全てなのであろう。
もう一つ、篆刻を額装にしたものがあるが、これは当地に越してから作成したもの。額は市販品である。
平成8年から平成10年にかけての3年間は、かなり熱心に、これら書、篆刻、表装に取り組んでいるが、そのその状況は翌年になり忽然と消えている。
理由を書いたものは見つからないが、おそらくこれは、その翌年にパソコンを購入していて、パソコンの方に熱が入り、“書”がらみのことは消えたものと思われる。
次回は、このパソコンについて触れる予定でいる。
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| 2026年7月6日(月) |
| ネジバナ |
Mは野辺に咲く草花について特に詳しいが、一方私はほとんどわからない。そんな中にあって私が、名前がわかり、そして好ましく思う花の一つがネジバナである。
今日も雨模様。
そんな中、雨の合間をぬってウォーキングに出ようとし、前庭に出たところでネジバナが咲いているのが目に入った。
大きめの株になり、しかも咲きそろっているので、今日始めて出たものではなかろう。一両日は前から咲き始めていたものと思われるが、今日初めて気がついた。
ウォーキングコースの中にもネジバナが咲く場所があって、そのことについては一昨年初めて承知したのだが、このネジバナが咲く場所はレギュラーコースを歩いて初めて出会うことができる。
ミドルコースやショートコースではその場所を通らない。
ここのところ横着心もあってミドルコースで済ませているが、今日はネジバナを見るためレギュラーコースを歩くことにした。
ネジ花が咲く場所まで行くとそこでもちゃんと咲いていた。しかもかなり大きめの群落になっている。
ネジバナが咲くのは毎年梅雨の末期。
今年の梅雨明けも、遠くないのかもしれない。
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| 2026年7月5日(日) |
| イワダレソウの移植 |
昨年9月に同じタイトルで小欄に記事を載せている。
こちら→(2025/9/18)
母屋で取ったイワタレソウの株を別棟に移植したという話であった。
そのイワタレソウが、有り難いことにちゃんと根付き、株もしっかりして、先月では白い花も咲かせている。
こちら→(2026/6/4)
そしてここにきて再確認すると、全体がしっかりしてきて、これから株をとっても問題なさそうに見える。
その作業を、 3日と今日、二日にわたってすることにした。
3日は周辺の草刈り。その後周辺の草ががかなり伸びていたので、ナイロン紐の草刈機で草刈りをした。
約小一時間。
そして今日、移植をした。
株をとるのは昨年植えたイワダレソウ。植える先はすぐ隣である。
赤枠が昨年植えた区域(今年の株の元地)。黄色枠が今年移植する区域である。
株数として10株を取り、移植した。
移植した目印にスレートのかけらが置いてある。
移植に要した時間もほぼ1時間。雨の合間をぬって作業をした。
今は梅雨の時期。この時期なら移植後の株に散水をせずとも枯れることはないと考えて、実施した作業でもある。
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| 2026年7月4日(土) |
| ジャガイモの茎にトマト? |
今日は終日雨。ウォーキングもできないほど。
したがって今日の話題は昨日体験した出来事である。
薪小屋の前で、薪を作る作業をしていたら、Mが近づいてきて「面白いものを見せてあげる」と言う。
どこに行くのだろうとついて行くと、すぐ脇にあるMが管理している野菜畑であった。
猪除けの柵を開けて中に入り、近づいたのがジャガイモが植わっている場所。
「これと」言ってMが指差すその先に「珍しいもの」はあった。
確かに珍しい。これまでに見たことのない光景であった。
ジャガイモの茎にトマトがなっているのである。
一瞬継ぎ木苗で・・・、考えたりもしたが、種芋を植えたわけでそんなはずはない。
ジャガイモとトマトは属が近いから?・・・、Mも独り言を言ったりするが、結局は答えには至らない。答えが分からないまま、その場を後にした。
Mも家に戻ってから調べたらしい。私はチャットGPTに相談を持ちかけた。
写真をアップロードして、トマトのようなものは何かと尋ねたわけである。チャットGPTの答えは「実」であった。
詳しくは上に示すチャットGPTの答えを、お読みいただきたい。
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| 2026年7月3日(金) ラベル703 |
| 私の履歴書 神岡勤務時代余話 その3 父 義衛の死 |
私の履歴書シリーズ その58である。
業務とは直接関係のない話に触れている。
前回は“エアチェック”について述べた。 こちら→(2026/6/30)
今回は、父の死について述べる。
父が亡くなったのは、神岡部品に勤め始めて2年目の平成5年(1993年)11月である。
話が少し転ずるが、その3年後の平成8年に父を偲ぶ文集を発行した。
このことについては後ほど詳述するが、その文集の中に、父がなくなった当日のことを記載した文章を載せている。
当時のことがよくわかるので、少し長いが、原文のままここに転載してみる。
「父、危篤」の電話連絡を、マツコ経由で会社で受け取ったのは、平成5年11月17日、午後4時半ごろであった。会社関係者に事情を説明、取り急ぎ家に帰ると、マツコはすでに衣類など帰る支度を始めている。
田舎に電話。チホコが電話口に出るが涙声。ミユキにかわり、「少なくとも、今晩はもつ」と医者が言っているから、焦らずに帰れとのこと。急いで荷物作りをしたがそれでも、出発したのは20時を過ぎていた。
車を走らせた。疲れるとマツコと少し変わり、休みなく走らせた。23時過ぎ、どこのサービスエリアか忘れたが電話を入れると、「間に合わなかった。22時前に、亡くなった」という。唖然とし、涙が出る。その後は、私の気を思ってくれたのであろう、マツコが残り大半を運転する。家には翌日朝4時半ごろ着いた。
死に顔は、いつもの父と変わりなかったが、少し青白いのと、鼻に詰められた白い真綿が妙に痛々しかった。
19日に火葬と通夜。20日は告別式。23日に初7日。
三井金属の社長、会長名の生花などもあり、田舎の名もなき老人の葬儀としては、盛大なものとなった。子として父に何の具体的良い思いをさせることができなかったが、最後になって、私を三井金属に入れたことが、人の悪口に登らないで済んだことは、私にとっては救いであった。
死の前、父は背の痛みなどで半年以上は、床上の生活が多かった。それでも、死の数日前までは、近くの畑まで歩いてゆくなどの生活をしていた。死の病名はこれといったものもなく、いわゆる老衰である。最後は枯れ木が倒れるように、病状は急変したようである。それでも死の前日までは食事をしたという。
死に当たって、父は特別な言葉を残さなかった。元来、無口な人であった性もあるが、母や、私以外の子供に囲まれ、死を迎えられることを喜んでいたものと思う。それを口にしなかったのも、これまた父らしい死の迎え方であるように思う。子供としては、安らかな、大往生と思いたい。
戒名 成願院 釈 義優
俗名 上田義衛 、93歳の死であった。
平成8年4月13日
(注)原則原文のままである。ただ原文は縦書きのため数字は漢数字となっているがここでは算用数字に置き換えた。また名前の個所も、個人情報を保護のだめカタカナで表記した。
その時の葬儀他一連の写真は次である。すべての写真は息子の手による。
さて冒頭に触れた父を偲ぶ文集について述べてみる。
外観は上記の通り。限定30部の手作り文集である。
どのような内容かについては、その趣旨を文集の「序に代えて」として述べているので、そのままここにコピーを添付する。
義衛の孫にあたる人たちまでに、思い出を綴ってもらうという文集であった。
見開きの最初のページには義衛の晩年の像を載せた。
撮影者は我が家の息子。
息子はこの時のことを文集に載せていて、その部分のみを転載すれば、次のように記している。
『大学1年の夏、僕は一人で島根へ帰った。たった3、4日の滞在だったと思う。口数の少ないおじいちゃんとはそれほど話をしたわけではないけれど、養命酒で晩酌の付き合いをしたり、覚えたてのカメラで、写真を撮ってあげたりなどし、楽しい思い出が残った。』
投稿者は母親を含めて全部で11名。投稿の内容を紹介したいが、ページ数の関係でそれは出来ない。目次だけを紹介する。
私は何本かの原稿を投稿した。タイトルを示せば次のとおり。
上田義衛の死(内容掲載済)
上田義衛の生い立ち
父の子育て
父の趣味
このうち、“父の趣味”の中で、筆字についてふれた個所があり、その部分だけを抜き出してみると次になる。
『誰に学んだということもないはずであるが、生まれつきであろう、筆字も上手であった。わが子「敬○○」と「○穂○」が生まれた時、色紙に「敬」と「穂」一字ずつ書いてくれた。それは今でも我々の手元にある。また、生前、上田屋の墓石用に「南無阿弥陀仏」の文字を書き石屋に彫らせている。立派な字で同じ文句を軸にしたものも上田屋に残っている。いずれも性格が現れた几帳面な文字である。少なくとも、そういう文字を書くという行為は嫌いではなかったようだ。』
この軸と色紙、今ではすべて我が家にある。文集には載せることができなかったが、今ここにどのようなものであったか写真を載せてみる。
余談だが、落款として捺してある印は、私が彫ったもの。このことについては後日別の項で述べることがあるかもしれない。
なお標題につけた「一隅を照らす生涯」については“あとがき”のところで触れている。
「序」の個所も原紙をそのまま引用したので、最後に当たる“あとがき”も、原紙の引用を持って終わりとすることにした。
写真を拡大してお読みいただきたい。
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| 2026年7月2日(木) |
| 一汁二菜絡み 紅ズワイガニの缶詰料理 |
先日紅ズワイガニの缶詰をいただいた。それも複数。
滅多に口に入いらないので、Mに食べてみようかと提案すると、Mが答えるに「そのままで食べるのはもったいない、何かと一緒に嵩増しして食べようよ」と言う。
その場は、その言葉で一旦収まった。
そして今日である。今日は夕食当番。先日の思いを実現することにした。
嵩増しする相手を探すと、これまた先日、Mが友達からいただいてきたきゅうりがある(我が家のきゅうりはまだ小さい)。
きゅうりで嵩増しすることにしてレシピを探した。
「紅ズワイガニ缶 きゅうり」で検索をかけるといくつかのレシピが出る。
その中で選んだレシピが次であった。
選んだ理由はカニ缶を味わうのが主目的。あまり複雑なレシピでない方がよいと思ったわけである。
せっかく選び出したレシピであるから、レシピ集の中に収めようとしたが、缶詰を材料にした料理を作るのは今回が初めて。
納める場所が見つからない。
“材料編”の中に「缶詰」の項目を新たに設けてその中に今回のレシピを収容した。
これで一品ができる。
ただし一汁二菜としてはまだ不足。
それで作ったのが“菜”としては「ニラ玉」、“汁”としては、乾燥舞茸を具材にした簡単汁。
ただし作るのに夢中になって写真を撮り忘れられた。
上段が紅ズワイガニのきゅうりポン酢あえ、中断がニラ玉用のニラを切ったところ、下段が乾燥舞茸を水に浸してもどしているところ。
これで一汁二菜である。
Mの評価は、今回もよし。
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| 2026年7月1日(水) |
| 新じゃがと新玉ねぎのポトフ |
今日はサロン田屋の開催日。参加して来たのだが迂闊にも写真を撮り忘れてきて、ここに掲載できない。
致し方なく、またしても、前回夕食当番時に作った鍋である。
作ったのが標題にある「新じゃがと新玉ねぎのポトフ」。
Mが作った今年の新じゃがと頂き物の新玉ねぎがあったので作ることにした。
レシピは こちら→
ジャガイモは皮付きのまま切るだけ。玉ねぎも外の皮を除いて、その後は大きく切れ目を入れればよい。
あとは、豚肉を少し炒めたのち材料をすべて一緒に煮込めばよい。手間いらずの鍋である。
このレシピ比較的昔からレシピ集に残しているもので、ちょくちょく採用する。
新ジャガや新玉ねぎで作るのがベストではあるが、「新」がつかない古いジャガイモや玉ねぎでも一向に差し支えない。若干丁寧に煮込めば同じ味になる。
ジャガイモと玉ねぎは普段から常備されている。したがって他の野菜がない時には、このレシピが登場する、というわけである。
レシピには「ブーケガルニ」を入れるとあるが、そんなものにこだわる必要はない。今回私はその代わりに「ローレル」の葉を2枚入れてみた。
それでも充分においしい。おいしいと感ずるものができればそれでよいのである。
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