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Kの散歩帖
里庭掲示板
2025年5月9日(金)
私の履歴書 大学時代 その3 住と食(前編)
私の履歴書シリーズその18である。 前回は こちら→(2025/5/6)

今回は主として住まいと食事のことについて触れる。

大学時代の「その1」を書いた折り、 こちら→(2025/4/28)
学校の周辺に知り合いはなく、当然のこととして学生寮に入ったと記載した。
その寮は、建物としては上下1階と2階に分かれるという特殊な構造を取っているが、人間的には上級生と下級生との階層的な区別はほとんどなく、自由に運営されていて、特段の不満を覚えることなく推移していたのである。
そんな折、夏休みを終えて間もない頃と記憶するが、金属工学科1年の同級生で親しくなったI・A君から、寄宿先で良いのがあるのだが、一緒に行かないかという誘い話を受けることになる。


I・A君の父親は福岡市の市役所に勤めている人で、一方、その父親の知り合いで、北九州市の市役所に勤めている人が、学校の近所に住んでいて、その人から空いている別棟があるので、貸してあげてもよいという話が出たのだという。
学校から遠くない場所に家があり、これで儲けるつもりはないので安くしておく。しかも2部屋あり、個別に住めるらしい。
またとない条件なので、I・A君ともども寮を出て移り住むことにした。

寄宿先となる家は、大学から徒歩15分の場所にあり、地名は天籟寺という。車も走る太い道路を挟んだ反対側は天籟寺小学校という学校が建っていた。


道路に面した門扉を開けて敷地の中に入ると、右側に母屋が建ち、左側に別棟が建つという構成である。

家族構成は、市役所に勤めるご主人、専業主婦の奥さん、そして上に姉と妹、末っ子の長男という5人であった。

我々が入居することになる別棟は、道路側から奥に向かう方向で三つに仕切られ、最初が部屋、中央部が物置、さらにその奥に部屋という構造である。

それぞれの部屋には流しもついて、自炊ができる格好になっている。これは有難かった。
ただし、部屋の状態は「前」と「奥」とではかなり違い、「前」の部屋はそれなりに綺麗であったが、「奥」の部屋は少々くたびれていた。
紹介してくれたI・A君が、状態の良い「前」の部屋に入居し、状態の悪い「奥」側の部屋にKが入居することになる。これは致し方ない。


部屋代も異なり、前が月1000円、奥が月500円であったと記憶する(記憶はかなり曖昧)。

ただしこの状態は長く続かなかった。一緒に入居したI・A君が、部屋を出て、別の場所に移り住むことになる。経緯のことは全く憶えていない。時期は、1年生が終わる昭和40年の3月ころであったと思われる。


「前」のきれいな部屋があいたので、大家の了解を得てKが前の部屋に移り住んだ。


結果として、「奥」の部屋が空くので、これまた大家の了解を得て、寮で同室であった機械科の同年生I・T君に声をかけると入居するという。2年生になった4月であったと思うが、I・T君が同じ棟に入居してきた。

この状態はほぼ1年間継続した。
しかし2年生の末になった時点で、I・T君がこの部屋を出ることになる。


以後「奥」の部屋に人が住むことはなかった。
「前」の部屋にKのみが住むという状態が、卒業の時点まで2年間続くことになる。

以上の経緯を経て、Kはこの家に3年半お世話になった。
時間が長いだけに、それなりに逸話が生じたりなどするが、今日のところは、それを説明する紙面的余裕がない。

それらを含めた続きは、後日のことにする。



2025年5月8日(木)
塩サバの南蛮漬け
ネタ切れの時の一汁二菜シリーズである。

生協とは別のルートで塩サバを入手する方法があったらしい。ただいま冷凍庫に塩サバがかなり大量に保存されている。
塩鯖といえば、焼いて食べるか、“チシャもみ”にするかが定番であるが、少し目先の変わった食べ方は無いかと探し出し、見つけたレシピである。
塩サバの南蛮漬け。

 レシピは こちら→

塩サバを酒に浸したのち、焼いて南蛮漬けにするというもの。
そう難しくはないが、さっぱりしてなかなか美味しい味である。


もう一品は、茹でた菜の花が、これも冷凍庫にあったので、戻して白和えにした。
白和えの方法は、藤井恵さんのレシピ。

 こちら→

キュウリを菜の花に変えてみた。
こちらも簡単であるが、味は悪くない。

写真はないがもう一つの汁。我が家で採れた原木シイタケが、これも冷凍保存してあり、これで椎茸の“おすまし”を作った。
レシピはなく我流である。

春を冷凍して保存しておいた、初夏の一汁二菜となった。



2025年5月7日(水)
眼瞼下垂(がんけんかすい)
4月1日、眼科に行ったと記述している。 こちら→(2025/4/1)

左目の視野、特に上方向の視野が狭いので見てもらいに行ったのだが、目に異常はなく、視野が狭い原因は瞼が少し下がっているためと説明を受け、私なりには、とりあえずはこのままで過ごすと結論付けていた。

結論を出した以上、その後はあまり気にせず普段通りで生活をしていたのだが、およそ1週間前のことMが話しかけてきた。

Mがネットで調べたらしいのだが、私の目の症状には「眼瞼下垂(がんけんかすい)という病名がちゃんとあり、治療の方法もあるという。
治療の方法は大きく分けて二つあり、一つは手術。もう一つは医療用テープでまぶたを吊り上げるという方法らしい。
「調べてみたら」と勧められたので、探し出してみた。

眼瞼下垂の病状について こちら→
医療用テープの使いかたについて こちら→

手術はかなり難しいともあり、今のところ受ける気は無いが、テープによる吊り上げの方法は安易なもの、ダメ元で試してみようかと思い始めた。

手近なものを探すと、バンドエイドがある。
普段から肌色に近いものをかい求めていて、バンドエイドの両端の綿が貼り付けて無い部分が使えそう。この部分を4〜5mmの幅に切って使ってみることにした。


最初は貼るのにかなり苦労する。
しかしうまく貼り付けられた後の結果は、思いのほかかなり良い。
瞼が上がり上方の視野は正常に広がる。貼る前は、まばたきができるかと訝しんだが、貼って後まばたきをしてみると、わずかな違和感はあるものの問題ないといってよい。
少し時間が経つと、その違和感も消えていた。

試し始めて今日で4・5日目になるが、そのまま続けている。
風呂に入ると、さすがにテープがはげ落ちるので貼り直す必要があるが、洗顔のときは注意をして行い、はがれないように気を使う。したがって丸一日は充分に持つ。


近づいてしげしげと見ると、テープが貼ってあるのがわかるが、少し離れるとほとんどわからない。
今日はサロン田屋の日で、テープを貼って出かけたが、テープの存在に気がつい人は誰もいなかったと思われる。


2025年5月6日(火) ラベル506
私の履歴書 大学時代 その2 課外活動
私の履歴書シリーズその17である。 前回は こちら→(2025/4/28)

今回は勉強以外の課外活動全般について述べるつもりであるが、その前に、この大学シリーズをどのような資料をもとに記述しているかを示してみる。
本来なら前回示しておくべき資料であったが、致し方ない。次善の策として、ここで示す。


写真類が2種類。一つが卒業記念に大学が贈ってくれたもので、アルバムになっていて、学校の全景や学長の顔写真、教授連の個人別写真、さらに金属工学科同窓生の顔写真などからなっている。
もう一つが未整理の写真。個人的に撮った写真である。小さな小箱に入っていて、2〜300枚はあろう。

次が資料類。2冊のアルバム形式になっていて、一つが書簡の類。学校などからの通知書類や、祝電などもこのアルバムに保管している。
もう一つが紙の小物類。食券や鉄道の乗車券、あるいは切手、コンサートの入場券などを貼っている。


本題に戻ろう。
勉強以外の課外活動の主なものについて触れてみる。

一般論として大学時代の課外活動を振り返ってみると、鮮明な思い出が少ない。
高校時代は、いろいろ楽しい場面が思い出され、高校生活を楽しんだという気持ちが強いのに対し、大学時代の思い出はかなり不鮮明である。
高校時代同様クラス替えのない学校生活であったのに、思い出が少ないのは、男性ばかりのクラスであったからとも思われる。
青春真っ只中の時代。男ばかりの生活では、気持ちは踊らない。記憶が不鮮明になるのは致し方ない事かもしれない。
大学生活を一言で総括すれば、他愛なく平凡に、可もなく不可もなく、課外生活を送ったということになるのかもしれない。


以下、具体的な動きを取り上げてみる。

最初に部活動。
入学すると部活各部から入部の勧誘があり、結果としてテニス部に入った。
その時の写真が1枚残っている。


写真を見ると軟式庭球部の文字があり、なぜ“軟式”に入ったのかは、思い出せない。
ただ入部の時期は長くはなかった。1年もせず退部して、以後は部活動はしていない。


次が運動会。
あまり具体的記憶がないのだが、写真等の資料が残っていた。


運動会のプログラムが残っている。昭和41年のもので第16回とある。これを見ると毎年行われた模様であり、昭和41年といえば、Kが3年生のときになるが、写真で見ると、集合写真に写る生徒の数は40〜50名で多くはない。
一体どういう形で行われたのであろうか、ほとんど思い出せない。
少なくとも2回は出場した写真が残っていた。

次が金属工学科同窓生(実験助手含む)と一緒に遊びに出かけた写真。


この種の写真は何枚もあるが、春夏秋冬が感じられる4枚を選んでみた。ぼちぼちカラー写真が一般化される時代でもあった。

次は合ハイ(合同ハイキング)の写真。女性と一緒に写る写真はこれのみである。


九工大から遠く無い場所に、筑紫女子短大という学校があり、そこの女学生と一緒に合ハイをした写真である。
ただ写真が残るのみ。その後何かが起こったということは、聞いた覚えがない

次が島根県人会の写真。島根県出身者で九州工大に入った者の集まりである。
およそ20名程度の学生が写っているが、石見地方から入学したものは自分一人で、残りはすべて出雲地方の出身者であった。


その中に加わっていただいたのが、松江出身の日本史の先生で名前を平野教授と言う。
後年は懇意にしていただいたが、単身赴任で家族は東京に住み、普段先生は構内にある官舎に住んでおられた。

最後が一人旅である。
列車に乗って一人旅をした。国東半島をめぐり富貴寺や磨崖仏などを見て鹿児島に行き、桜島や開聞岳に登ったりなどした。
何時のことであったろうと散々調べたがわからず、最後になって桜島観光をした時の写真が出て、その写真の中に日付が載っていた。昭和40年10月17日とある。
昭和40年といえば大学2年生のときになる。


その後霧島連山を訪ねたのははっきりしているが、阿蘇を訪ねたかどうかは記憶がない。
貧乏学生ゆえ、原則は野宿であったが、3〜4泊はしたはずである。

帰省などで列車に乗ることはもちろんあったが、物見遊山の旅行は、ただ一度この時のみであった。

以上主だったものを拾い上げてみたが、せいぜいこんなものである。
課外活動としては、平凡でかつ平穏な動をしてきたといってよかろう。

世間では、全共闘を中心とする学園紛争が騒々しくなり始める時期であったが、九州工大の中では、そのような動きはほとんどなく、私自身にも、その気は全く起きなかった。



2025年5月5日(月)
綿毛は花より背を高く
実は昨日の出来事。
晴れの良い天気で、午前中にウォーキングに出た。時間は10時過ぎである。

ウォーキング中、以前はスマホでラジオをよく聴いていたが、ここのところはほとんど聴かない。思いついて聴いてみようかと、久しぶりにラジオをつけてみた。

流れてきた番組は「子ども科学電話相談」という番組。小学生が中心になるが、子供達が不思議に思う出来事を電話をかけて専門の先生に質問し、その質問に対し、先生方が子供らと電話で会話をしながら答えていくと言う番組である。

夏休みなど長期休暇の時期に放送していると承知はしていたが、今の時期に放送とは、あまり知らなかった。連休中なので放送しているのかもしれない。

その中で、小学3年生の女の子が質問をしてきた。
質問の内容は「タンポポの花は黄色いのに、綿毛はなぜ色が白いのですか」という質問である。

これに対する先生の答えは、最初に「花と綿毛では役目が違うからです」と結論を述べてから、「花は実を作るため、花粉をハチや蝶々に運んでもらう必要がある。そのためには黄色い色をつけて目立つ必要がある。だからカロテノイドという物質を持って、黄色い花を咲かせている。
ところができた綿毛は、遠くに飛ばす必要があって、軽くなければならない。軽くするために実の成分はほとんど空気である。したがって色が白く見える。
タンポポは賢いよね。」という答えであった。

ここまでの話は、子供は別にして、大概の大人なら承知している事実である。

ところが先生の答えはここで終わらず「タンポポはもう一つ賢いことをしている」と説明を続けた。
その内容は、「タンポポは花から綿毛に変わる時、一度茎から倒れて、再び立ち上がるのだという。そしてそのときは、必ず茎をさらに伸ばして花より身を高くし、風に飛ばせやすくする」のだという。

この話は、80歳にして初めて聞く話であった。

丁度ウォーキング中である。
あたりを見回すとあちこちにタンポポが咲いている。今聞いた先生の話を確認してみた。


確かに花の高さに比べると綿毛の高さは倍前後あり、背が高い。
よく見ると茎が倒れているものもある。これまでの認識では、茎は枯れ、もはやこの茎は寿命が尽きたと思っていたが、これから立ち上がって綿毛になるのだという。

80歳して初めて知る、生命の神秘であった。



2025年5月4日(日)
矢上高校野球部 県大会優勝
本日の読売、島根版の記事。
高校野球春の県大会において、矢上高校が優勝したと報じている。扱う記事も大きく、紙面の1/4弱は占めている。


昨夕防災無線で放送があり、矢上高校野球部が県大会で優勝し、夕方学校に到着するので、できる方は歓迎に出向いてほしい旨の放送があり、優勝のことは一応承知はしていたが、新聞記事にて詳報を知るとやはり感慨が湧いてくる。

Kも在高時、活躍はしていないが野球部に在籍していた身であり、 こちら→(2025/4/7)
そういう意味では今回優勝した諸君の大先輩ではある。

Kの在部時は軟式野球で、しかも田舎の学校。なんとなく引け目を感じながら野球の試合に出向いた気がするが、今や硬式野球部に転じ、しかも優勝であるから、大変身といってよい。

詳しいことは承知せぬが、数年前監督が変わり、急に強くなってきたと言う。今や他県からも入部する人がかなりあるとも聞く。

春の大会は、残念ながら甲子園に結びつく直接の道は無いが、夏に向けて行われるシリーズでもぜひ優勝し甲子園へ出場してもらいたいものである。


かつて、だいぶん昔のことであるが、Mの母校になる新庄高校が夏の甲子園に出場したことがあり、Mが応援に行くというのでKも便乗して行ったことがある。  こちら→(2016/8/15)

その時も結構楽しんだが、しかしなんといっても他者の母校。

しかし今度甲子園となると、自分自身の母校である。是非とも応援に出かけ、冥途の土産にしたいものである。



2025年5月3日(土)
山は薄緑
4月24日、周辺の山は“山笑う”の状態であったが、 こちら→(2025/4/24)
それから10日近く経って、木々の色の濃さが増してきた。
「新緑」と形容するのが最もふさわしい時期である。

そんな中、午後のこと、ウォーキングに出た折り、ところどころで山の様子を写真に撮ってきた。


田圃は今が田植えの最盛期。代掻きが終わって水の張られた田圃も多く、山が逆さに写り込む場面もしばしばで、写真に面白みを加えてくれる。


我が家の背後に映る裾野の広い山は四反田山と言う。
周辺の山と繋がらない単独峰。


「八色石富士」と言っても良いくらいの、形の良い山である。


寒暖を繰り返しながらも、季節はいよいよ初夏。

心が華やぐ季節でもある。



2025年5月2日(金)
「あんぱん」
4月から始まった今回の朝ドラタイトルである。

今回は面白そう。
我が家では、朝ドラを生で見ることが無いではないが、大半は録画したものを見る。
次の写真はその中で、今日放送されたものから抜き出した。

今回のドラマは、漫画家である“やなせたかし”夫婦を描くもの。
夫になる“たかし”が、一浪後東京の大学に合格すると言う場面である。


前々回の「虎に翼」は面白く、全編を通してみ終えたが、 こちら→(2024/4/13)
前回の「おむすび」は全くダメだった。1・2週間も見ず、途中でやめている。


ドラマの面白さは、出演する俳優陣もちろんあるが、やはり脚本次第である。

今回のドラマの脚本の作者は中園ミホ。
中園ミホ氏の手になるこれまでのドラマは、朝ドラでは「花子とアン」、大河では「西郷どん」、そしてなんといっても有名なのが、「私失敗しないので」という決め台詞で名を馳せた「Doctor-X 外科医・大門未知子」がある。

いずれも成功したドラマとされる。
今回の「あんぱん」も、その仲間入りをするに違いない。

期待しながら、おそらく最後まで見ることになるであろう。


ドラマの人物相関図が載っていた。


この中でKの目を引くのが、2人の主人公役は別にして、松嶋菜々子、吉田鋼太郎、竹野内豊、二男役になる長沢元紀が良い。



2025年5月1日(木)
榾木用原木の落ち葉炊き
4月4日に行った作業  こちら→(2025/4/4)
の続きの作業になる。

二の畑に下した枯れ草のうち、山野草側の枯草はこの間にMが畑に埋めたり、少しずつ焼いたりなどして始末していたが、榾木を取った後の落ち葉はそのままに土手沿いに残っていて、景観を害してしていた。
焼きたい気持ちは持っていたが、周辺は枯れ草で火事の心配があり、日延べをしていたものである。

ようやくここにきて、周辺は緑が広がってきた。火事の心配はなくなったと考えて焼くことにした。
ただし焼くのは早朝。朝露で周辺はまだ湿気ている時である。
落ち葉には昨夜からシートをかけておいた。


落ち葉の表面は乾燥してよく燃えるが、下積みになった個所はかなり湿気ている。
少しずつ乗せては焼けるのを待つという格好で、時間はかかりそうである。

待っている間は時間が余る。
何か仕事はないかと探してみると、二の畑の入り口周辺で吹き溜まりの形で落ち葉が溜まっている。こちらも焼くことにした。
合わせて火点は二つである。

しかしそのうち、入り口付近の落ち葉は燃え尽きる。
そうなるとまたしても時間が余る。

次に見いだした仕事は、すぐ脇にある欅台の草刈り。
草刈りの道具一式を取りに帰り、草刈りを始めた。
途中時々落ち葉の草焼きを見ると言う格好である。
草刈りに要した時間は1時間。

そうこうしているうちに、落ち葉焚きの作業も、ようやく終えることができた。
落ち葉炊きが終わったのは、始めてから3時間後のことである。