2025年4月30日(水) |
鶏肉の柚子胡椒焼き |
読売購読のサービスとして、毎月1回、ファミリークッキングなる小冊子が配布される。
これまでも、ざっと目を通すことはあったが、気になるレシピは多くない。
ところが今回は鶏肉の特集で、鶏肉を使ったレシピがいくつか紹介された
Kの場合、気になるレシピはOneNoteに保存する。今回の鶏肉特集は、そのうちの何項かのレシピを保存した。
今日はKが夕食当番。
ファミリークッキングに載っていた、「鶏肉の柚子胡椒焼き」を作ってみたので、その結果を、ネタ切れの時の一汁二菜シリーズそして、掲載することにする。
事前に、柚子胡椒とタレを鶏肉に揉み込み、鶏肉に味を染み込ませてから焼くという料理である。
同時に作った他の菜と汁は
「厚揚げとしいたけのうま煮(甘辛煮)」 シピは こちら→
と、
「菜の花のお吸い物」 レシピは こちら→
「うま煮」の方はこれまで何度か作ったが、「お吸い物」の方は今回が初めて。生麩はないので代わりに竹輪を入れた。Mが菜の花を採っていたので、おすそ分けで使わせてもらったと言う経緯である。
さて結果のお味である。
「鶏肉」はレシピ通り柚子胡椒を入れたのだが少しピリピリ感が強すぎる感じ。ただトータルの味はなかなか美味であった。
その他の菜と汁も、これも美味。
総合得点としては80から90点の味であろう。
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2025年4月29日(火) |
冬用タイヤの交換 |
遅まきながら冬用タイヤの交換をした。
K用、M用の車2台ともである。
本来なら、「春迎え」の作業として、3月末か4月初旬には終えるべき作業なのだが、すっかり忘れていたわけである。
車1台当たり約1時間。合わせて2時間の作業となった。
4月21日付けの作業で、 こちら→(2025/4/27)
“「春迎え」の最後の作業”としたが、誤報であった、と言うことになる。
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2025年4月28日(月) ラベル428 |
私の履歴書 大学時代 その1 九工大の全体像 |
私の履歴書シリーズその16である。 前回は こちら→(2025/4/23)
一年間の浪人を経験して、九州工業大学に入学することになった。
時は昭和39年(1964年)4月のことである。
今回以降何回かに分けて、大学生活のことに触れる予定である。
九州工業大学は、安川敬一郎と山川健次郎により、明治42年(11907年)に開校された私立明治専門学校が始まりで、大正10年(1921年)に官立となり、第2次大戦後の学制改革で単独の工業単科大学となったものである。
場所は、北九州市戸畑区にあり、地元の企業はなんといっても八幡製鐵(後の日本製鉄)で、溶鉱炉から排出される煙が空を覆い、空が薄汚れているというのが、戸畑に着いたときの第一印象であった。
空気が汚れているせいか、鼻毛が伸びるのも早い気がした。人間の身体はよくできていると、妙に感心した記憶が残っている。
キャンパスの敷地は、南北に800メートル東西に500メートルの角の取れた長方形の形で、その中に講堂、校舎、教師用の官舎、さらにグランドなど、全ての施設が一纏まりで構成されていた。
建物群は新旧混在で、日本銀行本店や東京駅を設計した辰野金吾の設計で建てられた講堂や校舎が当時まだ残っていて、明治開校時の雰囲気を味わうことができる時代でもあった。
私が入学した当時は、開発土木、機械、機械U、制御、電気、電子、金属、そして工業化学の8学科であった。その後4年生になったとき、金属加工が増設され、9学科となっている。
男女共学の学校であるにもかかわらず、女性は極めて少ない。同期の学年では、制御科と化学工学科に数名ずつの女子生徒がいたのみであった。
下記に述べる金属工学科の事例から推定して、仮に1学科の定員を40名と仮定すると、入学時8学科であるから、1学年入学者の総数は300人程度となる。
4学年まで合わせた在校生の総数は1200名程度となる。東京などにおける私立大学では、数万人の学生数という学校もあるが、それに比べると誠に小さな大学であった。
私が入学したのは金属工学科。
入学を控え、学校を始めて訪ねたときにはまだ合格発表の掲示版が残っていて、我が身の名前を発見して合格を実感した記憶が残っている。
同窓生は38名。入学を記念する写真である。
出身地は鹿児島から京都まで。関西が中心であった。
現役と浪人の入学比率は6:4で、現役入学がわずか多かったと記憶する。
入学と入寮の手続きに関する書類が残っていた。
初年度に収める特別な料金は別にして、普段に収める経費は、授業料が半年で6000円、入寮に関する費用として、寄宿料が年間で1200円、食費は昼食と夕食を合わせ日当たり100円となっている。
4月14日に入寮して、4月15日が入学式となっている。
開校した当時の明治専門学校時代は全寮制であったと聞くが、我々が入学した当時は全寮制ではない。
ただ私の場合、学校周辺に知り合いはなく、ある意味では当然のこととして入寮を希望した。
ただその寮であるが、かなりユニークな形式をとっていた。
4年生から入学したばかりの1年生まで、合わせて10名程度で一部屋を構成する。そして部屋の構造は2階が勉強部屋で、1階が寝室となる。勉強部屋の机や椅子は作り付けの物が一式揃っていて、各人それぞれに割り当てられ、その割り当てられた机で勉強をすることになる。
一方勉強以外の諸事は1階の寝室で行う。敷かれた布団はほぼ万年床。何か特別なことをするときは布団を巻き上げて場所を確保した。
九工大には「明専トランプ」と名付けられた、ポーカーに似た独特のトランプゲームが流行っていた。布団を巻き上げ場所を作って、しばしば興じたものである。
食堂は別棟にあった。
さて最後になるが、肝心の勉学である。
今、手元に「授業時間割」と題された一覧表が残っている、
1年生から4年生までの全学年を対象にした月曜日から土曜日までの、しかもそれを前期と後期に分けて、全ての授業の時間割を示したものである。
1年時から2年時にかけてはいわゆる教養課程的な授業が並んでいて、3年時から4年時にかけては、いわゆる専門課程的な授業が並んでいる。
何故このような、大きな表が作成されるのか。 大学を卒業するには、一定の単位数と、所属する学科が定める必修科目の単位を取得すれば卒業できる。
いつの時点で単位を取得するかは問われない。
勉学の進め方は、全て当人の判断に任せられる方式となっている。
したがって授業料さえ払えば、4年で卒業せず5年6年をかけて卒業するという手も考えられるわけである。
そのために、いつ、どこで、どのような、授業が行われているかを示す、このような大きな表が必要になるのである。
ただ自分の場合は、そのような悠長なことは言っておられない。
年度ごとに取得できる範囲で最大の単位を取るよう心掛け、卒業に備えた。
結構真面目に勉強をしたものである。
おそらく3年生の時のものであるが、金属加工と溶接の授業を受けている写真が残っていた。
真面目に勉強した証として、ここに載せておく。
黒板を背にした、昔風の授業風景であった。
以上、まとまりのない表現となったが、九州工業大学の全容を示す資料として、ここに掲載した。
余談;
我が長男の名前に、”敬一郎”と名付けた。
学校の創立者、安川敬一郎翁のお名前を頂戴したものである。
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2025年4月27日(日) |
八色石の風景が変わる |
一週間ほど前ウォーキングに出た時のこと、八色石集落のメインストリートの中央部で、なにやら工事中らしい雰囲気に出くわした。
交通を規制する人が旗を持って立っていて、さらに作業員の人が数名で民家の脇に工事用の防護網を張っている情景である。
どうやらその民家の取り壊し工事が行われるらしい。
その数日前から、道路の両側に、「この先工事中」の立て看板が設置されていて、何が起きるのかと不思議に思っていたが、この取り壊し工事のことを指していたのかと合点した。
我々が八色石に住み始めて24年になるが、住み始めたときには、このお家はすでに空き家になっていた。家の構造としては、お店を開いていた様子もうかがえるが、詳しいことは全く承知していない。 そのお宅の取り壊し工事である。
八色石に住み始めて以降、人が亡くなって空き家になるケースはいくつかあったが、家が取り壊されて風景が変わるという出来事は、初めてのことである。
どの程度の期間で取り壊し作業が行われるのか、のことも含めて写真に撮らせてもらうことにした。
わざわざ撮りに出るのではなく、ウォーキングに出た折りついでに撮らせてもらうと言う考えである。
ウォーキングコースは、このお家の裏側を通る小路もコースにしていて、順路としては、裏の小路を通って表側のメインストリートに出るという設定になっている。
裏側からも写真が撮れるので、事の顛末を把握するため、裏側からも数枚撮らせてもらった。
写真に収めた時間は、4月21日から26日まで。
この間に大きな重機が1台入り、また大きなダンプトラックが荷物を積んで出る様子も垣間見たが、わずか6日後の昨日の時点で、すっかり整地された状態にかわっていた。
住んでいた人との交流はまったく無かったため、そういう面での感慨は何もないが、20余年変わらなかった街並みが変わっていくという点では、若干の寂しさを覚えるのである。
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2025年4月26日(土) |
木斛の剪定 |
横庭に木斛の植木がある。
前住者が植えたもので、常緑樹を好まない我が家にあっては、あまり珍重されない木でもある。
そんな次第で、剪定などの手をほとんど入れず、鬱蒼としてきた。
KM間で、少し前から剪定をしようということになっていて、今日の午前中、2人で一緒に作業をした。
最初は周辺部を、三脚や脚立を立てて切ったりなどしていたが、中央先端部などは、木に登らざるを得ない。
原則は、どの枝を切るのかMが下から見て指示し、それを受けてKが切るという役割分担であったが、最後はMが木に上る場面もでる。
朝の9時半から始めて12時半まで、枝の処理は後日行うこととし、剪定のみで3時間を要する、かなり大変な作業であった。
この木斛、過去に一度剪定をしたような気がしないでもないが、確証は無い。
何か経緯を小欄に載せているかもと過去の記事を検索してみたら、剪定に関する記事は出てこなかったが、花が咲いたという記事が出てきた。 こちら→(2016/7/18)
これ以後、花が咲いたと言う記憶はない。
しかも、この時の写真の様子から見ると、それ以前も剪定をした気配は読み取れず、どうやら我々が受け持って以降、今回が初めての剪定であったと思われる。
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2025年4月25日(金) |
Excel用のOCR機能 その2 |
表形式になった印刷物などのデータを、パソコンのExcel取り込みたいという話である。
今回このような場面に遭遇し、以前この種の技法をマスターしたと小欄に載せたことを思い出し、読み返してみた。 こちら→(2023/3/2)
久しぶりの作業なので、操作方法を忘れていて、小欄を読みながらの操作になる。
スマホでOfficelensを開き、「アクション」というボタンから「テーブル」を探し写真に撮る。しばらく待っているとスマホ上に表形式のデータが現れた。ここまでは順調である。
ところが次の段階へ行くことができない。
小欄には次のステップとして「スマホのExcelとパソコンのExcelは同期が設定してあるのでパソコン上でも即座に見ることができる。」と記載しているが、具体的な方法は何も述べていない。
当然のことながら、パソコンを開いても何事も起きない。
いろいろ試したが、結局スマホデータをパソコン上に移すことができなかった。
致し方なく別の方法を探すことにした。
探し当てたのが次である。
こちら→
Excelの機能として、既に用意されていたのである。
すでに画像があれば、写真に撮る必要はなく、画像を開くだけである。
具体的には、
「データ」タブを開き、「画像から」ボタンを押し、次に現われる「ファイルからの画像」ボタンを押すだけである。
Excel画面の右に新たに枠が表示され、しばらく待っていると、変換されたデータが表示される。
新たに表示された枠の中にある「データを挿入する」ボタンを押せば、変換されたデータがExcel画面の中にデータとして表示される。
 (左、変換後のデータ
右、元データ) |
ちなみに、スマホで行った時と同じデータを使ってためして見た。 両者とも修正の必要があるが、その精度は両者ともほぼ同じである。
もっとも、両者Microsoft社の技術であるから、両者の変換精度が同じと言うのは、当然のことかもしれない。
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2025年4月24日(木) ラベル424 |
山笑う |
朝の早い時期はうす曇であったが、昼前から雲が失せ、快晴で気持ちの良い日になった。
そんな中、午後ウォーキングに出た。
周辺の景色は、まさに「山笑う」の状況。ところどころで、山を背景にした写真を撮ってきた。
ネットで「山笑う」とし、出てきた画像を見てみると、人によって「山笑う」の取り様は少しずつ違うようで、山に桜の咲いた時期から、もう少し緑の濃い状況まで、さまざまな状況の写真が出てくる。
しかし、私にとっての「山笑う」は正に今日。
この時期の色景色は日々に変わり、日々に濃くなる。 したがって、私にとっての「山笑う」はせいぜい一両日。
今日は、1時間足らずのウォーキングであったが、しっかり「山笑う」を堪能してきた。
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2025年4月23日(水) ラベル423 |
私の履歴書 浪人時代 |
私の履歴書シリーズその15である。 前回は こちら→(2025/4/17)
高等学校現役時、大学受験に失敗して、1年間浪人生活を行ったことについて触れる。
時代は昭和38年(1963年)4月から、1年間のことになる。
現役時の大学受験については、シリーズ前前回で簡単に触れているが こちら→(2025/4/10)
もう少し詳しく述べると、現役時代願書を提出した学校は次であった。
当時大学は一期校と二期校とに分かれていて、
一期校は広島大学の理学部物理学科に、二期校は島根大学文理学部理学科にそれぞれ受験志望を提出した。
広島大学の受験結果は、自分では悪くないと思ったのだが、結果は不合格。
本来ならここで二期校である島根大学を受験するのであるが、今では親に悪いことをしたと思うのだが当時はどうしても島根大学を受験する気が起きず、親に浪人させてほしい旨頼み込んだのであった。
親も大きく反対はせず、浪人生活に突入したという経緯である。
浪人時代の写真が実家に残っていたアルバムに貼ってある。
父親63才、母親53才の文字が添えてあった。
高校3年時の時から、納屋の2階に三畳ほどの勉強部屋を自分で作っていて、寝食は母屋でするものの、勉強は、その納屋の勉強部屋で行った。いわゆる自宅浪人である。
現役時代は期末テスト時に勉強した記憶がある程度で、受験勉強はほとんどしなかったが、この浪人時代は本気で勉強した。
生涯を振り返っても、勉強をしたという密度の濃さでは、この1年間が最大であったという気がしないでもない。
日に日に実力がついて行くのが自分で判る、ような気がした記憶が残っている。
気分転換には音楽を聴いた。ベートーベンの交響曲「田園」である。
高校時代の友人として前々回写真を載せたN・Hが、故郷を離れるとき、レコードプレーヤー一式を残してくれた。一式と言っても、スピーカーは一つで、あとはプレーヤーとアンプである。
レコードはなかったので、自分で買いに出た。隣町になる川本町のレコード店で買い求めた。それが「田園」であった。
レコードが今でも残っている。
アンドレ・クリュイタンス指揮、ベルリン・フィル演奏によるレコードである。
そのことを、同じく写真に載せたH・Fに手紙をだしたのであろう、京都の大学に進学したH・Fは夏休みにレコードを土産に買って帰ってくれた。ラテン音楽のレコードである。
こちらは、私の好みにあまり合わなかった。今回一緒にレコードを探してみたが、こちらのレコードは出てこなかった。
勉強部屋にラジオを置いたかもしれないが、ラジオに関する記憶は一切ない。
一方、父親のメモ書きによると、昭和38年に、白黒テレビを買ったとある。
炬燵に入り白黒テレビを見た記憶が蘇るので、おそらくこの浪人時代の記憶であろう。
その中にあって、はっきりと記憶に残る場面がある。
やはり炬燵に座ってテレビを見た。早朝である。
アメリカからの宇宙中継の映像が流れるとのことでテレビを見ていたら、代わりにケネディ大統領暗殺を報じる内容に変わった。筆字で書かれた暗殺を知らせる文字が現れたのを鮮明に記憶している。
今回このことを記述するにあたり、ネットで情報を調べ直したら、起きたのは同年のアメリカ時間で11月22日、日本時間で11月23日5時28分とある。宇宙中継の情報も載っていた。
こちら→
さらにもうひとつ、気分転換で行っていたものが、家の前の小川での川釣り。
写真が残っていて、背後に写る古い家並の景色と共に懐かしく思い出される。
余談が長すぎた。本題に戻ろう。
かくして1年が過ぎ、昭和39年3月に受験申し込みを行った大学は次である。
一期校に広島大学の理学部地学科。物理学科より易しいとみて安全な学科を選んだ。
北海道大学を申し込みたい気が起きたが、こちらは経済的理由で諦めた。
二期校としては、二つの大学に申し込みを行った。
九州工業大学・工学部金属工学科と、島根大学・文理学部理学科の二つである。
申し込みを二つ行ったのは、広島大学で合格したら、九州工業大学を受験し、広島大学で不合格なら、島根大学を受験しようという、両にらみの作戦である。
九州工業大学を広島大学より上位に置いたのは、就職を考えてのことでである。
時代はこの先高度成長迎えようとしている時期、公務員や教員になるより、産業分野への就職を偏重する時代で、理学部より工学部の方がより希望に近い就職ができると考えたのであった。
結果は広島大学と九州工業大学の二つとも合格した。合格を告げる電報と書類が残っている。
左が広島大学のもの、「ツゲ」なる発信人が誰かわからない。合否確認をアルバイト学生に頼んだかもしれない。右は九州工大のもの。下関に住む親戚の人が発信人である。
広島大学の方は入学手続きを行っていないので、合格通知のみである。
一方その年の秋に、高等学校を通じ特別貸与奨学生の手続きをとり、採用通知も得ている。
特別奨学金は月額8000円(普通は3000円)。当時大卒初任給が2万円前後の時代で、この奨学金に大いに助けられた。
これらをもとにした九州工業大学での大学生活が始まることになる。
合格を祝う祝電を数多く頂いて、祝福されて一年間の自宅浪人生活を終了することになった。
当時はまだ、一般家庭に電話は普及していない。お祝いの意を伝える手段は祝電のみの時代である。
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2025年4月22日(火) |
今年初めての草刈り |
今年初めての草刈りをした。
一輪車に道具類一式を乗せてゆく。
数ヶ月ぶりの作業なので、一々必要な物を、思い出し、考えながら揃えていく恰好になった。
場所は、「奥の田」と名付けた場所。
昨秋、「秋じまい」をいちばん早い時期に行った場所で、草刈り後もまだ草の成長が続き、その成長した草が枯れて、立ち枯れとなった場所である。
草刈りの要領もなんとなく忘れた感じ。思い出しながら行うという体であった。 無理をしないよう、休み休み行った性もあるが、この場所を刈るだけで約1時間を要した。
いよいよ、草刈りシーズンに突入である。
昨年は、シーズン1号の草刈りを4月15日日に行っていて、 こちら→(2024/4/15)
それに比べると、1週間遅い突入になった。
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2025年4月21日(月) ラベル421 |
対イノシシ用トタン壁の修理 |
清々しい気持ちのよい天候である。
そんな中、「春迎え」としては最後になる作業を行った。
対イノシシ用のトタン壁の修理である。
昨年は4月14日に行っている。 こちら→(2024/4/14)
3年前から、以前使っていた竹の杭を鉄製に代えてきていて、修理をする個所がかなり減っている。
今年もほぼ1時間で完了した。
これからは、草刈りなど、春の作業を執り行うことになる。
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2025年4月20日(日) |
コウノトリがやって来た |
今朝の出来事。
主としてMが管轄する横庭の植木の剪定を2人でしていたところへ、集落に住む人がやってきて、「コウノトリが来ている」と教えてくれた。
理由はよくわからないが、軽トラに乗ってわざわざ教えに来てくれた風で、一緒に見ると、かなり遠方だがそれらしい鳥が見える。
剪定の作業を中断して見に行くことにした。
歩いてゆくには少し遠すぎると判断し、免許証を取りに戻って車で行くことにする。
望遠が効くデジカメで取ろうと確認したら電池切れで動かない。致し方なくスマホで撮ることにした。
離れたところで車を降り、近づきながら写真を撮る。もう少しと近寄ったら、飛んで逃げられた。
我が家の方向へ向かって飛んで逃げたのは承知したが、もはやこれまでと、車に戻って帰宅した。
ところが話はそれで終わらない。
我が家の方向に飛んできたコウノトリをMが写真に収めていた。
一旦は田圃に降りたらしいが、その後我が家の脇に立つスマホ用電波の中継塔の頂上に留まったという。 それをMがカメラに収めた。Mもスマホのカメラである。
我々が確認した時間は、写真の撮影時間で確認すると、Kが8時39分から8時45分の間。Mが8時52分から9時10分の間であった。
特別天然記念物であるコウノトリに対する県の公式見解の内容は次になっている。
こちら→
これまでに川本町で確認されているとあるから、川本町経由で川本町に隣接する八色石に飛来してきたのかもしれない。
となれば邑南町では、初めての確認と言う可能性もある。
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2025年4月19日(土) |
印刷物のテキスト化 |
かなり以前の話であるが、画像の中に日本語文字が含まれていれば、その文字を抽出する方法について述べたことがある。
こちら→(2021/5/21)
この時の話は、日本語の記載された写真を「Googleフォト」にアップロードすれば、Googleフォトが“自動的に(勝手に)”に「画像からテキストをコピー」という文字を表示し、そのあらわれた「コピー」という文字をクリックすればテキスト化された文字が表示される、というものであった。
当時は「名曲・名盤の解説書」を作るときなど、この機能を重宝して使っていたものである。
ところが近年、この機能を使う場面が少なくなっていた。
一方、写真類は一切Googleフォトにアップロードしているのだが、その中には日本語の記載されたものもある.。
しかし、以前は表示されていた「画像からテキストをコピー」という文字が表示されない。そんなことをうすうすは感じていた。
一方、ここにきて、この日本語抽出を行ないたい場面に遭遇する。
文書を写真に撮り、Googleフォトにアップロードして待ってみる。
しかし以前は自然に現れていた「画像からテキストをコピー」という文字が、やはり表示されないのである。
このままでは作業が進まないので、強制的に日本語抽出を行う方法を調べることにした。
検索をかけてみるといくつか方法が表示される。
その中で最終的に自分で選んだのは、以前と同じGoogleフォトを利用するもので、今度は“待つ”のではなく、“自分の意思で表示”することができる方法である。
・テキスト化したい個所を写真に撮り、「Googleフォト」にアップロードする。
・画像を右クリックし、現れたサブメニューの中から「webで画像を検索する」をクリックする。
・場面が変わり、画像の下に「Tテキスト」のボタンが表示されるので、これをクリックする。
・再度場面が変わり、テキスト化された文字が表示される。さらに「テキストをコピー」のボタンが表示されるのでこれをクリックし、例えば、Word画面を開いて張り付ければよい。
上に示した例は、雑誌の中の日本語部分を写真に撮り、先に述べた手順で処理して、Wordに貼り付けてみたものである。
誤字が含まれていたり、縦書き文字を読み取った時には多少語順が変わったりなど、貼り付け後修正を必要とする場合がないでもないが、最初から手操作で入力するのに比べると圧倒的に早い。
しかも今回は待たずともよい。自分の意思でいつでも必要な時にできる。
ただし、昨今は使う頻度は限られていて、使い方を忘れる危険性もある。
先々への備忘の意味を含め、ここに記載したわけである。
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2025年4月18日(金) |
刈り草一時保管場所の整理 |
「別棟」と呼ぶ場所の草刈り方法に関する話である。
過去20数年同じ方式を繰り返していたのだが、それは、草刈り機などで刈り取った草はそのままかり放しにはせず何カ所かにまとめて集めるようにしている。
ただ労力をかけずに集めるため、それぞれ刈り取った草の近くに寄せ集めていて、その数は大小合わせると7・8個所になる。
刈り集めた当時は緑色をしていて、周辺の景色に馴染みあまり目立たないのだが、年を越してこの時期になると草は枯れ灰色になり景観としてはあまり良くない。
そんな折、枯れ草を田圃の堆肥で使うので分けてくれないかという人が現れることがあって、その時は喜んで持って行ってもらうのだが、相手の方も都合があって、毎年は引き取ってもらえない。
やむを得ず、前年分の上にさらに積み増したりするということになり、積み場の山が次第に大きくなるというケースも生じてくる。
他人様の力に頼らず、自分の意志で処分できる方法を考えねばと思っていた折りに、”思いついた”。
話が一旦横にそれるが、別棟にはかつてもう一つ平屋の納屋が建っていた。
この納屋が古くなり、10数年前取り壊しを行ったのだが、解体費用を軽減するため、木材類だけはその場に積んで、いずれ腐って土になるだろうとし、この廃材を積み上げた場所がある。
この廃材は、年月をへて腐食が進み、昨今ではあちこちで草が生えるようにもなっている。たまにはこの草も刈り倒すのだが、木材を乱雑につんだだけなので、足場がひどく悪い。
先に“思いついた”と言う方法は、この廃材の上に、刈り取った草をばら撒けばよい、という方法である。
・廃材置き場は別棟のほぼ中心に位置していて、草刈り場から遠く無い。集めた草を撒くのに手間はあまり増えない。
・刈り草は木材よりも早く腐食進行し、土壌化するのも早いであろう。
・しかも凹凸を埋める形で草をまけば足場もよくなる。
などと一石三鳥、良いことづくめの方法に思われた。
という前置きを前提にした作業を行った。
昨日と今日2日である
昨日は上段の枯れ草の整理。こちらは一輪車で運び、廃材置き場の縁沿いに撒いた。
今日は一段下がった場所の刈り草。少し遠まわり必要があって運搬車で運ぶことにした。
運搬車の良いのは、車輪がキャタピラになっているので、少々急坂でも上る。廃材置き場の上まで登って必要個所に撒くことができた。
昨日今日それぞれ1時間半。合わせて3時間の作業になった。
試してみての結果にはなるが、今後は、一旦の仮置きをせず、刈りった草をそのまますぐに、この場所に運び込もうかとも思っている。
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2025年4月17日(木) ラベル417 |
私の履歴書 高等学校時代 同窓会写真集 |
私の履歴書シリーズその14である。 前回は こちら→(2025/4/10)
卒業後の同窓会のことに触れてみる。私の履歴書シリーズとしては番外編と言ってもよい。
前回触れたように、男女混合でクラス替えがないこともあり、仲間意識が強く、これまで、同窓会もかなりの頻度で開かれてきた。
特に昨年は傘寿と言う節目の年に当たる。
過去、還暦と75歳の節目の時は、故郷矢上で同窓会を開催した(古稀は神戸)関係もあり、故郷
矢上での開催を模索したが、周辺環境が整わず、やむを得ず断念。 こちら→(2024/4/22)
その代わり近況報告を記載するはがきを同封して、返送頂いた内容を中心に、パンフレットを作成し、各位あて送り戻すという作業などを行った。 こちら→(2024/6/5)
一方、これを残念に思った関西在住の同窓生が、9月になって神戸での開催を実施してくれ、無事に傘寿の記念すべき同窓会が開かれたという経緯も残っている。 こちら→(2024/9/29)
という一連の動きの中で、故郷矢上で開催する場合は、何らかのパンフレットを作成し、それには過去に開催された同窓会の写真集を載せてきた。
ところが、その写真集には、例えば私が参加していなかった回があるとか、あるいは参加したけども写真が探し出せないとかの諸般の理由により、1、2枚写真が欠落するという場面が生じていたのである。
この欠落が若干気になり、何らかの機会があれば、写真を持ってそうな人に有無を尋ねたりしてきた経緯もある。
昨年9月に開かれた神戸での同窓会の時もこのことを思い出し、最後に一枚ほど探し出せない写真があって、それは2018年に神戸で開催された74歳の時のもの。
話を切り出すと、帰って探してみると言ってくれる人がいて、しばらく経ってからメール添付で写真が送られてきた。
これをもって、全ての写真が揃った事になる。
丁度よい機会なので、これまでに開かれた同窓会全ての写真をここに載せてみる。
(地域ごとで開かれるミニ同窓会は含んでいない)
高校時代から50歳代まで。
60歳代以降。
これら14回の写真の中で、全ての回に顔を出している人が男性で1人、1回顔の出ない人が女性で1人、2回顔の出ない人が、女性2人、男性1人である。
Kは50歳代に開かれた3回すべてに参加していない。
75歳から80歳の間はコロナの時代で、同窓会が開かれなかった。
複数の同年代の人が、同じレベルで年を重ねる様を一目で見ることができる。
なかなか面白い、貴重な写真集と自画自賛である。
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2025年4月16日(水) |
龍和会(老人会)の花見 |
龍和会(老人会)の花見の会が催された。
ただし、昨年までは、花見といえば少しばかり遠出をして見物をしていたのだが、
たとえば こちら→(2024/4/5)
今年から少し趣向が変わった。
遠出はやめて、我が家の里庭で、サロン田屋と共催し手作りの食事で花見ということになったのである。
しかも、サロン田屋の近くにある農村公園でグランドゴルフをした後に食事会という段取りで、花見の様相が以前とは一変することになった。
Mら女性会員は7時ごろから集まって花見弁当の準備である
一方私は、花見をする食事会の会場設定を終えてから現場に出かけた。
グランドゴルフは10時から。
2チームに分かれて2ゲーム実施。
今日はあまり成績が良くなく、いただいた商品はムービーメーカー賞。それに、1回ホールインワンが出て、ホールインワン賞の二つの景品をいただく。
花見の食事会は12時過ぎから。 Mの乾杯の音頭で始まる。
Kは今年から役員を全て免除になったが、一方Mは、今年から副会長。
乾杯の音頭を急に指名され、一瞬戸惑った様子であったが、そつなくこなしていた。
配られた手作りの花見弁当はまことに豪華。
飲み物として、アルコール有り無しの二つの缶ビールが用意されだが、Kはアルコール入りを選ぶ。
昨日までは少し寒かったが、今日の昼頃は丁度よい花見気温。
食事よし。飲み物よし。気温もよし。周辺の景色もよし。
絶好の花見になった。
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2025年4月14日(月) |
運転免許証の更新 |
隣町にある川本警察署に行って、運転免許証の更新手続きを行った。
八色石は、この川本町に隣接していて、曲がりくねった峠道であるが、これを通ればすぐに行ける。今回もこの道を利用し、約30分で警察署に着いた。
ここでの手続きは簡単である。
若干の書類を記入し、目の検査を受けて手続きは終了。
その間およそ30分。
新しい免許証は、郵送を依頼したので、これですべて完了である。
ただし、ここまでの道のりは結構長かった。
昨年の12月に更新手続きを知らせる案内状が届き、すぐに認知機能検査の予約申し込みを行ったのだが、予約がが取れたのが2月の28日であった。
若干の準備をして検査を受け、合格の結果を得て、 こちら→(2025/2/28)
しばらく待機。
更新期限である誕生日の前後1ヶ月の範囲に入り、手続きを行ってきたという経緯である。
およそ5ヶ月にわたる長期戦であった。
次回は3年先の2028年。84歳を迎える時になる。
いかなる次第になるのか、まったく予想は立たない。
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2025年4月13日(日) |
書籍 「透析を止めた日」 |
かなり以前のことであるが、読売記事「五郎ワールド」を介して、NHKプロデューサー「林新」氏のことに触れたことがある。
こちら→(2024/12/10)
その後同氏がプロデュースした作品も見ている。
こちら→(2025/1/9)
林新氏のことを、「五郎ワールド」を書いた橋本氏に知らしめたのが、「透析を止めた日」という書籍であった。
書籍の著者は堀川惠子。
林氏の奥さんにあたる人である。
この書籍については、その後読売の書評欄で取り上げている。
日付は、2024年の12月15日。
一つの書籍に対して2人の方が書評を書く構成というのは、読売としては極めて珍しく、Kとしては初めて見た。
2人とも激賞している。
ならば読んでみようかと思い始めた。
一瞬は買うかと思いもしたが、図書館に取り寄せを頼んでみる。
今年の1月になってからのことと記憶している。
しばらくたって、図書館から入荷したとの連絡が入った。
ラベルを見ると他の図書館から取り寄せたのではなく、図書館自体で購入してくれたものであった。
内部は第一部と第二部に分かれている。ページ数にして第一部が3/5程度。残りが第二部である。
私が読み終えたのは第一部のみ。それも2回に分けて読んでいる。
最初第一部の半分程度まで読んだところで、貸出期限の2週間が過ぎ、一度返却した。
その折り次回の貸出予約を希望したのだが、その間に数名の予約者が入っていて、それらの予約者の閲覧が終了して、今回2度目の貸出を受けたという経緯がある。
内容はまことに重い。
そのことについては、先の書評者2人が、充分に記述しておられるので、私の拙い感想は割愛する。
その代わりに、私が読み取った闘病に絡む事実関係のみを時系列的に記述してみる。
林新(はやしあらた)と堀川惠子の物語。
2人は2004年の暮れに結婚の確認をとりあった。
夫になる林はNHKのプロデューサー。その時40代の後半とある(Kの試算では47歳)。
32歳の時から多能性嚢胞腎という難病を患い、その時以来透析を続けながらNHKでの激務をこなしている。
一度結婚しているが、かなり以前に分かれているという経緯もある。
一方、妻となる堀川は広島にあるテレビ局に勤めていたが、そこを辞め上京し、フリーのディレクターになっている。年は30代半ばとある(Kの試算では35歳)。
2人はその数年前から、NHKの仕事を通じ、知り合いであった。その経過を踏まえて2004年のことになるという。
冒頭に引用した五郎ワールドでの「椿三十郎」の話は、この2004年の出会いの時に、話題となった話として紹介されている。
その後二人は一緒に住むことになる。
林の病状はその後さらに進み、腎臓移植を行うことになる。腎臓の提供者は林の母親。
腎臓移植は2007年9月6日に行われた。林が50歳、母親が80歳の時である。
手術は成功し、林は一時透析治療から解放される。
そして2人は2008年の春入籍を終える。 この間に、林はNHKで数々の名作をプロデュースした。
ただし年を経て、病状が悪化し始め、再び透析治療が始まる。始まったのは2016年4月であった(林59歳)。
ほぼ同時にNHKを退局する。
透析開始後も、病状は快方に向かわず、しかも透析による痛みもひどい。
林は自分で透析をやめるという決断を下し、実行された。
透析をやめた日は2017年7月17日である。
そして7月24日、新月の朝亡くなる。60歳3ヶ月の生涯であった。
この短くて激しい生涯を、堀川恵子はノンフィクション作家としての目を通し、一方夫婦と言う愛情の気持ちを込めて、濃密に描き出すわけである。
途中で読むのをやめ立ち止まるという場面もしばしばあり、読み通すに時間がかかった理由でもある。
読むにはかなりエネルギーが必要な本。
もう一度借りて第二部を読むかどうかの結論は、まだ出来ていない。
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2025年4月12日(土) |
椎茸用榾木の移動 |
先日植菌した椎茸用榾木 こちら→(2025/4/9)
を榾木置き場に移動し、積み換えた。
毎度申し上げているように、我が家は榾木作りを2年に1回行っているのだが、榾木置き場には、過去3回分の榾木が積んである。
このうち、既に役目を終えた榾木を取りのぞき、新たに製作した榾木をこの場に運び、積み換えるという作業である。
正しいかどうかわからぬが、我が家のルールは、最新作は井形に積み上げ、古いものは横木を設けてそれに立てかける、という方式をとっている。
今回もそのルールに則って作業を進めた。
作業に要した時間はおよそ1時間半。
あとは寝て待つだけである。
話しが少しずれるが、
以前、榾木作りのエッセーを載せた雑誌があって、そのことを小欄で紹介した記憶があり、探し出してみると、次であった。 こちら→(2020/1/7)
著者は、椎茸作りは「保険」であるという。
著者の言い分は充分理解できるが、保険をかける作業も、この年になると楽でないでない部分も出てはくる。
いつまで「保険」が掛けられるか、それが問題である。
余談;
榾木の横に青い一斗缶が置いてある。これは熊よけ。
Mが置いているもので、この近辺で作業をするときは、棒でたたいて音を出し、熊の襲来を避けるためのもの。
遊びではない、本気で置いているのである。
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2025年4月11日(金) |
里庭に春が来た |
今日は誠に気持ちの良い“春うらら”の日になった。
昼食当番はM。
午前中、電柵修理の最後の場所の作業を終えて母屋に戻ると、Mが、「今日は外で食べるよ」と言う。
今年になっては、初めての屋外昼食となった。
場所は「二合庵」前。
ありあわせのものなどを皿に盛り込んだものではあるが、外で食べるとまた別の味わいになる。
昼食後、私は午前中にできなかったウォーキングに出たが、Mはその間に、里庭の様子を動画に収めたという。
見てみると、里庭にも春が来たという様子が映っていて、なかなかよい。
小欄読者にも紹介することにした。
こちら→
ご笑覧いただきたい。
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2025年4月10日(木) ラベル410 |
私の履歴書 高等学校時代 後編 |
私の履歴書シリーズその13である。前回は こちら→(2025/4/7)
思い出の多い高校生活を楽しんだ。そのことに触れてみる。
生涯で、どの時代の学校生活が思い出多いかと問われれば、迷うことなく、小学6年と高校時代のこの3年間と答えるであろう。
それほど愉快な高校生活であった。
これほど思い出大きい3年間を過ごせたのは、“田舎の普通科”ということが、幸いしたかもしれない。
男女混合の1クラス。3年間クラス替えのない学校生活というものであった。
年頃は青春時代の真っ只中、男女混合というのは、思い出作りには欠かせない要素と思われる。
誰しもあるように、同級生に恋心を抱いたこともないではない。
一方田舎の普通科という要素もあるかもしれない。手元に同級生の進路先を記載した資料が残っていて(写真、右)、これを見ると、上級学校への進学希望者は、男性27名のうち7名、女性22名のうち8名(大半は看護学校)。合計49名のうち15名で、進学希望者は3割である。
したがって都会の進学校のように、受験勉強という雰囲気はほとんどない。
せいぜい中間や期末の試験に合わせ若干勉強する程度で、それ以外はクラスの中間で集って多いに楽しんだ。
1泊でまりで川や山にキャンプキャンプに出かけたことが何度もある。
同級生が住む家の別棟の2階とか、かつての個人病院の入院棟が高校生や高校の先生の下宿先となっていてその下宿先の部屋とか、そして私も3年次の時であるが、納屋の2階に、3畳ほどの手作りの勉強部屋を作って、その部屋でとか、より集まる場所が何個所かあって、その部屋でより集ったものである。
時には男女混合で、雑魚寝をすることもなくはなかった。
かと言って、やましい記憶は全くない。誠に伸びやかな付き合い方であった。
皆で酒を飲んだこともある。
その一例。
先に述べた入院棟が変じた下宿先でのこと、同級生の部屋にて数名で酒を飲んでいたら、隣の部屋が高校の先生の下宿の部屋で、襖を開けて入ってきて、「自分にも飲ませろ」と言って車座になり、先生も一緒に飲んだという出来事である。
今時では考えられない、大らかな良き時代であった。
一方、学校行事ではあるが、運動会とか予餞会とかの勉強以外の行事にも熱心に取り組んだ記憶がある。
我がクラス内には、「他のクラスには負けてはならぬ」という気概が、なぜか生まれていて、このような行事には全員揃って頑張った記憶が強く残る。
そして、小学6年時と同様、この高校時代を強く意識する要因がもう一つある。
小学6年の時は東という先生の存在であったが、高校場合は、生涯交流を続ける結果となった友達の誕生である。
左がH・F、右がN・H。 N・Hは矢上中学校の同級生。一方H・Fは高原中学。
H・Fは中学から松江高専に進んだが、入学早々の時期にホームシックにかかり矢上高校へ転学してきた。少々ませた性格の持ち主で中学生時代から恋人がいた。
一方N・Hは誠に純粋な性格の持ち主。誰とでも仲良くなれる。
私とH・Fの接着剤を務めてくれたのがN・Hで、以後家族も含めた長い付き合いが続くことになる。
それ以降の長い交流は我が人生の財産といっても過言ではないが、この交流の様子を記述する余白がなくなった。
ところで先の上級学校への進学希望者の結末である。
女性の看護学校希望者は大半そのまま進学した。
一方、残りの男性7名の方であるが、第一次希望の大学へ進んだものは誰もいない。そのまま第二次希望の大学へ進んだものが3名いて、残りの4名は浪人を選んだ。Kも後者の一人である。
“田舎の普通科”で青春を謳歌した結果であるから、これは致し方ない。
結果に悔いはない、というしかない。
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2025年4月9日(水) ラベル409 |
椎茸の植菌 |
森林組合に予約していた、椎茸よう植菌の駒が入荷したとの連絡があり、午前中に取りに行き、午後から榾木に植え付ける作業を開始した。
榾木は先日用意した。 こちら→(2025/4/5)
購入した駒は、肉厚の“どんこ”が生えるもの800個である。
専用の電気ドリルとビットがあって、それで穴を開け、穴に駒を打ち込むと言う作業である。
打ち込む駒の数であるが、20余年前義父に教わった方法を今でも踏襲していて、原則1列に9個の駒を打つ。
打つ列は、太い榾木で4列、細い榾木で2列うつ。したがって打つ駒の数は、太い榾木で36個、細い榾木で18個という数になる。
作業は午後1時過ぎから始めたのだが、今日は今年初めてと言って良い強い日差し。暑すぎるきらいがあって一時中断し、日陰になってから本格的に作業をした。
800個植え付けるに、片付けも含めて実質3時間を要した。
この後は、駒を打ちこんだ榾木を榾木置き場に運び込み、並べ替えるという作業が残っている。
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2025年4月8日(火) |
カタクリ |
今年は、少し春の訪れようが遅い里庭であるが、ようやく賑わいを見せ始めている。
その中の一つ、スプリングエフェメラルの中でも群を抜いて清楚なカタクリが、横庭の一角で今が盛りである。

(Kの撮影品) |

(Mの撮影品) |
Mの計測によると、今年は36輪咲いていると言う。
昨年は、カタクリの記事を3月30日に載せていて こちら→(2024/3030)
ほぼ10日遅い。ただし花の数はかなり増えてきた。
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2025年4月7日(月) ラベル407 |
私の履歴書 高等学校時代 前編 |
私の履歴書シリーズその12である。 前回は こちら→(2025/3/29)
高等学校時代のことに触れる。
昭和35年(1960年)4月、島根県立矢上高等学校普通科に入学した。
入学許可通知書と入学時の校舎の写真が残っている。
当時のクラスは、普通科(男女)の他に農業科(男性)と家庭科(女性)がそれぞれ1学級と言う構成で、1年生から3年生までクラス替えはなく、同じ顔ぶれで3年まで進級した。
入学時の全員が揃った写真が無いのであるが、卒業時に、製本された立派な卒業記念アルバムが作成されていて、それに普通科同級生全員がそろった写真が載っている。引用してみた。
また同じアルバムに、出身中学校別にグループ分けされた写真も載っていたので、合わせて掲載する。
矢上中学校からは、男性9名女性6名が入学しているが、その他は7中学校あり、矢上と合わせて8中学校の卒業生で構成されている。
入学時普通科の生徒数は51名であった。
不遜な言い方になるが、それぞれの中学校で、成績の良い子が普通科に入り、普通科に入れない子が農業科と家庭科に入ると言う傾向があったため、普通科の中にはそれなりの覇気があり、活発でかつ愉快な学級編制となっていた。
授業の時間割表が残っている。3年時のものであるが、1年も2年も大差はないはずである。
普通科は上級校への進学を目的とする学科であるため、実利的な授業はほとんどない。
中学までと同様に、高校時代の通知表も残っていた。
上から順に、1、2、そして3年の通知表である。
中学までの通知表とは異なって、高校の通知表には席次が載っている。
1年と3年の成績は、まあまあといってよかろうが、2年はいずれの学期も2桁の席次で、これを見た上の姉から、ひどく叱責を受けた記憶が残っている。
中間のことは別にして、1番で入り、1番で出た、ことは間違いない。
クラブ活動は野球部に所属した。ただし、周りには上手な人が多く、レギュラーにはなれなかった。
2年生からはマネージャーになり、しかも大学進学を理由に2年でもって退部している。
したがってユニフォームを着た写真は1枚も残っていない。
証拠の品は無いのだが、もう一つ所属した組織がある。
生徒会の組織で、2年生の時副会長を勤めた。
農業科のI氏が生徒会長に立候補し、副会長は普通科からとの声が出て、皆に押し出される格好で副会長に立候補した。
対立候補がなく、無投票で任に当たったと記憶する。ただし具体的に活動した記憶はあまり残っていない。
以上は表向きの高校生活の内容である。裏では、大いに青春を楽しんだ。
次回はそれらの話に触れてみようと思う。
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2025年4月6日(日) |
自生、菜の花で一品 |
昨日、榾木製作の最後の仕事をしているときに見つけた素材である。
最後に枝類の始末をしたのだが、枝を運搬車に積み込み、焼却場にしている二の畑に運び込んだ際、枝類を一時貯め置く場所のすぐ脇で、自分らで勝手に生えてきた菜の花の株が、丁度食べごろの菜の花をつけていた。
今日そのことを思い出し、摘み採って夕餉の一品に付け加えることにした。
頃合いのものを全部摘みとったら結構な量になってしまった。
少し大きめの鍋にたっぷり水を入れて湯がく。湯がき上がったら掬いあげて冷まし水気を切る。
今日は“おひた”しを作るつもりで、参考にしたレシピは
こちら→
私が作る“おひたし”は概して“漬けびたし”が多い。ほうれん草でもなんでも、漬けびたしにする。
今日は、1時間以上漬けおいた。
全量使うのは多すぎる気がし、残りを冷凍保存した。
このような思わぬ、野趣ある、味わいを楽しむことができるのも田舎暮らしの楽しみの一つである。
夕餉としては、他に2品作ったが、その詳細は割愛。
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2025年4月5日(土) ラベル405 |
椎茸用榾木作り |
昨日も少し触れているが、4月になれば着手しようと心構えをしていた作業がある。
椎茸用の榾木製作である。
榾木の材料になる原木は、昨年秋に倒していて こちら→(2024/11/21)
その原木の枝を落とし、幹の部分を所定の長さに切断して榾木とする、一連の作業である。
作業は一日では終了せず、4月1日から今日までの間、3日間をかけて実施した。
原木は「栗の木ベンチ」と「一の坂脇」の2ヶ所で倒している。
作業は4月1日の午後、「栗の木ベンチ」から始め、2時間半かけて「一の坂脇」の作業も少し手掛けたが、この日をもっては全ての作業は完了しなかった。 「一の坂脇」の残りの作業を行ったのは4月3日の午後。およそ1時間かけて榾木製作の作業を完了した。
次に行う作業は、出来た榾木を椎茸の菌を植えつけるため、母屋の裏まで運びおろす作業である。 運搬車に乗せて運び降ろすのだが、榾木の太い部分はかなりの重量がある。一人で乗せると腰を痛める可能性もありMの援助を得て運びおろす作業を行った。
結局運搬車ほぼ満杯にして2回運びおろす作業になり、1時間半ほどの時間をかけてようやく運び終えた。
もう一つ残る作業がある。
それは榾木を取った後の細い枝の始末。
「栗の木ベンチ」の枝は、昨日土手の草おろしをした時に一緒に作業を行っていて済んでいる。残るのが「一の坂脇」の枝の始末。
運搬車に積み上げて枝類の焼却場所まで運び下すのだが、これも1回では終わらず2回に分け、2時間近い間をかけて、今日午後に成し終えた。
最終的に製作した榾木の数は大小合わせて約50本。
訳あって二つの山に分けてあるが、小さい山で植菌の駒の数が400本。大きい山で800本の駒を植える予定である。
大きい山の方は用心のため少し多めに採ってあるが、余れば薪ストーブ用の薪材になるはずである。
原木倒しの時にも述べているが、我が家の椎茸作りは2年に1回の頻度である。
次回作るとすれば82歳。
体力と気力が残っているのか、今のところは予測ができない。
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2025年4月4日(金) ラベル404 |
二の畑土手の草下ろし |
4月になり、春本番である。
「冬籠り」を終えて、晴れた日には外仕事が中心の日々になる。
今日も、その一つ。
「二の畑土手」と名付けた場所に残っていた、枯れ草や椎茸の榾木の枝などを、土手からおろす作業を行った。
枯れ草は本来なら昨年10月に こちら→(2024/10/11)
この種の作業を行ったとき一緒にすべき作業であったが、諸般あってできなかったもの。
榾木の枝は、これも昨年11月 こちら→(2024/11/21)
原木を倒して、榾木をとった後の枝が残っていたものである。
この場所には、Mが山野草を手植えした区域があって(赤丸)、このままでは新芽が出てこない、との指摘もあり下すことにした。
枯れ草の量も多く、面積もあって、思いのほか時間がかかり午前中3時間を要した。
昨日まで少し寒かったが、今日は暖かさも戻り、せわしく動いている間は汗ばむほど。
やり終えた後は、久しぶりの本格的な外仕事で、少々疲労感も残ったが、一方清々しい気持ちも味わった。
本来なら下した草を焼きたいところであるが、今は周辺地面を枯草が覆っていて火事の心配がある。
も少し緑の草が生えそろった時期に焼くことにした。
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2025年4月3日(木) |
春祭り |
毎年4月3日は曜日に関係なく、集落の春祭りで、今年もいつも通り執り行われた。
参道に当たる440ある階段を清掃しながら境内まで登ることになる。
足腰の悪い人で、中にはふもとの階段の掃除のみ行って帰る人もいて、今年は最終境内まで登った人は15名であった。 Kは休み休みではあるがなんとか境内まで上がることができた。男女を含め境内まで上がった人の中では最高齢である。
今年は、地元のケーブルテレビの職員も上がっていて、祭りの様子を撮影していた。
祠の裏にある大岩に掛けるしめ縄をみんなで取り替えたのち、神主による祭礼になる。
その祭礼の最終部において、今年は新たな取り組みが実行された。
葉を折りたたんだ笹の束と御神酒を持って、神主が外に出る。みんなも後に続く。
神主は笹とお神酒を持って大岩の上まで上り、祝詞を上げたのちお神酒を笹に掛けて大岩から降りてきた。
この笹は、祭りの最後に参詣者一同に配られる。
かつて、農耕の補助者として牛を飼っていた時代に、牛の健康を願って、この笹を持ち帰り牛に食べさせたのだという。
昔に詳しいTさんが60年以上前に行われていた風習を思い出し、自ら笹の束を作って復活させたのだという。ただしそのTさんも、その笹を食べさせる風習の正式な名前は思い出せないらしい。
祭礼の後は、皆で御神酒をいただいてのち、これまで同様にお下がりのお餅と御供米、そして今年から加わった笹をいただいて戻ってきた。
毎年この春まつりの折、周辺の山を見渡すと、タムシバの白い花が数多く咲いているのが遠望できるのだが、今年は全くみられなかった。
タムシバの花も他の花木と同様に、咲く時期が例年より遅れているものと思われる。
余談;
米国時間4月2日、日本時間4月3日未明、米国トランプ大統領が相互関税を発動すると発表した。
日本には24%の関税をかけると言う。
第二次大戦後、世界を支えてきた自由貿易や国際協調が崩れ去るという論調も多い。
政治問題は取り扱わないことにしている小欄であるが、今後世界を揺さぶるターニングポイントになる日かもしれず、忘備のために記しておくことにした。
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2025年4月2日(水) |
白菜でお好み焼き |
キャベツのある時期には月一程度で登場するお好み焼きであるが、ここのところキャベツが切れて長い間作っていない。
しかし白菜なら、Mが作ったものが未だ、たくさんある。
これまで、お好み焼きにはキャベツは必須条件と考えていたのだが、 こちら→(2024/11/28)
白菜でできないかと思い始めた。
ネットで検索をかけてみるといくつも出る。
いずれも美味しいとあり、挑戦してみることにした。
二つ三つ読んでみると、白菜を塩もみし、水気を絞ったのちに使うというものもあるが、概して前処理無しの切ったままで使っている。
手間はできるだけ少ないほうが有難いので、前処理なしのレシピを参考にすることにした。
代表的なレシピが次である。
こちら→
キャベツは1〜1.5cm角で切っていたが、白菜は千切りにしている。
そして、レシピを参考にするのはここまで。
これ以降の手順は、これまで通りの我流で行うことにした。
これまで、豆腐か長芋を入れていたが、両者ともないので、仕方なしに割愛。
他に適当な野菜を探してみると、とれたての椎茸と頂き物のネギがある。これらを入れるのは初めての試みであるが、入れてみることにした。
さてその結果である。
白菜でも全く問題がなく、これまでのキャベツと同様美味である。
特に根本の白い部分は、シャキシャキ感があって、むしろキャベツよりおいしいかもしれない。
初めて入れた椎茸とネギもまったく問題はない。椎茸はトロッとした舌触りが心地よく、ネギは入れた量が少なかったのか存在感をあまり感じなかった。
Mも、当初は「白菜で大丈夫?」と怪しんでいたが、食べてみると評価は一変。おいしいと言う。
これからは、白菜でのお好み焼きも、しばしば登場することになろう。
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2025年4月1日(火) ラベル401 |
眼科に行ってきた |
ほぼ2週間に1回の割合で通っている図書館に行くつもりであったので、ついでに、図書館のすぐ近くにある眼科にも寄ることにした。
目的は、左目の視野の診察をうけるためである。
いつの頃かはっきりしない。気づいたのは、おそらく1・2ヶ月前のことであろう。
左目の視野が狭いのである。狭いのは、特に上側。
具体的には、右目をつぶって左目で普通に前方を見たとき、ほぼ水平方向から上が見えないのである。
一方、左目をつぶり右目で見たときは水平方向から上の方もかなり広く見える。
ところが、その左目の視野試験を自分で行っている時、ふと思いついて左目の瞼を上に引っ張ってみた。すると今まで見えなかった上の部分が見えるのである。 問題は目ではなく瞼にあるらしい。
そんな話をMにしたら、「とにかく早く病院に行った方が良い」と指摘される。
そんな経緯を経て眼科に行ってきたという話である。
受付で事情を説明し、しばらく待っていると検査が始まった。
最初は視力検査で、ついで別の機械の前に座らされてなにやら測定が始まる。白い光が出たり、パチパチという音がしたりなどした。
ついで医者が居る診察室に呼ばれる。ここにも別の測定機械が2台あって、それらを使っての測定も行われる。そして項目名を忘れ出たのだが、それを調べるために瞳孔を開く目薬を左目に入れるという。
少し待って、また検査があり、それらを受けての診察結果が告げられた。 当方からの質問に対する答えも含め、診察結果を要約すると次のようになる。
・眼球そのものに視野を狭くする問題は見つからない。したがって上方の視野が狭いのは瞼が下がっているためと考えられる。
・その他種々検査をしたが、特段指摘するような悪い個所は見当たらない。白内障の弱い症状が見られるが、現時点で治療の必要はない。
・瞼を上げる手術は、動く個所なので相当難しい手術となる。もちろん当院ではできない。
最後に、瞳孔を開く薬の効果が切れるのは、4・5時間先になる。その間は眩しいので充分に注意してくださいと告げられて病院を出た。
帰宅後、久しぶりに自分の顔をまじまじと見てみた。確かに左目の瞼がわずかに下がっているように見える。
普段両目で見ているときに支障はほとんどないので、このままの状態で、死ぬまでゆくことにした。
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