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2026年8月31日(月)
”奥の田” の草焼き 続編
8月26日の続編である。 こちら→(2026/8/26)

文末に、「あと草刈りをしたい場所がわずかに残っていて・・・」としているが、その草刈りをしたい場所というのは、対猪用金網の外側にある溝沿いの部分である。


この部分の草刈りは、翌日の27日午前中に、草刈りと草集めをした。集めた草は金網の中に入れる。
要した時間は2時間であった。


本来なら、このまま草焼きの作業に取り掛かりたいところであるが、27日の午後からかなり強い雨となり、28日も雨模様。刈った草が濡れて、草焼きの作業にはならない状況が発生したのである。


その後29日と30日は、晴れたり曇ったりの日。カンカン照りの日ではないが、そこそこ濡れた草の乾燥も進んだものと思われ、今日それらの草焼きを実施することにした。


作業を始めたのは8時半から。
最初に金網沿いの草を焼く。これで緩衝地帯ができ、中のススキなどの草を焼いても延焼の危険性が少なくなる。

順次中にあるススキなども焼いて、2時間あまりで作業を終えた。

明日から月替えの9月1日。
いよいよ本格的な草刈り、「秋じまい」に入ろうかと思っている。



2026年8月30日(日)
大人の絵本 と 現在の歩行数
所有の本でなく、借用した本などの一部をコピーして製本するというという行為のシリーズである。今回が12冊目。
前回は少し以前のことであった。 こちら→(2025/11/9)

今回も図書館で借りた本。文藝春秋6月号である。
その中に、“「歩く」が人生を変える”という特集記事がありそれをコピーして製品した。


緩和ケア医と東京都の医療研究所に勤める部門長の対談記事である。

期待して読み始めたが思ったよりは、全体的に印象に残らなかった。
そうは言いつつも具体的には面白い話が載っていて
・大切な歩き方は、歩数ではなく、背筋を伸ばして、腕を大きく振って、大股で歩く。ひざを伸ばすことも重要。
・筋肉や骨、心肺機能に適度な刺激を与えるような運動など、「20分程度の中強度活動」が大切。
・最後まで歩くために本当に必要なのは、気力と根性である。
などという具体的な話も出てくる。


記事の中では、現在82歳の私が、どの程度歩いていれば上等というような目安の数字は出てこなかったが、とりあえず現在歩いている状況を示す結果を拾い出してみた。
8月1日以降の歩数結果である。


1日から31日までの歩数の全平均は4900歩になるが、風邪で寝ていた14と15日、それに31日の異常値を外すと歩数は5500歩となる。

表の中に「しっかり歩行」という項目があるが、これはウォーキングに出た時の歩数。

ウォーキングに出る出ないでは、全体の歩数に歴然とした差があり、ウォーキングの重要さを示している。



2026年8月29日(土) ラベル829
山水復活ならず
13・14日は千葉県で、そして27日には石川県で大雨が降り被害も出たが、当地八色石では一向に雨が降らない。

ところがここにきて、若干変化の様子もうかがえる。
27日には、午後八色石でも少々を強めの雨が降った。


それも、間を置きながらではあるが、少しばかり長い時間降り続き裏庭など水たまりができ、水が流れるほどである。
そして昨日も雨気味。

この様子なら、1週間あまり続いている山水が出ないといういう状況  こちら→(2026/8/20)
も解消されるのではないかと思い始めた。

ともかく取水口まで行ってみることにした。午前中である。
必要な道具を揃え出かけた。
入り口付近で通り道を笹が覆っていて、露でズボンが濡れるが致し方ない。山水優先である。

期待の気持ちはかなり大きい。
取水口付近では堰を水が溢れ、一帯は小さな水の流れができているはずと予想しつつ取水口に近づく。
ところが結果は真逆であった。


一帯は少し濡れているものの、水がオーバーフローしている形跡は全くない。
取水口にもほとんど水が溜まっていない状況である。
少々強めの雨が降ったと思ったが、乾燥した大地がその雨水を全て吸収し、流れ出るほどの余分な水がなかったものと思われる。

もはやうつ手はない。仕方なく帰ることにした。


帰り道でも、笹でズボンがぬれる。気持ちを入れ替えこの笹を刈ることにした。
家に戻り草刈機を持ち出して、入口の笹を刈る。

30分あまりで入口の笹の濃い部分のみ刈り終え、今日の山水作戦を終了をすることにした。



2026年8月28日(金) ラベル828
私の履歴書 神岡部品を退職し、島根に帰る
私の履歴書シリーズその69である。
前回は、腰痛手術で入院中に、現在住む八色石の土地購入の話が出、その話を進めて土地家屋を購入した、という話を述べた。  こちら→(2026/8/24)

今回は勤めている神岡部品を退職し、島根の、新しく購入した土地家屋に移り住むという話を述べることにする。
時期は腰の手術をした翌年の、平成13年(2001年)のことで、私の年齢で57歳の時である。


当時、定年退職といえば60歳が常識の時代で、それに較べると少し早い退職なる。
この早い退職を決断するに至った事由はいくつかあって、
その一つが、満55歳を持って三井金属を退職となったこと こちら→(2026/8/10)
2つ目が、中野幸次氏の書籍に出会い、これまで目指してきたものとは別の世界を経験してみたいと思い始めたこと こちら→(2026/8/16)
そして3つ目が、母親の介護のことである。
母親のことについては、後日別項で記述する予定ではいるが、平成10年頃から認知症の症状が出始め、姉2人に随分迷惑をかけている。
この事態の解消が退職を早めた、僅かな理由の一つでもある。


さて本題の退職の話に戻る。
職務上立場もあって、退職の意向はある程度早めに表明する必要がある。

備忘録を確認すると、金井社長に最初に申し出たのは平成13年1月29日となっている。
「今年で退職」を申し出る。
の記載がある。
行田常務も同席の場であった。

次に記載があるのは2月26日。
金井社長から声がかかり、これから韮崎の事業部に行く。退職の意向に変化がないのであれば、その旨を事業部長に伝えてくる。それで良いかとの確認があった。それでお願いしますと答え、社長の夕方帰社後の話で、その旨伝えてきたと、報告を受けた。

次の記載は3月19日。
当日は「中期計画」の報告で金井社長、行田常務と私の3人で韮崎に出張している。夜、懇親会があり、弘中事業部長から、私宛退職の意思確認があり、「変更の余地はないか」との問いが発せられた。私から「それでお願いします」と答え結論となる。
の記載がある。

形式的ではあるが、正式な退職は6月15日に行われた株主総会の席上で退職が承認されることになる。
当日の備忘録に
株主総会の日。本日にて本格業務の終了ということになる。朝線香を灯して出社する。
事業部側参加者、弘中、高橋、福田。部品側参加者、金井、行田、上田の6名。
夜「中いち」にて宴会。帰り遅くなる。
とある。

その後は不定期で出社。来客もあって、会ったりなどもしている。
そして6月29日の記載。
出社最後の日となる。部屋の荷物を全て片付け、昼からは各事務所のあいさつ回り。管理部にては声が詰まる。
17時、管理部に呼ばれ行き、花束をもらう。
金井、行田、安江氏とで、「追いもと」にて別れの宴。
とある。


ただし神岡を離れたのはさらに2ヶ月半先。
八色石の母屋改修工事が完了してほらず、また、社宅に入る人の予定もなくて、そのまま社宅に居続けさせてもらうことになる。


備忘録には次のような記載もあった。7月3日付けである。
会社に離職票をもらいに行く。
書類に不備があるとのことで職安に行く。職安の扱いは「解雇」扱い。330日間給付が出るらしい。金井、行田の両名の計らいと思われる。感謝。
午後、役場に行き転出証明書を受ける。


その間に送別会が開かれたりした。
日付は7月20日。


誰がどう発議してくれたのかわからないが、ダイカスト課のメンバーが中心になるも、韮崎時代に仕事を一緒にした数名の人も、参加してくれている。


最終的に我々が神岡を車で出発したのは8月21日。途中芦原温泉で一泊し島根に着いたのは8月22日である。その夜は課内の実家に泊まり、別便にて発送した荷物は、8月23日に受け取っている。


車からの荷降ろし、運び入れは、親戚の人々が集まり手伝ってくれている。


少し後日の9月13日のこと、おそらく義父のアドバイスと思われるが、我が家の安全祈願を執り行い、この八色石に住み始めたというわけであった。




2026年8月27日(木)
茄子としし唐の鍋しぎ
今日は夕食当番。
朝から、今日は「夏でも鍋!」で行こうかなと、頭の中で薄ぼんやりと考えていた。

鍋にする理由は、もちろんおいしいということもあるが、手軽なのが良い。
というのは、一汁二菜ならば3品考えなければならないが、鍋なら1品考えればことが済む。
そんな理由で、今日は鍋と考えていたのであった。


鍋なら何にするか。第一候補はトマトすき焼きである。
7月に1・2度作っているが、ここのところしばらく作っていない。
冷蔵庫回りを確認してみると、トマトがない。ただし畑に行けばトマトは成っているはずで、これでいこうと心決めした。

すき焼きといっても我が家は牛ではなく鶏である。ブライン液に浸しておくと肉がしっとりするので、これだけは早めに準備した。


さて夕方調理を始める時間になって、畑に行く。トマトを収穫するためである。

ところが行ってみるとトマトがない。もはやトマトの時期が終了していて、ミニトマトがわずかに残っているものの、普通のトマトが全くないのである。

致し方なく周りを見ると、茄子としし唐が、こちらはしっかり成っている。
トマトの代わりに茄子としし唐を収穫して家に戻った。

トマトすき焼きからの方針替えである。
鶏肉はブライン液に浸してあるのでこれは使わなければならない。
その他に茄子としし唐。できれば鍋で行きたい、という方針で検索をかけることにした。


探し当てたレシピが次である。
 こちら→
「鍋しぎ」とは、昔からある日本の伝統料理で「味噌煮」のことらしい。


ほぼレシピ通りに準備した。
茄子は砂糖をまぶしておく。
それぞれサラダオイルで炒め、味噌だれを作る。鍋にしたいのでレシピよりは水の量を多くした。

その出来栄えである。
Mはおいしいよ、と言ってくれるが、私にはそれほどでもない、気がした。
味噌味より醤油味を好む私の性癖が原因かもしれない。


これから先、再び作る気が起きるかどうか、今のところは、否定的な考えが頭をよぎる。



2026年8月26日(水)  ラベル826
”奥の田” の草焼き
それ以前の天気予報は、向こう1週間は晴れの日が続くと発信されていたのに、昨日の午後あたりから予報の内容が変わり、明日以降は雨マーク入りの予報に変わってきた。
極端な雨不足で雨自体は嬉しいのだが、一方、只今草刈りしている“奥の田”に関してのみは有難くない。

くどい様だが、“奥の田”の事情を、もう一度ここに再掲すると、
8月17日に、産業道路と呼ぶ場所の草刈りをして、こちら→(2026/8/17)
以後、 21日、22日、そして24日に、各1時間、合計3時間をかけて、産業道路以外でススキの株が大きく群がっている個所のススキ刈りをしていて、この倒したススキも産業道路の草と一緒に焼きたいわけである。
その刈り倒した草が、今なら乾燥して焼きやすい。

そういう事情のもとで、急な天気予報の様変わりである。
草焼きはは当面の予定に入っていなかったのだが、予報の急変を受けて急遽今日草焼きをすることにした。


作業を始めたのは、朝の8時頃。奥の田にはまだ日が当たっていない頃である。
枯れた草が朝露で少し湿気ている。
燃えるかどうか訝ったが、湿気ているのは上面だけで、着火してみると心配した程でもない。
むしろ、火の勢いが極端に強くならず、燃え広が可能性はなくて、逆に好都合というぐらいであった。


このような状況で約2時間あまり作業をした。
そのうち日が当たって暑くなってくる。
2時間あまり作業をしたところで、焼きたい場所の6・7割は焼き終えた。

あと草刈りをしたい場所がわずかに残っていて、残った草焼き部分は、その草刈りした草と一緒に焼く方が都合が良い。

今日の作業は、この2時間あまり作業をした時点で終了とした。



2026年8月25日(火) ラベル825
左目、眼科検診
左目の、月1回の検診の日。今回が通算28回目となる。
前回は こちら→(2026/7/24)

前回の診察時、9月の診察に合わせてオイル除去の手術を実施することが決まり、今日はそのための術前検査と手術に向けての説明の日と予定されている。

予約時間は普段より少し早く、9時からとなっているので、8時には家を出た。いつも通りMの運転である。
クリニックには9時前に着いたが、中に入ると大勢の患者。座る椅子がないほどである。


まもなくスタッフから呼び出しがかかり、普段は通されない部屋に導かれて術前説明がなされた。
10枚程度の資料も渡されそれを基に説明がなされる。特に新しい内容の説明はなく、常識的な内容であるが医療提供サイドからいえば万一事故などに備えての説明なのであろう。ただし、このようにわかりきったことを、規定通りに地道に行うという病院側の態度は、好ましく思われた。

あとは普段は行われない、血液検査のための採血が行われたりなど。

その後は、普段通りの視力検査他の検査があって、その後医者の診察になり、「手術は頑張りましょう」との言葉があって診察を終了した。


クリニックを出たのが11時過ぎ。街で簡単に食事をして、さらに買い物などをして、午後4時頃我が家に着いた。



2026年8月24日(月) ラベル824
私の履歴書 神岡勤務時代余話 その10 腰痛の手術と八色石家屋購入決定 後編
私の履歴書シリーズ その68である。
前回は、平成12年に、突然腰痛となり富山医科薬科大学に入院して手術を受け、漸くにして退院したという話をのべた。 こちら→(2026/8/19)

入院期間は3ヶ月におよぶ長いもので、今回は、その入院期間中に起きた話で、現在我々が住むこの八色石の土地を購入する決断をした、という話について述べることにする。


話が少し遡ることになるが、入院し、手術を受ける段になって、川口先生に手術後の見通しを聞いてみたことがある。「将来は、草刈機やチェーンソーなどが使えるようになるでしょうか?」との質問である。
その背景には、以前記事にした「上田屋の山に家を建てる」という考えがベースにあり、家そのものは業者に建ててもらうにしても、周辺の環境整備のためにはこれらの機械が使える必要がある。そんなことを思っての質問であった。
先生の答えは、「かなり良くなると考えてはいるが、重量物を扱ったり、機械を使うのはおそらく無理でしょう」と言う内容のものであった。

当時の状況からすると当然の答えであるが、しかし聞いた我が方は、“我が山に家を建てる”という夢が、遠のく思いのする答えでもあった。


一方、入院中手術を終えて間もない頃のことであったと記憶するが、家内経由で義父の伝言が入ってきた。
「家内の実家から5・6キロ離れた八色石と言う集落で恰好の物件が見つかった。他に物色している人も居るらしいから急いで契約をしたい。了解しろ」という趣旨の内容である。
すぐに返事と言われても、我が方は入院の身。
しかも見たこともない土地のことである。せめて写真でも見たいと返事をすると、すぐに20枚余りの写真が送られてきた。
その中から何枚か抜粋したのが次である。


かつては手広く事業を行っていた人の土地であるが、事業に失敗し土地を離れ、2年余り人が住んでいないらしくかなり荒れてはいる。
宅地の他に地続きで裏山が広がり、この面積がおよそ2万平方メートル。さらに、田圃や山林もあって、全て合わせると6.5万平方メートルという広大な土地であった。
上田屋の山を開墾するに比べ腰への負担は少なかろうと、即座に購入を決意した。


譲り受ける交渉役は義父と義兄が当たってくれた。
すでに山林や雑地は元の持ち主から他の人へ売却手続きが終わっていて、購入の交渉相手は別の人になる。また私は農業の経験がないので農地を購入することができない。農地の購入者名は、私ではなく義父名にするなど交渉と登記の手続きは複雑を極めたはずである。
義父はそれいけどんどんの人。一方義兄は役場勤めの傍ら土地家屋調査士の資格を取得していて、土地売買のプロ。
この2人の力を合算して、ようやく入手することのできる難物件であった。

交渉の結果が4冊の登記済み権利書となって手元に残っている。


 種類  売主 買主  筆数  登記日 
 山林・雑地  沖川  上田  10筆  平成12年10月21日
 田・畑  日高  宇津田  8筆  平成12年11月17日
 田  日高  宇津田  5筆  平成13年3月19日
 宅地。家屋  日高  上田  3筆  平成13年3月19日

義父名で購入した農地は、義父の死後、相続にてM名義になっている。


その後母屋の主だった個所をリフォームした。
工務店は、義兄の家の改修をしたことがある太田工務店という業者に依頼した。工事の見積書が残っている。


私は仕事の関係で戻ることができないので、工事業者との折衝や、その他の工事詳細の詰めはMが時折島根に戻り実施をしたのであった。


以上のような経緯を経て、我々は平成13年に八色石に移り住むことになるのだが、このことについては次回に回す。



2026年8月23日(日)
「美人親子三姉妹」の来宅
今日は地域の防災訓練の日。
8時半に防災訓練の無線放送がされ、公民館に集まり、出前講座などの講習を受け、11時頃帰宅した。

戻ってみると、前庭に大きな白い車が止まっている。親戚の誰かが、墓参りにでも見えたのかと思いつつ、部屋に入ってみると思いがけない来客であった。

昨年から旧交が復活したIさん一家の美人連中。親と三姉妹の娘さんの顔が並んでいた。
とりあえず許可を得て写真を一枚。
それが次である。


右端がお母さん。続いて左回りに長女の“ちいちゃん”、そして3女、2女と続く。

元々の知り合うきっかけはMの仕事である児童クラブの関係。
旧瑞穂町で児童クラブが開設された2000年代初期の頃、Mは児童クラブの指導員、そして3人の娘さんが児童クラブの生徒さんという関係である。

当時、夏休みの期間中に一日だけ児童クラブの一同が、我が“里庭”に遊びに来るという恒例行事があって、
例えば、平成22年(2010年)が こちら→
     平成23年(2011年)が こちら→
この行事、平成22年の前書きに、「今年で5回目」の記述が見えるので、平成16年から始まったものと思われる。
この“里庭遊び”の際は私も手伝いをするわけで、そんな関係で生徒さんたちと若干のつながりができたという関係にある。


ただし娘さんたちが児童クラブを卒業して後、しばらくの間交流が途絶えた時期があった。
その期間は20年弱であろう。


娘さんたちはそれぞれ大きくなる。長女の“ちーちゃん”は長じて邑南町役場に勤務することになった。
昨年の春先であったと思うが、何の用事であったか思い出せないのだが、役場に行くことがあり名前を告げ、担当職員を待っている間に、若い女性が私に近づいてきた。
「上田のおじちゃん?」という。それが“ちいちゃん”であった。
少し昔話をし、「行ってもいい?」と“ちいちゃん”が言うので、「電話でおばちゃんがいるのを確認して、是非来て!」とその場を別れた。

その後Iさん一家は、昨年のうちに一度我が家を訪ねてきてくれた。
その時は、お母さんと長女と次女の三人。来た時期は「ブッポウソウの鳴き声がしていた」という時期であったらしい。
(後刻、備忘録を確認したら2025年6月28日となっていた)


そんな経緯を経て、今回また再会の運びとなった次第であった。


私は聞き役の部分が多いが、Mと一家との間では昔話が延々と続いた。
絵の話が出たり、山の話が出たり、友達の話が出たり、など。

そのうち私も負けてはならじと、今続けているホームページの話を紹介した。
皆面白いと言ってくれる。今日の話題を散歩帖に載せてもよいかと尋ねるとOKとのこと。その後は安心して写真を撮ったりなどし、今日のこの記事を書いている訳である。

Mともども語り合ったのだが、
若い人に会うと、会うだけ何かエネルギーのようなものを受け取ったような気がするが、それになお美しい人という、おまけまでついていた。

近年では稀にしか出逢えない、望外な喜びの日を過ごすことができたと、喜んでいるのである。



2026年8月22日(土)
給湯ボイラーが故障した
半年くらい前からか、Mが給湯ボイラー周辺が湿気ると言い始めた。
当初は給湯器に水を供給する配管が漏れているのかと思い、給水メーターを確認するが、メーターの回転子は回転しない。
水漏れの量は大したことはないと判断して、そのまま放置していた。

およそ10日くらい前か、今度は給湯器一帯がかなり濡れてくる。
どうやら配管ではなくボイラーそのものから水漏れが生じているようであった。こうなるともはや我々の手には負えない。業者に見てもらうことにした。

このボイラー一式は、25年前、我々がここに越してくるとき新設したもの。
その時の業者に頼む手もなくはなかったが、この業者は旧石見町。もはや近い業者がよかろうと、旧瑞穂町内の業者から選ぶことにした。
来てもらった業者名は「飯石設備」という。
児童クラブにも出入りしている業者とかで、Mは若干の顔見知りでもあるという。

最初に来てもらったのは6日前。まだ若いハンサムな好青年であった。
ボイラーの前蓋を開けると、水がかなりの量漏っている。「○○バルブ」と部品名を言うがもはや覚えていない。
このバルブの部品が取り寄せられれば部品交換で修理ができるが、25年前の製品であるから、メーカー側に部品在庫があるからわからないという。
「部品がなければ、新規更新でもよい」と我々から答えて、その場は分かれた。


そして5日目の昨日連絡があって、物品を置きに来るという。
部品の交換はならず、一式更新らしい。

そして今日が工事の日。
予定では午後からとなっていた。

今日の昼食当番はK。
Mは、昼までには戻るといって外出した。
今日の昼食メニューは冷そうめん。

11時半ごろである。
昼食の用意をしているときに、若者が現れ「我が家の前に実施予定の作業が、見込みより早く終わった。予定より早いが、作業をさせてほしい」という。
昼食はと聞くと「簡単に済ましてきた」らしい。

私は了解を得て昼食作りに戻る。
そのうちMも帰ってきて昼食を食べた。

昼食を食べ終わって工事の進捗を確かめようと外に出てみると、工事のあらかたは終了していた。


昼食の関係で工事の進捗方法は見ていない。
事前の私の予想では、新旧のボイラーで配管の取り付け位置はおそらく異なる。取り付け位置を合わせるために、配管を組み直したりなど、工事はかなり大変と勝手に思っていたのだが、結果を見るとブレキシブルホースで連結されていた。
確かにこれなら配管替えの必要はない。
「なるほど!」と大いに感心した。

午後凍結防止の設置をするなどし、そしてお茶などを飲みながら少々話をして後、若者は帰っていった。

その若者、年齢は41歳3児の父親とか。
受け答えも明確で、容姿は端麗。

「今どきの若者」はなかなか素晴らしい。



2026年8月21日(金) ラベル821
「奥の田土手」 の草刈り
お盆前後、一時涼しい日が続いて、もしかしてこのまま秋になるのかもと、淡い希望を抱いたが、もろくも崩れ、ここに来てまた暑い日が続いている。
夕方のニュースでは、今日の最高温度の島根県第1位は川本町で37.1度とか。川本町は八色石と山一つ隔ててすぐそば。八色石も暑いわけである。

この暑さでは、“秋じまい”をするには早すぎる。
したがって秋じまいとは切り離している作業を実施した。
「奥の田土手」と呼ぶ場所の草刈りである。

この奥の田土手の草刈りは今日で2日目。第1日目は8月18日に実施した。


18日の作業が1.5時間、今日が1時間の作業になった。
いずれも午前中の涼しい時間を狙って実施した。


この場所の草刈りは毎年手が抜かれている。
「秋じまい」が終わってのち、せいぜい年に1回程度刈るだけである。
その性もあって、草のほかに雑木類の小さなものが芽を出し、それが年々太さを増してきて、太いものでは2Cm程度まで大きくなったものもある。
このままでは草刈機では刈ることができない太さになる可能性もあって、8月になってから、物は試しで、3・4度除草剤を散布してみた。
したがって、今日の作業は草刈りと同時にこの雑木類も刈ったのだが、枯れて葉が茶色になったものを刈ったわけである。

来年以降、この太くなってきた雑木類が枯れて芽を出さず、いわゆる草だけが出てくれればよいのだが・・・。
来年以降の楽しみである。



2026年8月20日(木) ラベル820
山水が枯渇した
およそ10日前の8月9日のこと、“干天の慈雨”が降ったと喜んだ。
 こちら→(2026/8/9)

その時4mm程度の雨が降ったと思われ、畑などにはそれなりの効果があったのだが、それ以後は、再び雨が降っていない。
たまに降ることがあるが、その量は極めてわずか。敷石が濡れて光る程度しか降らないという日が続いている。


そのような少雨傾向が裏庭に流れてくる山水にも影響し、出る水の量が徐々に減ってきた。
10日くらい前には、チョロチョロとしか出ないという状況になり、“干天の慈雨”で量が増えるかと見ていたが、一向にその気配は見えなかった。

4・5日前には、出る量は極細となる。

3日前のこと。
山水が細った原因は、99%は枯渇が原因と推定されるが、どこかで漏水している可能性がないわけではない。万一の事を考え、確認のため取水口まで出向いてみた。
結果はやはり枯渇であった。漏れている様子は確認されない。簡単な取水口の掃除をして戻ってきたという経緯がある。


そして昨日から、山水は全く出なくなった。


もはや、枯渇以外の原因は考えられないので、復旧のための出動はしていない。


我々がここに移住してきて25回目の夏を迎えることになるが、これまでに、枯渇が原因で山水が出なくなることが2・3度はあったという記憶がある。

“枯渇”の記録を取った記憶がないので調べようがないが、かなり昔のこと。
少なくともコロナ禍以降のことではない。

近年の珍事といってよいであろう。



2026年8月19日(水) ラベル819
私の履歴書 神岡勤務時代余話 その10 腰痛の手術と八色石家屋購入決定 前編
私の履歴書シリーズ その67である。
前回は、定年後は“島根にかえる”ことを前提に、「上田屋の山」を確認し、その侵入に妨げとなる土地を購入した、という話を載せた。 こちら→(2026/8/16)

私には生涯を振り返って、“三大疾病”といってもよい、大きな病気を3度経験している。
その一つは韮崎勤務時代に経験した「神経症」で、その2つ目が今回記述しようとする腰の手術である。そして三つ目は、今なお進行中の左目の怪我がそれに当たると思っているのである。


さて、その腰痛が出始めたのは、平成12年(2000年)である。この時の年齢は56歳(誕生日は5月)であった。
痛みが始まったのは2月11日、その後2,3日急激な痛みに襲われた。とりあえず神岡町病院で受診し、投薬治療などを受けている。

その後、4月から5月にかけて痛みはいったん収まり、娘と2人で北海道旅行を実施したのは間である。
 こちら→(2026/8/7)


ところが、5月の末になり痛みが再発。そのまま痛みが継続するので、産業医の指導もあり、富山医科薬科大学(現富山大学医学部)付属病院の整形外科を外来で受診した。7月3日のこととなっている。
この時、外来担当として初めて診察していただいたのがK先生。30代半ばと思われる若い先生であった。

(K先生は川口善治(かわぐちよしわる)という。現在は、富山大学医学部整形外科教授。日本腰痛学会の会長でもある。NHKの「きょうの健康」にも出演される。という、日本でも屈指の腰痛専門の大家であった。)

その後検査、入院、そして手術となるのであるが、この間の経緯を自分で独自に設定した「痛みの度目安」の推移グラフが残っていて、これを読み返すことで当時の動きを再び思い出すことが可能になった。



以後何度か富山医大を外来で受診し、検査などを受けて入院の運びとなる。
入院したのは平成12年8月15日であった。
当日発行された入院診療計画書なる書類が手元に残っている。


主治医として川口先生他の指名が載り、病名は「腰椎椎間板障害」と記載されている。
なお同日からA4の裏紙に、自分なりの備忘録を記録していて、病院には10時半に到着している。
以後翌日からは検査などが始まった様子も記載されている。


入院後もいろいろな検査が行われた。
記憶を遡ると、腰椎の中に“バイ菌”が存在するらしく、そのバイ菌の種類を特定し、そのバイ菌を除去するというのが治療の大方針と説明を受けた(気がする)。
バイ菌が入っているのは腰椎の4と5。バイ菌を特定するための検査が複数回行われたが、結局種類は特定できなかったと説明を受けた(気がする)。

バイ菌の種類は特定されないまま、手術となった。
手術日は9月14日である。手術に向けての書類が発行されている。


輸血同意書と手術に向けての諸説明資料である。

一方、手術日前後の私が記録した、備忘録も残っていた。


前日には手術に向けての諸準備、食事制限も受けている。
そして手術。手術室に向かったのが8時20分、病室へ戻ったのが12時45分とある。要した時間は4時間余。
手術予定書に記載してあった時間と見事に一致していた。

手術は「前方開腹○○術式(○○に当たる言葉が思い出せない)」で行われた。
背中にある脊髄を手術するのに、背中側から手術をせず、お腹側から行うという方式である。
私は全身麻酔で見ていないので、後で聞いた話だが、お腹を切り開いて、中にある臓物を取り出しお腹の上に乗せて、背骨を手術したと聞く。
腰椎4と5の中にあるバイ菌を、穴を開けて洗浄しバイ菌を除去したのち、穴を開けて弱くなった骨と骨を、腰骨にあたる“蝶骨”という骨の一部を持ってきて、骨の間に楔状に埋め込み、弱くなった骨同士を補強したのだという。
その後臓物を元の位置に戻し、閉腹するという大手術であった。
脇腹を切った写真が残っている。


長さは20Cmあまり。
その傷跡は、ずいぶん薄くはなっているが、現在でも残っている。

手術日以降の写真が残っている。


備忘録には、16日頃まで痛み止めの座薬と浣腸が続いたと記載している。
初めて自分で食事をとったのが18日。歩行器を使って初めてベッドを離れたのが22日となっている。

以後、紆余曲折を経ながら体力の回復を待ち、退院を待つことになるのだが、手術から退院までの間は一ヶ月余り。
どのような日常を送っていたのか、備忘録の一部を抜き出してみた。


9月29日からはシャワーが可能になり、また10月3日の時点で川口先生から退院は10月20日過ぎかという見込みの予想が述べられている。
その他には見舞いの来客があったりなど。
少しずつ歩行の訓練も始めている。


退院に受けての具体的な話が表に出てきたのは10月18日であった。
そして最終的には退院は20日と決まり、20日に無事に退院を果たしたという経緯である。


その後2週間余り養生のため自宅待機をし、11月8日から勤務を再開した。


なお、備忘録に記載している「家の話とは、現在我々が住んでいる八色石の土地・家屋のことで、この入院中にことが進み始め、話が煮詰まってきたものである。
中心になって動いてくれたのは義父と義兄の2人であった。なおこの家屋のことについては、次回触れることになる。




2026年8月18日(火)
ネタ切れ時の一汁二菜
ネタ切れ時の一汁二菜シリーズである。
ただし、今日作ったものではない。
写真が残っていたので、これ幸と取り上げることにした。

メインとなる鯛のアラ煮の材料は冷凍保管してあったものを解凍して使った。したがってMが材料を買い求めたのは、さらに以前のものである。

さて、改めて、一汁二菜のメニューを示せば次である。
メインとして鯛のアラ煮、しめ鯖とキュウリの和え物、そして椎茸と豆腐の汁である。



まず鯛のアラ煮。
参考にしたレシピは こちら→
“霜ふり”をして鱗などを取りのぞき、あとは酒と砂糖、しょう油とみりんを入れて煮るというもの。時間は少々かかるが難しくはない。

締めサバの和え物はごまだれを使うのが味噌。小欄には何度も登場した。

そして汁物は我流の味付け。出汁は粉末だしと酒少々である。


味は上々。
“一汁二菜”としては御馳走の部類である。



2026年8月17日(月) ラベル817
“奥の田” の草刈り
少し涼しくなってきたとはいえ、この暑さでは草はまだ伸びる。したがって“秋じまい”を始めるには少しばかり早すぎる。
そんな状態で、今日草刈りしたのは“奥の田”である。

この奥の田は2023年からわが方で管理を始めていて、こちら→(2023/4/24)
少しは見栄えよくなっていたのだが、昨年の目の怪我以降手を入れることができず、再び荒れ地化の様子を示している。

この状態に、除草剤を散布したらどうなるかと思いついて、8月に入って以来、日に1回、合わせて6日、除草剤を散布してみた。
その除草剤効果が現れ、草が枯れて来ているので、これを刈ったという経緯である。


今日草刈した場所は、田圃の端の、幅3〜4mばかりの個所。
この個所は、少し土を盛り上げて高くしていて、特別に「産業道路」と名づけたりしている。

草刈り作業は1時間あまりで完了すると踏んで仕掛かったが、思いのほか時間がかかり、2時間を超す時間を要して終了した。
後日集めて焼却の予定である。



2026年8月16日(日) ラベル816
私の履歴書 神岡勤務時代余話 その9 “矢上で土地を買う”
私の履歴書シリーズ その66である。
前回は三井金属を定年退職し、神岡部品へ転籍したという話を載せた。
 こちら→(2026/8/10)

今回は、ほぼこの時期から動き始めた“島根に帰る”という話の、具体例の一つを載せてみる。

話しが少し戻るが、
いつの頃からか、定年をいつにするかは別として、定年後は生まれ故郷の、島根に帰りたいと思うようになっていた。

思いの裏には、1992年に発売されベストセラーになった中野幸次著、“清貧の思想”があるかもしれない。


“清貧の思想”は何度も読み返したし、また氏の書いた“「閑」のある生き方”や“足るを知る”も熟読した。

その結果、
これまで50年、夢中になって追いかけてきた世界とは別の世界にも、幸せが潜んでいる”かも”しれないと思い始めたのである。
それは一言で言うなら「物欲を離れ、自然とともに、足るを知り、閑を楽しんで生きる」という世界である。
中野氏が提案する、この、これまでとは違う世界を実践してみようと思い始めたのであった。

この考え方を実践するには、島根に帰るのが一番と思い始めたのである。


私は末っ子の長男である。したがって生家は残っている。
ただし、その家は、前は県道、後ろは他人様の田圃で拡張の余地は全くない。できればもう少し伸びやかな場所が惜しかった。
そんな次第で、盆や正月など帰省の度に、中古で売ってくれそうな家はないかと、Mともども探し廻ったものである。

そんな折りのこと、義兄が「上田屋の山が県道沿いにある」と教えてくれた。
その山のことは私にも記憶があって、確か「ハッタゴ(漢字が分からない)」という湯治宿の脇を通る、県道から数百メートルは小道を登ったところにあった山である。
ところが、その後新しい県道が付設され、「上田屋の山」が県道沿いに位置することになったわけであった。

義兄が案内してくれると言うので付いて行くと、そこには確かに「上田屋の山」があった。なんとなく記憶に残る地形もある気がする。

資料を取り寄せ確認すると県道の四つ角に位置し、左折すると“香木の森公園”に至り、直進すると“市木”、右折すると“日和”に至るという場所。広さは8000平方メートル強あった。
場所としては悪くはない。ただ一つ大きな問題が存在した。
それは、「上田屋の山」と県道との間に、他人が所有する土地がおよそ10mの幅で横たわっていたのである。

これらの関係をGoogleマップ上で示せば次のような状況である。


中央にある黄色い枠で囲んだのが「上田屋の山」。塗りつぶした場所が他人が所有する土地である。(概念図で正確なものではない)

このままでは、県道から上田屋の山に入ることができない。家を建てるかどうかは別として、とりあえず土地を購入することにした。
交渉役には相手の持ち主を知っているという“日貫”に住む従弟が当たってくれ、書類上のまとめは義兄が担当してくれた。
価格は相手の言い値で承諾した。

すべての手続きが完了した事を示す書類が、神岡に住む我々に義兄から送られている。


「売買証書」の日付は平成11年(1999年)1月11日、「登記済証」の日付は平成11年1月17日となっているから、前回記述した三井金属の定年より前のことになる。

“島根に帰る”ことを具体的に考えていた証左にはなる。


「上田屋の山」の状況を示す手持ちの写真がないので、Googleマップのストリートビューを借用して示せば次のようになる。



そんな話を協力会社の社長であり、一方工務店の社長でもある、飲み仲間のSさんに話をしたのであろう、ある日、“我が家の設計図”ができたといって持ってきてくれた。
私に相談することもなく、一人で島根県まで出向き、「上田屋の山」を確認した上で設計図を作ったのだという。


設計図の日付は平成12年4月28日となっていて、この時期は、“島根に帰る”ことを具体的に考え始めた頃にあたり、そういう意味では、上田屋の山に“我が家を建てる”具体策を提案するもので、夢を実現するための有力な材料になった。



2026年8月15日(土)
シンテッポウユリ
今回の夏風邪、13日と14日の2日間寝込んだ。

特に昨日は最悪で熱が38度台前半まで上がり、直るのかしらん、と心配などもしたが、今日は熱も治まり起きることにした。
ところが、原因はよくわからないが下痢気味。トイレに何回も行く始末。おまけに食欲もない。
屋外に出たのは、午前中我が家のお墓参りをしたのみ。
あとは屋内でぶらぶらと過ごしたような状態である。

そんな次第でネタがない。窮状を救ってくれたのがユリの花である。
裏庭に出た折り目に入った。
風邪で寝込む前は1輪咲いていたが、今日見ると2輪になっている。


咲いた場所は裏納屋にある駐車場。
しかも車を置くスペースと、その脇にある5・6Cm高くなった物を置く場所との間にできた僅かな隙間に生えているのである。
けなげというか無鉄砲というか、そんな仕業。


名前は「シンテッポウユリ」というらしく、以前何度か小欄で紹介した。
 例えば こちら→(2024/8/20)


ただし、以前咲いたと紹介している場所には、今年は一本も見つからず、駐車場の際のほかでもう一カ所咲いたのは、母屋の脇にある石垣であった。


これも石を積んだ隙間から芽を出していて、相当に珍しい。



2026年8月13日(木)
本日休刊
夏風邪をひきました。喉が痛く微熱があります。

午前中近郊のクリニックに行き、薬を処方してもらいました。
コロナとインフルエンザの検査をしてもらいましたが、そちらは両者とも陰性で心配ないようです。

今日は一日横になっている状態で、本日休刊とします。



2026年8月12日(水)
小・中学校 ミニ同窓会
数日前の事。
昨今、小学校から高等学校までの在郷同期会の世話役を一手に引き受けてくれている友人から電話があって、盆前の今日(12日)、横浜から一人そして名古屋から一人、中学の同窓生が墓参りで帰ってくる。
ついては在郷の同窓生も一緒になり、ミニ同窓会を開かないかとの連絡があった。

私は参加する旨の返事をしていたが、どうせ集まる人は4・5名程度であろうと予測をし、今日の同窓会に臨んだのである。


ところが集まってみると思いのほか参加者が多い。横浜からの参加者は女性でご主人も一緒に参加。
在郷生でも1・2人都合のつかない人がいたが、残る人はほとんど参加。

総員で10名の参加となった。


高校の同窓会は、その後もしばしば開かれているが、中学の同窓会は古稀の同窓会以初めてのこと。しばらくぶりに会う人も数名いて、懐かしい思いに浸ることが出来た。

還暦と古稀の同窓会は中心になって、準備を万端整え、泊りがけの大きな同窓会を開いたが、これからはこんな手間なしミニ同窓会も悪くない。
元気で会えるのが一番である。

もっとも、いつまで参加できるかという大きな問題が残ってはいる。



2026年8月11日(火)
急に涼しくなってきた
7月8日に梅雨が明けて以降暑い日が続いていた。暑いというよりは猛暑である。
人に会えば定番の挨拶が「暑いですね」という毎日であった。

それが昨日の夕方から、何の前触れもなく涼しくなってきた。

我が家は夏の暑い時期だけ、2階の客間(物置部屋)にクーラーがあるため、そこに布団を敷いて寝ることにしているのだが、そのクーラーをつけるかつけないかの目安は、隣の部屋(Kの自室)の壁に掛けてある寒暖計(クーラーの影響を受けない)で、寒暖計の温度が28以上ならばクーラーをかけることにしている。一方トイレなどで起きた時は、この目安の寒暖計を確認し28度以下ならクーラーを消すわけである。

ところが昨晩寝る時に、目安の寒暖計を確認すると27度しかない。これならクーラーの必要はなく、網戸になっているガラス戸を開けて寝た次第である。

そして今朝になり、温度を確認してみると、各部屋に置いてある寒暖軽が24・5度しかない。
感じる体感温度は寒いほどである。なぜか一気に涼しくなったのであった。


この様子を目でも確認しようと、連続で記録している温度計を取り外してきてパソコンで温度を確認してみた。


この温度計の記録で確認するともう少し詳細がわかる。
体感で昨夜から一気にすずしくなったと思ったが、実は2日前の9日くらいから少しずつ温度は下がり傾向を示している。
それが最高温度が30度に達しない事態に至って、ようやく体は涼しいと感じたのであろう。


それにしても、ここにきて急に涼しくなってきたのはなぜなのだろう。
まだ8月の初旬、涼しくなるにしてはまだ早い。
異常な動きをしている、台風13号の影響であろうかとも思うが、これもよくはわからない。

ともかく、涼しいのは誠にありがたい。
このまま涼しくなってくれればと願うが、そうは行くまい。

本当にすずしくなったと実感できるのは、1ヶ月先であろう。
もう少し老体にムチムチつつ、我慢の日々が続くことになる。



2026年8月10日(月) ラベル810
私の履歴書 神岡勤務時代余話 その8 “三井金属を退職”
私の履歴書シリーズ その65である。
前回は手作り文集を発行したという話を載せた。 こちら→(2026/8/7)

今回は三井金属を退職し、神岡部品へ転籍になるという話を載せる。


退職する日は満55歳になる前日で、満55歳になった当日は、すでに三井金属を離れ、神岡部品に在籍という形を取るのであった。

辞令書が残っている。


それまでは三井金属からの出向という形で、三井金属社員であったものが、それがなくなるということになる。

(注)このルールは私だけに適用されたというものではなく、関係会社の役員になっているもの全員に対し、適用されるルールであった。


同時に、退職金も支給される。その書類も残っていた。


退職した3日後には、指定の銀行口座に退職金が振り込まれている。


現在はどうなっているかわからないが、私が在籍していた当時は、社員は満55歳になると支払われる給料が25%減額になるというルールが存在していた。
それに合わせるためであろうが、退職後の私の給与も、神岡部品の社長宛に連絡書が届いていた。
減額ルールが適用されている。



以上の一連の動きは、私にとっては、ある意味では重要な出来事であった。

三井金属籍から外れたという寂寥感がないわけではなかったが、むしろそれよりは、三井金属での仕事をやり終えたという、ある意味満足の気持ちが強かったのである。

これを機に、それまでは意識の中でなんとなくぼんやりと描いていた、「島根に帰る」、「生まれ故郷に帰る」という思いが、具体的に形を作り始めたのであった。

ただしこの話はこれから後、追々と述べることになろう。




2026年8月9日(日) ラベル809
干天の慈雨
7月7日の午後一時雨が降って、後8日に梅雨が明けて以来、初めての雨である。
この間丁度1ヶ月、八色石ではおそらく一滴も雨が降っていないはずで、まさに慈雨となった。


降り始めたのは午後の4時半頃。それから6時近くまで、強弱はあるものの降り続いた。

直線距離で1Kmほど離れた県が設置した公民館の雨量計では、この間に4mmの雨が降っている。
八色石に降った雨も、おそらくその程度であろう。

雨が上がって後、どの程度土地が湿気たか、Mが畑の土を掘り返してみたら、かなり深くまで水が浸透していたという。

まさに干天の慈雨であった。



2026年8月8日(土)
墓掃除
数日前から今日の墓掃除は予定に組み込まれていて、しかも暑くなるのは間違いないので、朝早くから始めようということは合意されていた。

朝の5時半頃から道具類の準備をし、掃除そのものを始めたのは、ほぼ6時頃からであった。


周辺の草刈り作業は事前に済ませていて、今日はその刈った草を集めて焼くのがとりあえず私の仕事。一方Mは墓の脇にある、黄楊や紫陽花の剪定をする。

それらが一段落して後。墓そのものの掃除になった。
墓石を水洗いするのがM。私は周辺の草取りを命じられた。

最後に回りをもう一度掃き清めて、すべての作業を終える。
終えたのがほぼ9時。3時間にわたる盆前の定例の墓掃除であった。



2026年8月7日(金) ラベル807
私の履歴書 神岡勤務時代余話 その7 二つの文集 後編
私の履歴書シリーズ その64である。

昨日の続き、手作り文集の2冊目の話。
今回は旅行記で、2000年(平成12年)6月に発行した。

実は、その年のゴールデンウィークに車で北海道旅行をしていて、しかも娘と2人という珍しいもので、その旅の内容をまとめたのである。


旅が実現した経緯は後ほど文集の中で紹介するので、とりあえず、日数と旅の行程のみあらかじめ紹介すると次のようになる。

まず日程。
4月29日に出発して、家に戻ったのが5月5日。6泊7日という日程であった。
この間ホテルと旅館に各1泊、フェリーで1泊、残る3迫は車中泊である。

次いで工程。
文集では旅程図として地図で示したが、ここでは通った場所を文字で示してみる。

神岡を出発して富山、国道8号線を北上して新潟、国道49号線に乗り換えて東進し郡山市。郡山で東北自動車道に乗り換えて北進、盛岡を経由して青森に着く。青森からはフェリーで函館という形で北海道入りした。
函館からは再び車で小樽、札幌。北進して海沿いを走り稚内を経て宗谷岬へ行く。
宗谷岬からは帰途に向かい、北海道の中央部を南に下り旭川、そして富良野経由で苫小牧まで行く。
苫小牧からはフェリー。秋田を経由して新潟まで。
新潟からは再び車で富山まで戻り、富山で娘と別れる、という工程であった。

この間車での走行距離は2,594キロメートル。娘は車の免許証は持っているもののペーパードライバー。すべての工程を私一人で運転した。当時私は56歳。今では考えられない元気さである。


さて、本題の文集である。
表紙と目次を示せば次の通り。


これまでの文集2冊はすべて手書き。文明の利器はコピー機のみであったが、今回の文集は表紙、写真や文字、全てパソコン製である。サイズはA4の縦書きとした。

最初に写真集を配置した。写真集は8ページからなるが、一例を示せば次の通り。


旅程図は地図で示した。


後ほど示す「あとがき」に、この旅程図は「マップ」の機能を使ったと記述しているが、今ではいかにして作成したのか思い出すことができない。

そして本文であるが、本文の総ページは27ページに及ぶ。一例として文頭、中ほど、文末の三カ所を示してみる。

あお、ここでは、子供らの名前の個所は伏字にしてある。

5月上旬に行った旅の内容を、1ヶ月余り経た6月下旬に書き上げている。
もちろん、会社業務を終えて帰宅後に作業をしているわけで、「あとがき」にも記しているように、相当エネルギーをつぎ込んで作成した模様である。
当時の備忘録を見てみると、深夜遅く寝たという記事も、ところどころに見え、また、ある土曜日には徹夜した、との記載もある。若かったからできた仕業であろう。

本文集も印刷部数は限定4部。
これまた希少本である。


追記;
本文集全編のPDFファイルを添付します。
興味を持っていただいた方は、お読みください。

 「北海道ふたり旅 父と娘の七日間」


蛇足;

昨日登場願ったピンクの衣をまとったNさんに、経緯は忘れたが、今回の「北海道ふたり旅」をせがまれたのであろう、貸したことがある。
しばらくして返却の折り、コメントが書かれた用紙が挟まっていた。


未だ手元に残っていて、添えてみることにした。



2026年8月6日(木)
私の履歴書 神岡勤務時代余話 その7 二つの文集 前編
私の履歴書シリーズその63である。

業務とは直接関係のない話に触れている。
前回は米国MCA社訪問についてのべた。 こちら→(2026/7/31)

以前、父義衛の死について述べたとき、父を偲ぶ文集を発行したと述べたが、神岡勤務中に、その他に2冊ほど手作り文集を発行している。
もちろん、いずれの文集も一種の遊びであるが、今回はその二冊の文集について触れてみようと思っている。


その1冊目。
1997年(平成9年)11月発行。

社員旅行に纏わる話で、その時の備忘録が残っていたので転載する。
『11月1日(土)
朝雨、雪含む
管理部の旅行、営業も一緒。7時出発。金沢のキリンビール工場で試飲。美方五湖を見て、若狭の港沿いの宿にて泊まる。女性3名、インド風の装いになる。飲んで、寝てのんびりの旅行。
11月2日(日)
曇り
7時半、宿を出発。近くの魚市場により魚4種類を買う。バスに揺られ、金沢近くでパターゴルフ。
夕食などし、家には午後7時ごろ着く。帰りはバスの中、かなり静か。』

という内容。

同時に写真も残っていて、掲載すれば次の通り。


上段左の写真のみで終わる内容であれば、普通の社員旅行なのであるが、残る写真にあるように、思いもしなかったインド風美人女性が3名突然現れ、それに触発されて、文集の作成を思い立ったものと思われる。


出来上がった文集(ここでは写真集としている)の表紙と序文を示せば次の通り。


載せた写真は次。
若狭路の海を撮ったもの1枚と、美人女性を写したもの、それぞれで3枚、計4枚である。


写真は印刷でなく、通常に焼き付けしたものを用紙に貼り付けた。

それに俳句のようなものを2首添えた
 秋若狭 ゆり動かして わが命
 三方の 白き御肌や 観世音



18×20Cmの変形版。表裏の表紙まで含めて12枚の用紙からなる小さな本である。

各女性に1部受け取っていただき、それに私用のものを含めて計4部作成した。
希少本である。


本日はここまで。
もう一冊については、次回に回す。



2026年8月5日(水)
サロン田屋
月2回、隔週の水曜日に開催される「サロン田屋」に出席した。

隔週のうち月頭の方の会には、Mはスタッフとして参加していて、昼食の料理作りなどを手伝っている。
スタッフは8時半から、我々一般参加者は11時前後に集まる。


今日のメニューは、梅の実ご飯、ポテトサラダ付き豚肉の生姜焼き、夏野菜の煮びたし、酢の物、冷茶碗蒸し、そしてでデザートとして、きな粉のお団子、という超豪華な品々であった。

参加者はスタッフ3名、一般参加者が4名の合計で7名。
いつも参加する男性陣が欠席で、男性は私一人という結果になった。


昼食の後は昼寝。
その後2時頃から皆で体操である。
体操の中には、しりとりが入ったり、また背中に文字を書く、文字送りなども取り込まれて多彩なメニューとなっている。


最後がお茶。スタッフの手作りによるスイーツ付き。今日はいちごプリンであった。

散会するのは15時15分前後。ただし今日は昔話に花が咲き、終了したのは午後3時半を過ぎていた。


これで参加費は600円。
“コスパ”は非常に良い。



2026年8月4日(火)
 野芝が枯れ始める
備忘録繰ってみると7月8日に「梅雨明け」の文字が見え、その前日の7月7日に「曇りのち雨」の記述がある。
以来、1ヶ月近く雨が降っていないのである。

その影響で、別棟に株をを植え、広がりつつある野芝が枯れ始めたようにみえる。


緑の葉の色が、茶色に変色し始めた。

今日は久しぶりに曇り空、夕方には雨が降ると予報に出たが、パラパラと降ったのみ。
大いに期待を裏切られた。


Mの野菜作りも大変。夕方水道設備に取り付けた山水ホースで水を撒いているが、とても間に合わないらしい。

予報を見ると、これから先1週間は雨マークがない。しかも酷暑マーク付き。
思いやられる。



2026年8月3日(月)
空調作業服(送風ベスト)
昨年あたりからちょくちょく見かけるようになった、空調作業服(送風ベスト)を買い求めた。

その思いは、少し以前から持っていて、先日眼科検診で大田市へ出かけたときジュンテンドウに寄って調べてみたところ、一揃いで売っていなくて、ベストとバッテリーとファンが別々。それぞれに何種類かあって、組み合わせて一揃いにする方式であった。合わせると2万円程度になる。
組み合わせるのも面倒だし、価格も高め、そこでは買わずに帰ってきた。

今回買い求めたのは例によってアマゾン。数日前に発注して、8月1日の夕方に届いた。


ジュンテンドウのものに比べるとかなり安価。ただし口コミの評判は良い。
機能としては、ファンで送風するのみ。性能の優劣は起きにくいと判断し、安価ではあるがこの品を発注した。
届いた品のタグを見ると中国製となっている。

届いた夜にはセット作業ができなかったのでその翌日、昨日のことになるが、セットをして集落行事に参加することにした。

日本語の取扱説明書がついているが、なんとなく分かりにくい表現の部分があったりして、組み立てが完成するのに小一時間を要した。



着用して集落行事に参加する。
昨日の参加者の中で、送風ベストを着用している人は私を含めて4人いた。
その中の一人に感想を聞いてみると「まあまあ」との答え。

昨日の午前中とそして、今日も午前中草刈をしたのだが、そのときも着用してみた。
使用後の感想は、それこそ「まあまあ」という感じ。
使い方に、改善の余地があるかもしれない、と思うところもある。



2026年8月2日(日)
集落行事 「一日奉仕作業」
毎年8月の第一日曜日に、「一日奉仕作業」と名付けた集落行事が行われ参加した。
集会所になる保養館周辺の草刈りを行うのが主たる行事で、しかも午前中で終了するのだが、昔からこの名が採用されている。

参加者は14・5名であった。参加者の中では私が最年長。


なんとなく久しぶりの気がして過去の経緯を調べてみた。

すると
昨年は、左目を怪我し、安定期間中で欠席
その前の2024年は、Mと一緒に北海道旅行に出かけていて欠席
さらにその前の2023年は、義母の葬儀で欠席

と4年ぶりの参加であった。

これまで参加した時は、裏側にある傾斜の急な場所の草刈りに参加していたが、今年は昨年の目の怪我のこともあり、グランド周辺の平らな場所の草刈りで勘弁してもらうことにした。

3年続けて休んだので、いつ復活したのかわからないが、コロナ禍以前行われていた「直会」
 こちら→(2019/8/4)
が復活していて、それにも参加してきた。
直会の参加者は8名。昔に比べると少しばかり寂しいものであった。



2026年8月1日(土)
「避暑室」の再開
夏の暑さをしのぐ対策として、「Summer Room」を開設したと報告した。
7月10日のことである。
 こちら→(2026/7/10)

その後しばらくはSummer Roomを快適に使っていたのだが、今年の夏は予想以上に暑い。
我が家の中では一番涼しいとされるSummer Roomでも、午後は31・2℃程度まで温度が上がってくる。

もはや、もったいないなどとは言っておれない気がし始めて、クーラーのきいた「秘暑室」を再開することにした。

「秘暑室」を再開したのは少し以前のことで、備忘録を繰ってみると7月22日となっている。


使ってみるとやはり快適である。

もはやSummer Roomに戻ることは出来そうにない。



Kの散歩帖
里庭掲示板