2025年5月31日(土) ラベル531 |
私の履歴書 三井金属入社 |
私の履歴書シリーズその22である。前回は こちら→(2025/5/22)
昭和43年4月1日付けで三井金属鉱業株式会社に入社した。
今回以降当分の間は、三井金属に入社してから後の話に触れることになる。
具体的な話の前に、三井金属の沿革について簡単に触れる。
江戸時代に創業した三井組が、九州にある三池炭鉱の採掘権を明治政府から譲り受けたものが母体となるが、その後、岐阜県にある神岡鉱山の経営権を取得し、三井鉱山(株)を設立したのが起源である。
昭和に入り、第二次大戦後の財閥解体で、鉱山部門と金属部門が分離され、この金属部門を持って設立されたのが三井金属鉱業株式会社である。
分離された当時は炭鉱の盛んな時期で、金属部門に配属されたものは“冷や飯食い”と揶揄されたらしいが、その後の朝鮮戦争時期の特需に遇い、大きく飛躍したと聞く。
一方炭坑部門となった三井鉱山株式会社は、その後の石炭部門の衰退に伴って、1997年に三井炭鉱を閉山し、現在は日本コークス(株)という社名に変わっている。
神岡鉱山は良質の亜鉛鉱山で、その規模は質・量とも東洋一とされる。
これを元にして、亜鉛地金を精錬するのが三井金属のもともとの本業であった。
入社後の聞いた話では、朝鮮戦争以降当分の間は羽振りの良い時期があり、給料もすこぶる良かったらしい。もらったボーナスの札束を束ねて横にすると立つほどであったという笑い話もある。数年で家が建つほどの給料であったとも聞く。
ただし我々が入社した昭和43年当時は、かつての“すこぶる良い時代”は過ぎ去り、“普通”の会社に変わりつつある時期であった。
昭和43年に入社した同期生は42名である。
大学院卒が1人、工業高専卒業が2人、残りはすべて大学卒であった。
資料がなく記憶に頼ることになるが、卒業した大学名をあげると、国立大学で、東大、東京工大、一橋大、京都大、大阪大、名古屋工大、九州工大、九大、熊本大となり、私立大学では、早稲田と慶応のみの2校であった。
九州工大からは私のほかに、機械科卒の人がもう一人いて、合わせて2名が入社している。
早稲田で、応援団の団長をしたという猛者もいた。
これら42名の学卒集団は、日本を担うキャリア官僚と同じ扱いの、いわばエリート集団で、入社後の扱いも独特であった。 我々が入社する前年の昭和42年までの話であるが、別名「大名行列」と呼ばれる研修日程が組まれた。
本社での初期教育後、全員で、半年をかけて、神岡や三池ほかの各工場で現場実習を兼ねた研修を受けるのである。
その間、「大名行列」の所以となる、かなり豪勢な扱いを受けたらしい。
ただし、それは前年までの話。諸般の事情で、我々の時からはなくなった。
我々のときは、4月1日に本店(本社とは言わない)で入社式があり、2・3日の初期研修後、神岡と三池の両工場のみ、それぞれ2,3日かけて見学をし、その後再び本店に戻って辞令を受け、それぞれの配属先へ別れるという日程であった。 日時や理由は全く記憶がないのであるが、同期生全員で日比谷公園に集まることがあり、日比谷公園の桜が満開であった光景が強く記憶に残っている。
さて、私が受けた配属先の辞令はダイカスト事業部。
同時にダイカスト事業部の辞令を受けた者は、阪大、東工大と高専卒のそれぞれ、全員で4名である。
配属先のダイカスト事業部に出頭したのは4月12日であった。
蛇足;
およそ10年前のことになるが、この43年に三井金属に入社した同期生が、メールによる連絡網を開設してくれて、その同期会の会名を「43年同期会」という。
これまでに小欄で、この同期会のことに何度か触れた。月日を示すと次である。
こちら→(2017/4/23)
こちら→(2022/10/12)
こちら→(2023/10/20)
私は参加しなかったが、メールを通じて同期会参加者の写真が送られてきていて、諸氏の了解は得ないままであるが、ここに掲載してみる。
かつての精鋭らの、年を重ねていく様子が伺える。
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2025年5月29日(木) |
定期健診 |
3ヶ月に一度、邑智病院で行われる定期健診に行ってきた。
前回は こちら→(2025/3/6)
新病棟に移って今回が3度目の検診なので、ハード、ソフト両面において、少しばかりは慣れが出てきた。
待合室の椅子の並びが、前回とは少し変わっているような気がしたが、確信ではない。
私の検診では、毎回血液検査が行われるので、採血後結果が出るまで待たされて、先生の診察となる。
今回も、1時間以上経ってのちの診察となった。
血液検査に対するコメントの個所では、「基本的には全く問題がありませんが」と前置きしてから、「HbA1Cの値が高めの傾向が続いている。ただし、この値は毎年夏場になると下がる傾向が見えるので、まあ様子観としましょう」という言葉が出された程度で、問題視する項目は無いらしい。
私自身が注目するγ-GTPの値は、帰宅後確認すると50であった。 長年記録をとっているが、この間の中では最低の値。
新記録である。
これでまた、心置き無くお酒が飲める。
ありがたいことである。
待ち合い時間の折り、館内放送で消防訓練をするようなアナウンスが流れたが、診察を終えて外に出てみると、旧病棟の建物で消防車などが来ていて訓練をしていた。
アナウンスでは詳細がわからず、何のことかと思っていたが、ガッテンして帰ってきた次第である。
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2025年5月28日(水) |
防猪用金網の設置 |
一昨日行った杭作り こちら→(2025/5/26)
の本番作業である。
ただし、その本論に入る前に、少しばかり設置に至る経緯について触れてみる。
里庭では初夏の頃笹百合が咲く。
咲く場所は3・4ヶ所あり、その中に中心的に咲く場所があって、今回金網を設置したの、その中心的に咲く場所のことになる。
里庭に咲く笹百合の数をMは記録していて、2006年には13本咲いたという。その後順次数が増え2018年には37本にまで増えていた。
ところが、2019年の2月に、球根を猪に掘り返されて 関連記事が こちら→(2019/2/24)
2019年には咲く数が10本にまで激減する。
その後電柵を設置するなどの対応をして数が戻りつつあり、昨年の2024年には、20本にまで回復してきた。
ただし、Kには詳しいことはわからぬが、笹百合が咲く条件はかなり微妙らしい。
咲くのは、北向きの斜面で、しかも朝日があたる場所を好むと言う。
さらに、笹がなくてはならないが、茂りすぎてもだめらしい。
この笹との微妙な関係で、電柵がうまく機能せず、この1・2年は、電柵を撤去し、無防備の状態であった。
今の状態では、再び猪に荒らされる可能性が充分にある。電柵ではなく、金網で対応しようというというのが設置に至る経緯である。
本論に戻ろう。
作業を開始したのは朝9時から。
どの場所に設置するかは、Mが材料を運びながら指示する。材料を固定するのがKの役目である。
杭を打ち込んで、金網と杭を結束バンドで固定するという作業になる。
Kには分からないが、小さな笹百合の芽がMには分かるらしく、「そこは踏まないで」という指示が何度も出たりなどする。
設置した面積は、小路沿いに25メートル、奥行きが6メートルの長方形に近い区画である。
午前中では全作業が終了せず、午後も行って、延べ4時間。2人合わせて8時間の作業になった。
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2025年5月27日(火) |
老人会 グランドゴルフ大会 |
老人会のグランドゴルフシーズンが開幕した。
邑南町で年に3回開かれる本大会へ向けての、瑞穂地区予選である。
八色石集落からは4名が参加した。
会長挨拶の前に、90歳以上の参加者へ記念品が贈呈される。受賞した方は7名であった。
全参加者が70余名であるから、丁度1割の方が表彰されたと言うことになる。
逆の言い方をすれば、9割の人は80歳代まででグランドゴルフはできなくなるという見かたにもなる。
自分自身の成績は、前半は極めて悪く、打数が29。後半は、前半よりよく打数が23。そのうち運良くホールインワンが1回出て打数がマイナス3。従って総打数は49と、上出来の値になった。
順位は41位である。
50位までが本大会へ参加できるのだが、八色石集落からは他に参加できる人が誰もなく、ただ一人で参加する気にもなれず、本大会への出場は辞退して帰って来た。
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2025年5月26日(月) ラベル526 |
防猪用金網の杭づくり |
この度、Mの設計で笹百合が咲く場所に対猪用の金網を設置することになった。設備全体の報告は、完成したのち記述することになろうが、とりあえず今日は、そのための杭作りの話である。
昨日自治会総会が終わったのちの午後、川沿いの町にあるホームセンターに、金網と杭の材料を買いにMと一緒に行ってきた。軽トラはMの実家で借りての買い出しである。
金網はMの設計に基づき2種類の金網を、合わせて37枚買い求めた。
そして杭である。
金網の脇に専用の杭が置いてあるが、値段を見るとひどく高い。長さにもよるが1本あたり千円近くする。金網1枚の価格とほぼ変わらぬ値段である。
一方少し離れたところに、コンクリートを打つ時に使用する鉄筋が置いてあった。4メートルの長さで、細いもの(D10)と太いもの(D13)の2種類がある。
できれば太い方にしたい。
我が家には切断用の道具があって(前住者が残したもの)、細い方は切断した経験があるが、太い方は切断した経験がない。店員に、太い方でも切断できるか尋ねると、大丈夫切れるとの答えがあって、太い鉄筋を買い求めてきた。鉄筋を1本を切断して、3本の杭を作る計画である。
これで費用は、専用の杭を買い求める場合に比べ、1/3程度に下がる。
買い求めた本数は、Mの設計図から算出して合計14本。
うち2本は4等分し、残り12本は3等分する計画である。
前置きが長くなったが、その鉄筋を切断して杭を作る作業を今日実施した。
切断機を納屋から庭に出しての作業である。
試しに一本切ってみることにした。予想外に力が要る。
細い方を切った場合でも少々力はいるが、それに比べると物凄く、力を込めて何回も押して、ようやくのことで切れるという状態であった。
ざっと考えても30回程度は切る必要がある。とてもそんな数は切れそうにない。
お金はかかっても、出来合いの杭を買えばよかったかと、悔やんだりするほどであった。
かといって、最早変えることはできない。なんとか工夫しなければと思い始めた。
最初に思いついたのが、切断力を増強するため柄の長さを長くする方法である。物理の教科書に載っていた、柄の長さを長くすれば、同じ力で押しても押す力は増強される。この原理の応用である。
納屋に入って探してみると格好のパイプが見つかった。
パイプの穴には切断具の柄が入りそうである。はめると、太さはぴったし、柄の長さはおよそ2倍になった。
理屈では、これで押す力は半減するはずである。勇んで試すと新たな問題が発生した。
切断しようとして長さが長くなった柄を押すと、切断具の先端が浮かび上がるのである。
切断する前は柄の端は切断治具の踏み台よりも内側にあった。したがっていくら押しても治具の先端が浮き上がるということはない。
ところが今度は柄を長くしたので、柄の先端は治具の踏み台よりも外側の位置になる。その位置関係で押すと、治具の先端が浮かび上がることになる。
対応方法として、ジグの先端を長さ30pほどある金属製の杭を打ち込んで、浮き上がらないよう固定することにした。
この状態で試すと、先端は持ち上がらず、しかも私の力で充分対応できる程度の力で切断できることが判明した。
しかしまだ問題が残る。
柄が短いときは治具の踏み台の端を踏んで切断するので治具は安定しているが、柄を長くしたことでそれができず、治具全体が横揺れする。この横揺れを防ぐ対応もした。
近くにある物干し竿の重しになっている金属製の円盤である。重さとして20s近くはあろう。これを運んできて治具の踏み台の上に置いてみた。これで治具は安定し、横ゆれすることも無くなった。
以上の3点の改善により、あまり困難さを感じることなく切断できるようになった。
まずはメデタシである。
こうやって可能になった方法で切断作業を続けていたのだが、その間に閃いた出来事がある。
それまでは、切断位置を決める長さの目安に、一本ほど目安となる切断物を治具のそばに置いて。それに合わせるようにして鉄筋の位置決めをしていた。これでほぼ問題は無いのだが、切断後の長さに若干のばらつきが出るのと、長さ合わせに少々ではあるが時間がかかる。
思いついた方法は、位置決めになる場所にブロックを置くという方法である。
所定寸法になる位置に、位置決め用のブロックを置いておき、最初に切断の位置決めをするとき鉄筋の端をそのブロックに当てるだけで所定長さの位置決めができる。
これで作業スピードは一段と早くなった。しかも長さのばらつきは極めて少ない。
今回の杭づくり作業はおよそ2時間を要ししたが、大半は治具の改良である。試行錯誤を重ねながら積み上げて行ったのでかなりの時間を費やした。
実質の切断作業はおよそ30分程度であろう。
今後はノウハウを習得したので、もし同じ作業が発生すれば、短時間で完了することができる、と思われる。
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2025年5月25日(日) |
銭宝自治会総会 |
地域の自治会総会が開催され参加してきた。第21回とある。
参加者はおよそ30名余り。
通常の総会では過年度度の事業報告と会計報告、そして当年度の事業計画と予算案の承認が主たる議題となるが、今年はその他に、規約の一部改正という大きな課題が検討された。
改定の内容が、これまでは地域振興部、コミュニティ部、環境福祉部、と名付けられた年齢的には縦断的な人で構成される各部に分かれていたのだが、これを青年部、壮年部、熟年部の、年齢的に横断的な各部構成に分けるという内容で、自治会運営の方法を根本的に変えるという内容のものである。
昨年も同じ提案が提出されたが、総会で検討不足という意見も出され否決となった。
その後役員で継続検討されたのであろう、今年も提案され、今年は承認されたという経緯である。
個人的には若干危惧する部分もないではないが、もはや我々の年代が口をはさむ場面ではなく、今後の推移を見守るばかりである。
自治会総会への参加者が、ほとんど熟年層ばかりという現状も気にはなる。
我々が当地に越してきて24年。自治会は平成の市町村大合併に伴って設立された組織と記憶するが、それ以降21年。時代の変遷を感じる次第である。
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2025年5月24日(土) |
美智子皇太后歌集 「ゆふすげ」 |
図書館に予約を入れておいた美智子上皇后の歌集「ゆふすげ」が準備できたとの連絡が入り、借りてきた。
予約は2ヶ月くらい前に入れたのだが、私の前に数名の予約者があって、ようやく私の番になったという経緯である。
この歌集については、すでに小欄で2度取り上た。
こちら→(2025/2/6)
こちら→(2025/3/14)
今回予約を入れた目的は、これほど評判になる歌集である。もとより、歌を理解・鑑賞する能力は持ちあわせていないが、せめて本そのものは手に取って、触ってみようと思ったのであった。
巻末に、歌人で細胞生物学者の永田和宏氏による解説が載っている。
これによると美智子上皇后が出版された歌集は今回のものを含めて3冊あるというが、これまでは「皇太子妃」とか「皇后陛下」とかの表現で発表され、「美智子」なる実名で発表されたのは今回が初めてという。
さらに歌集の題名である「ゆふすげ」も、ご本人がお付けになったものと説明されている。
そういう意味では、より、“人間美智子”を表現する歌が載っているのかもしれいけない。
本の帯に、いくつかの歌が抜粋されて載っている。
表紙には、
夕暮れに
浅間黄すげの
群れ咲きて
かの山裾の
避暑地思ほゆ
裏には、6首の歌が載っているが、その中の1首
行くことの適わずありて幾度か
病む母のさま問いしこの電話
鑑賞能力を持たない私でも、心情が読み取れる御歌である。
余談ながら、我が家の庭にもユウスゲの1種が咲いている。
Mが管理するニッコウキスゲ。
ただしこちらは、夕方に咲くのではなく、朝から日中の昼間にかけて元気よく咲く。
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2025年5月23日(金) |
もう一度、ホセ・ムヒカ 元大統領 |
以前小欄でも取り上げた、ウルグアイの元大統領 ホセ・ムヒカ氏のこと こちら→(2025/5/15)
NHKのニュース解説で再び取り上げている。
取り上げたのは今週の水曜日(21日)、昼過ぎに放送される「みみより!解説」と言う番組である。
安藤英夫解説委員が解説している。 我が家は、録画をかけておいてみた。
ニュースとして事実関係を報道するだけでなく、解説委員としての論旨のまとまりがあり、特段新しい内容は含まれていないが、元大統領のことを知るには都合がよい。
今ならNHKプラスで視聴できる。興味のある方はご覧になるとよい。
我が家は録画が消せないよう、“鍵をかけて”保存することにした。
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2025年5月22日(木) ラベル522 |
私の履歴書 大学時代 その5 就職活動 |
私の履歴書シリーズその21である。 前回は こちら→(2025/5/13)
前回卒業証書を掲示してしまったが、今回はその前の動きになる、就職活動について触れる。
冒頭から余談になるが、昨今の就職活動に疎いので、チャットGPTに最近の事情を尋ねたら次のような回答が戻ってきた。
大学3年生の夏頃から始まり、大学4年生の夏ごろには決まってしまうという状況という。
もちろん主体的に動くのは、就職する当人であろう。
ところが、私の場合は全く異なる動きであった。
自発的に動くことはほとんどなく、学校側から、どの会社の入社試験を受けるか指定されるのである。時期は大学4年の5月頃であった。
それでは、学校側は、各学生の受験先をどう割り振るのであろう。
それは、ほぼ機械的に成績順に割り振るというものであった。
金属工学科の場合は、成績順にまず鉄鋼精錬会社、ついで非鉄精錬会社、そして最後に一般製造会社という順である。
私の学業成績証明書が残っている。大学4年生の5月に発行されているので、3年生までの成績になる。
受験先の会社に送付されたものの写しと思われる。
これで、同期学生38名の間で成績は5番であった。
私の卒業年次には八幡製鉄(富士製鉄)からは応募依頼がなく、鉄鋼精錬会社としては、住友金属、川崎製鉄、神戸製鋼、日本鋼管の順に、非鉄製錬会社としては三井金属鉱業、三菱金属鉱業、住友金属鉱業という順番であった。
日立とか東芝と言う会社からも応募依頼が来ていたが、受けたのは成績がそれ以下の学生で、日立を受けた学生は合格したが、東芝を受けた学生は合格しなかったと記憶している。
成績が5番の私には、三井金属鉱業株式会社を受験するよう割り振られた。
以下、三井金属と交わされた入社試験に関わる書簡が残っている。
最初が、会社から発行された推薦の依頼書。日付は4月21日となっている。
試験科目や初任給が掲載されているが、後日春闘でベースアップがあったため、5月10日付で初任給の変更を知らせる書面も届いている。
学校から、私を推薦する旨の書面が会社に送付されたのであろう、会社から入社試験日を知らせる知らせが届いている。
書簡の日付は6月1日。
試験日は6月9日とされ、場所は日本橋三井本館となっている。
宿泊の場合は会社が経費負担で場所は予約されていた。往復運賃の記載がないので、これは手前持ちであったと思われる。
入社試験がどのように行われたのか、ほとんど記憶が無い。
入社試験を経て、合格内定を知らせる書簡が6月13日付けで発行されている。
誓約書を提出する旨の連絡書も添付されていた。
ただし、合否の判定結果は書簡より前に入手していた。(電話でも確認できると入社試験の際案内があったのであろう)電話で確認している。日付は6月11日と推定される。
入社試験の帰り道、寄宿先には直接戻らず、実家に一度立ち寄っている。当時実家には電話がなく、川向うで橋を渡った先に、当時森林組合の事務所があり、そこの電話を借りて確認した。
当時の電話はまだ直通でなく、電話をいったん申し込んで、しばらく待ってのちに電話が開通する時代で、10分か20分家で待っていて、川向うから開通した旨の呼び声をかけてもらって、電話で合否を確認した。
結果は合格であった。
どう連絡が行ったか分からないが、隣家のおばあさんが、「日本は死んでも、三井は残る」と言って喜んでくれた記憶が蘇る。
書簡の最後は内定者懇談会の案内書である。
書簡の発行日は9月25日付けで、当初懇談会は10月11日に開催予定と案内されたが、のちに変更され、実際は、10月24日に実施されている。
経緯はすっかり忘れているが、この懇談会には、学校の島根県人会 こちら→(2024/5/6)
で懇意になった平野先生と一緒に上京している。
当時先生は単身赴任で官舎に住み、実家は横浜にあった。その横浜のお家に泊めてもらったのである。中学生前後の娘さんが、日本橋にある三井本館までの、電車や地下鉄の乗り方を図面を描きながら教えてくれた記憶が残っている。
一方懇談会で記憶に残るのは、建物の立派さであった。
当時三井金属の本店は、日本橋にある三井本館 こちら→
の5・6階にあり、廊下は赤い分厚い絨毯が敷かれ、全役員との懇談や会食が行われた大会議室の床は黒光りする大理石が敷き詰められていた。
廊下などは入社試験の折りにも通っているはずであるが、緊張もあったのであろう、建物などを含めほとんど記憶が残っていないが、この懇談会では、気分も緩み、これが我が社かという思いもあったのであろう、強く印象に残っている。
ともかくこれらの経緯を踏まえて、翌年の昭和43年4月1日に、三井金属鉱業株式会社に入社することになる。
したがって入社試験を受けたのはただの1回、会社訪問とかエントリーシートの作成とか、冒頭で述べた、最近の学生さんらが辿る入社までの手続きは、ただの1回も経験することなくの入社となった。
若干ながら、まだのんびりさが残る時代の、入社試験風景であった。
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2025年5月21日(水) |
山は緑一色 |
午後からは雨が降るとの予報で、午前中にウォーキングに出た時の写真である。
景色はすっかり、緑一色であった。
「山笑う」の時期があって こちら→(2025/4/24)
「山は薄緑」 こちら→(2025/5/3)
の時期になり、そして今や「緑一色」である。
かつて「わが谷は緑なりき」という題名のアメリカ映画があった気がするが、それは、炭鉱かあるいは鉱山かの街を舞台にした白黒の映画であったと記憶するが、まさに今の景色は、そのアメリカ映画のタイトルの状況である。
さりながら、景色としてはあまり面白くない。
ただ緑一色というだけで、変化に乏しく面白みが少ないわけである。
そうは言うものの、今日は「小満」。
景色も、も少は動く。
これからは、7月・8月の「山は深緑」に向けて、ゆっくりと時を刻むことになる。
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2025年5月20日(火) |
義兄逝く |
休刊などの関係で少し前の話になるが義兄が亡くなった。Kにとって2番目の姉の主人になる人である。
亡くなったのは5月15日の未明。自宅で、家族に見守られてなくなったという。
その前の週の9日が誕生日で、満90歳。家族で誕生日の祝いをし、そのときは刺身を食べ、無類の酒好きで、少しではあるが焼酎も飲んだと言う。ただその後急に食が細って食べられなくなり、息を引き取られたらしい。
15日が仮通夜。16日が通夜。17日が葬儀、そして出棺と火葬という段取りで儀式が営まれた。
焼香台に飾られた遺影と家族が手作りした義兄の在りし日の写真である。
そして葬儀ほかの写真が次。
熱心な仏教徒で、お寺のお世話にも尽力し、院号が授与された。
院号は本名にある勝の字を取って「勝願院」。
その後、お坊さんの説教で院号の意味を説明されたが、“勝願”とは、「正信偈」というお経に出てくる言葉で、「この上無い願い」と言う意味を持つという。
余談;
義兄の本名は「勝登」という。一方Kの本名は「勝則」。
大戦中の誕生で、戦勝を祈念してつけられた名前と思われ、あまり好みの名前とは思ってなかったが、今回「勝」の字には、勝ち負けの他に、“この上なない”という意味が有ると知り、少々自分の本名に好意を持った次第であった。
姉が2人の末っ子の長男であるKには兄がいない。そういう意味で、2人の義兄は、Kにとっては頼もしい存在でもあり、随分とお世話になった。
そのうち、上の義兄は2017年になくなり こちら→(2017/4/3)
そして今回は次兄。誠に寂しい。
こういう関係にあって、もっとも懐かしく思い出される出来事がある。
それは毎年春先に開催していた「如月会」と名付ける兄姉会。
2人の兄が写る写真が載っている会を例示すれば こちら→(2021/4/11) 2022年まで連続開催したが、現在は中断している。
もう一度義兄のことに話を戻す。
義兄は合併前の石見町役場に勤務し、最後は課長まで勤めた。その勤務中に、「土地家屋調査士」と「行政書士」のに二つの国家資格を取得し、退職後はその方面の仕事もしている。
いわば土地に係る行政面のプロでもある。
そんな折我々がこの八色石の地に戻る話が浮上した。
経緯を別稿に記載している。 こちら→ この文章中に出ている「義兄」が、この度亡くなった義兄のことである。 義父は馬力の人で交渉力はあるが、事務能力は薄い。文中にも記載しているようにかなり難物の物件で、難物物件を整理し、事務的手続きを実行してくれたのは義兄と思われる。 義兄なくしては、この八色石の土地の入手は無理であったかもしれない。 その意味でも義兄には大変感謝をしている。
義兄は最後まで自宅ですごした。
この度喪主となった甥の話によれば、そのうち最後の2年半は、ほぼベッド上の生活であったという。
これを支えたのは家族。主として甥や姪やお嫁さんたち。
やり遂げたという思いがあるのであろう。仮通夜から出棺に至る一連の営みには、若干の涙の場面もあったりはするが、総じて晴れやかで清々しいものであった。
90歳という理想の大往生である。
合掌。
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2025年5月16日(金) |
お昼に 一汁二菜 |
本日Kの食事当番は、もともとの予定では夕食が担当であった。 が、
この2,3日諸般あって生活様式が非日常になり、急遽、夜でなくお昼に食事当番を担当することになった。
話が少し前後するが、頂き物の筍があって、これをMがすでに水煮したものがあり、水煮後少し時間がたち、早めに食べたが良いとされていて、この筍を用いたメニューを夕食用には考えていたのである。
普段昼食時には、麺類とか、丼ものとかのあまり複雑でないメニューを用意するのだが、筍を用いたその種のメニューが思い浮かばず、夕食用に考えていたメニューをそのまま昼食用に転ずることにした。
したがって、これまであまり例のない、お昼に一汁二菜という事態に立ち至ったわけである。
で、お昼にできた一汁二菜が次である。
一つ目が、筍の炊き込みご飯。2つ目が塩サバの南蛮漬け。3つ目が我が家で取れたとりたての椎茸のおすましである。
参考にした、炊き込みご飯のレシピは こちら→
たけのこ以外の具材は、在庫の関係で少し変わったが、炊き込みご飯の作り方はそのままを踏襲した。初めて作った炊き込みご飯であるが、お味はなかなか美味である。手間もそうかからない。
次の塩鯖の南蛮漬け。
これは少し以前一度作っている。 こちら→(2025/5/8)
レシピはこちらに載せているので、今回は割愛する。
これも簡単で美味。
三番目のおすまし。
これはKが”独自開発”した我流特別レシピである。
超安価、超簡単であるが、お味は、自分自身ではかなり美味しいと思っている。
今日ここではご披露できないが、おってご紹介する場面があるかもしれない。
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2025年5月15日(木) ラベル515 |
ホセ・ムヒカ 元ウルグアイ大統領死去 |
ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領が13日なくなったという。
NHKは昨日の朝のニュースで報道し、
読売は今日の社会面に載せている。
「世界で最も貧しい大統領」と言われ、その精神の高邁さに心を奪われた人も多い、とされる。
Kもそのうちの一人で、小欄でも何度か取り上げた。
こちら→(2016/4/7)
こちら→(2017/12/17)
こちら→(2020/10/23)
限られた報道を通じて遠望するだけの人ではあったが、その心の持ちようには、東洋的な匂いも感ぜられ、いわば南米の良寛さんと言っても良い。
享年89歳と言う。丁度よい死にどき。
大往生である。
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2025年5月14日(水) |
雑木類の枝焼き |
一年に1回程度の頻度で、不定期で行っている枝焼きの作業を行った。
直近の作業では、横庭にあった木斛の剪定 こちら→(2025/4/26) とか
椎茸の榾木を作成したときに発生した余分の枝など こちら→(2025/4/5) を
仮置きしていて、それらが溜まってくると焼却処分をするという作業になる。
ちなみに、前回行った作業日を探し出してみたら、思いのほか最近で、昨年の8月に実施していた。
こちら→(2024/8/24)
作業は早朝から行うのが原則。
周辺は朝露で草などが濡れていて、万一火の粉が飛んでも着火しにくい。
さらには、朝のうちは風が吹かない、というのが大きな理由である。
今朝は5時半前から作業を始めた。
火の用心も兼ねて、必ず誰か一人は残る必要があり、朝食は現地で食べるのが、これも我が家のルール。焼けた灰の中で焼き芋を作るのも定番である。
遅くなれば、午前中一杯はかかると踏んで始めた作業であったが、思いのほか早く終了し、8時半すぎにはあらかたの作業を終えることができた。
KM間で、「周りが緑になれば実行しよう」と呼びかけ合っていた作業で、作業が終わって少々安堵である。
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2025年5月13日(火) ラベル513 |
私の履歴書 大学時代 その4 卒業論文 |
私の履歴書シリーズその20である。 前回は こちら→(2025/5/10)
今回は卒業論文の作成について触れる。
九州工大における卒業論文の作成は、大学4年生になって始まる。
「その1」で示した「授業時間割」で確認すると、 こちら→(2025/4/28)
4年生の前期は、講義半分、卒業論文半分の割り当てになっているが、後期はほぼ全時間が卒業論文に割り当てられている。
大学生活においては、もっとも大きなイベントといってよいのであろう。
卒業論文に着手する前には、ひと悶着ある。
何かと言えば、どの先生の指導を受けるかという話である。
金属工学科の内容を分けると、鉱石から金属を抽出する精錬の分野と、抽出された金属を変形して何かの用途に使える形にする加工の分野、の二つに大きく別れる。
それら二つは、学科の分野で分けると、前者は化学の分野に近く、後者は物理の分野に近い。
私は、高等学校時代から、化学より物理の方が好みが強く、後者の分野から先生を選ぶことにした。 一方先生方にあっても、人気の先生と、そうでもない先生とがおられて、希望が集中する場合もある。
最終的には、学校側からどの先生に付くかは指定されることになる。
私はほぼ希望通り、大和田野先生の指導をいただくことになった。同じ教室に入った者は5名である。
私に与えられた研究テーマは「鋳鋼の凝固組織」と言うもので、砂で出来た鋳型の中に、溶かした鋳鋼を流し入れ、金属の成分や冷却の条件を変えて、金属が固まるときや、その後の熱処理によってできる結晶構造の変化を調べるという内容のものであった。
当時の雰囲気を伝える写真が残っている。
もう一つ、研究結果を示す、200枚を超える写真が残っていた。 そのうち4枚だけを抜出し載せてみる。
鋳込んだサンプルを切断し、切断面を研磨したのち、腐食液と呼ぶ液体で鏡面を腐食させ、腐食によって出る凹凸模様を顕微鏡で拡大し、写真に撮ったというもの。
もはや写真の内容を説明する能力は失っていて、具体的な写真の意味は説明できない。
実験の条件を変え、結果として現れるこれらの模様の、形状や大きさがどう変化するのかを系統的に調べていったものと思われる。
各人の研究成果を発表する場が設けられ(たようで)、その要旨集が残っていた。
第一次発表が1967年9月14日。第2次発表が12月11日。そして最終の発表が1968年3月1日と2日の2日に亘って行われている。
始めの2回は発表時間が一人10分となっているが、最終発表は一人30分とある。30分発表しようとすると、結構ボリュームのある発表になったはずである。
要旨集には、もちろん私のものも入っていて、そのうち第一次と最終回ものについて、最初のページのみ抜き出せば次のようなものであった。
今当時のことを振り返ってみると、結構夢中になって取り組んだ記憶も残っている。
研究調査の各段階においては、先人たちがそれまでに発表した論文を参考にすることも多い。
研究の初期段階においては、参考にする文献も多くあって、それらを参考にしながら調査を進めていくのだが、次第に参考にする文献が減ってきて、ついには、参考文献がほとんど見つからないという状況に陥ったことがある。
錯覚かもしれないが、先人たちの到達していない新たなる領域に、自分が入って来たような気がして、妙な達成感を覚えたのであった。
ともかく卒業論文を提出し、全ての学業を終えることになる。
個々の授業の内容など、今やすべてきれいに忘れ去っているが、物事を調べる能力だけは、この4年間を通じて身についたと思っている。
それが後年になって、何事か習得する折りに、誰かに教えを請うのでなく、独学で学ぶという態度に通じているのかもしれない。
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2025年5月12日(月) |
モミジ苗木の仮植え |
少し以前、横庭に生えた木斛の剪定を行ったが、 こちら→(2025/4/26)
その結果周辺に余裕ができ、Mはあたりを整備しようとしているらしい。
この時Mが見つけたのが、自生したモミジの幼木。
近くにはモミジの大木か何本か生えていて、実が落ち、芽が出て大きくなったものであった。
「周りの草刈りをするので、必要なら抜いておいて」とMから声がかかり、覗いてみると苗木になりそうなものが何本もある。
スコップを取りに帰り、10本あまり引き抜いて苗木にすることにした。
植える先の心づもりはあるのだが、今は少し事情があって、すぐに植えることができない。
一旦仮植えし、時期を待つことにした。
仮植えする場所は「二の畑」の隅。
仮植えとは言え、用心のためペットボトルに水を用意しての植え付けである。
30分かからずに完了した。
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2025年5月11日(日) |
タイヤがパンク |
今日Kが生まれた矢上地区に出向く用事があって、M共々車で出かけたのであるが、その帰り道での出来事である。
井原という地区に差しかかった時、急にハンドルが揺れるような感じを受けた。
たまたま場所が「雲井の里」と名づけられた小型の道の駅のような施設の手前であったので、その店に急いで入りタイヤを確認した。
案の定パンクである。パンクしたのは運転側の後ろのタイヤ。
一瞬呆然としたが、対応を考えることにする。
この車に予備タイヤが積んであったのか考えるが定かでない。後ろのトランクを開けて中を確認するが予備タイヤのようなものは見当たらない。
ならばどうするかと思案に暮れている時に、「雲井の里の」すぐ近くにガソリンスタンドが建っているのが目に入った。
ガソリンスタンドに行って修理を頼むことにする。距離にして100m程度。
ゆっくり走りながらスタンドにたどり着いて修理を頼んだ。
店員さん(オーナー?)らしい人が2人いて対応してくれる。ガソリンスタンドは無人給油方式になっていて、給油の人が訪ねてきても店員さんは対応する必要がない。
2人して我々のタイヤ修理にあたってもらえた。
聞くと、最近はパンクが少なくなり、予備タイヤを搭載している車はほとんどないと言う。
タイヤを車から外して、最初に行う作業が、空気が漏れる部分の探し出し。
漏れる個所は丁度タイヤの角の部分であった。
漏れる個所が平らな場所であれば修理もしやすく修理後の寿命も長いが、角の部分は修理も難しく、修理後の寿命も短いらしい。
一度修理して漏れ確認を行うと、やはり漏れる。再びバラシて再修理などの手間がかかって、ほぼ30分を要してようやく修理してもらった。
修理代は2200円。思ったよりは安い。
不幸にしてパンクという事態に遭遇したが、パンク発生した場所は誠に幸運な場所であった。
もしガソリンスタンドの近くでなかったら、結局JAFを呼んだりなど、大騒ぎするところであったろう。
帰り際、スタンドの店員さんから、「早めにタイヤは新品に交換した方が良いと思います」とのアドバイスを受けた。今日は日曜日、来週には早々に手配したいと思っている。
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2025年5月10日(土) ラベル510 |
私の履歴書 大学時代 その3 住と食(後編) |
私の履歴書シリーズその19である。 前回は こちら→(2025/5/9)
昨日の続きで住と食のことに触れる。
寄宿先のことでもう少し記してみたいことはあるのだが、ページが新たになったこともあり、食のことについて先に触れてみる。
九州工大は、創立時は全寮制であったため、寮の設備は完備していた、寮は6棟あって、一部屋10人が定員である。1棟あたり何部屋あったかは記憶が定かでないが、仮に10部屋あったとすると、1棟当たり100人、寮生全体では600人となる。この寮生を賄うための食堂であるから食堂の規模も完備していた。
我々が入学した時には全寮制は廃止されていたが、食堂の余裕があった性もあるかもしれないが、「寄食生」という独特な制度があって、寮生以外の学生にも食堂の利用が許されていたのである。
前もって食券を買い求めておけば、寮生と同じ一日100円で、土日関係なく食事ができた。
この一日100円の中に、朝食が含まれていたかどうかが、今のところ記憶がないのである。
日曜日など授業のない日は、自転車に乗って、わざわざ食堂まで食べに通っていた。
そんなこともあり、食事で苦労したという記憶はほとんど残っていない。
食事の内容も美味しかったものと思われるが、一番記憶に残っている料理は鯨肉の竜田揚げである。それまで食べたことがなかったので、美味しいものだという記憶が残っている。
もちろん、寄宿先の流しを使って自炊で食べ物を作り、飲み食いしたことも少なくはないが、基本的な部分で食べ物に対する心配がなく日が過ごせたのは、大学生活を維持する上で誠にありがたい事情であった。
食の話は以上を以て終わりとし、もう一度、寄宿先のことに話を戻すことにする。
寄宿先の家族構成に付いては昨日触れ、家族5人と記載したが、その家族のおよその年齢は次となる。
寄宿を始めた、Kが大学1年、すなわち昭和39年をベースにして考えると、長女が高校3年生の18歳、次女が高校1年生の16歳、そして末っ子の長男が小学5年の10歳であったと思われる。
両親の年齢は分からぬが、長女の年齢から推定して40代半ばから50歳直前の年代と思われる。
寄宿を始めた最初の1年目は、お互い素性がわからぬこともあって、あまり深い付き合いはなかったと記憶する。
2年目になり、寄宿の相手がI・T君になった頃から、寄宿先家族との交流が始まったのであろう。寄宿先家族と一緒に映った写真が出始める。
特に息子とのものが多い。
さらに時が進んで、大学三年次、I・T君が寄宿先を出て、私一人が残ることになった以降はさらに家族全体と一緒に写った写真も出始める。
お互い気心が知れ、セミ家族のような関係が出来上がった感じである。
話が少し転ずるが、大学2年の時アルバイトで他の家の家庭教師を行っていたら、3年次のときになり、どうせするなら我が家の子を見てくれと頼まれて、3年次のときは、高3になった次女を、私が大学4年生の時は中1になった長男の、家庭教師をすることになった。
頭の良い家系で、その前年に長女は九大の文学部に主席で入学した程で、家庭教師としてあまり教えることはなく、次女や長男とも、雑談で時を過ごしていたような記憶がある。
家庭教師の休憩時用に、苺に牛乳をかけ、砂糖を入れたものをしばしば出してくれた。苺をつぶしながら食べるのであるが、生まれて初めて食べる経験で、ひどく美味しいと感激した記憶が残っている。
特別な日でない普段の夕食に、声をかけ、誘ってもらったことが何度もある。
田舎で食べたことのない、そして寮の食堂でも出てこない、都会のサラリーマンの夕食であった。
それらの中で一番記憶に残っているのが、筑前煮。
鶏肉の入った煮物などそれまでに食べた経験がなく、誠に美味しいものだと、これまた強く記憶に残っている。
そのような数々の思い出を残す、3年半の寄宿生活であった。
卒業を迎え、田舎に帰る日には、戸畑駅まで家族全員で送りに出てくれた。
今もあるかどうかわからないが、駅舎の壁にレリーフの飾りがあり、「このレリーフを見るのも今日が最後か」と、強く思った印象が、今でも残っている。
高校時代に比べ、華やかさの少ない大学生活で、思い返せばモノクロ写真のように色の少ない思い出であるが、その中にあって、寄宿先で出逢った出来事のみがカラー写真のように色づいて見え、この3年半の寄宿生活が私の青春であったのだ、と懐かしく思い返すわけである。
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2025年5月9日(金) ラベル509 |
私の履歴書 大学時代 その3 住と食(前編) |
私の履歴書シリーズその18である。 前回は こちら→(2025/5/6)
今回は主として住まいと食事のことについて触れる。
大学時代の「その1」を書いた折り、 こちら→(2025/4/28)
学校の周辺に知り合いはなく、当然のこととして学生寮に入ったと記載した。
その寮は、建物としては上下1階と2階に分かれるという特殊な構造を取っているが、人間的には上級生と下級生との階層的な区別はほとんどなく、自由に運営されていて、特段の不満を覚えることなく推移していたのである。
そんな折、夏休みを終えて間もない頃と記憶するが、金属工学科1年の同級生で親しくなったI・A君から、寄宿先で良いのがあるのだが、一緒に行かないかという誘い話を受けた。
I・A君の父親は福岡市の市役所に勤めている人で、一方、その父親の知り合いで、北九州市の市役所に勤めている人が、学校の近所に住んでいて、その人から空いている別棟があるので、貸してあげてもよいという話が出たのだという。
学校から遠くない場所に家があり、これで儲けるつもりはないので安くしておく。しかも2部屋あり、個別に住めるらしい。
またとない条件なので、I・A君ともども寮を出て移り住むことにした。
寄宿先となる家は、大学から徒歩15分の場所にあり、地名は天籟寺という。車も走る太い道路を挟んだ反対側は天籟寺小学校という学校が建っていた。
道路に面した門扉を開けて敷地の中に入ると、右側に母屋が建ち、左側に別棟が建つという構成である。
家族構成は、市役所に勤めるご主人、専業主婦の奥さん、そして上に姉と妹、末っ子の長男という5人であった。
我々が入居することになる別棟は、道路側から奥に向かう方向で三つに仕切られ、最初が部屋、中央部が物置、さらにその奥に部屋という構造である。
それぞれの部屋には流しもついて、自炊ができる格好になっている。これは有難かった。
ただし、部屋の状態は「前」と「奥」とではかなり違い、「前」の部屋はそれなりに綺麗であったが、「奥」の部屋は少々くたびれていた。
紹介してくれたI・A君が、状態の良い「前」の部屋に入居し、状態の悪い「奥」側の部屋にKが入居することになる。これは致し方ない。
部屋代も異なり、前が月1000円、奥が月500円であったと記憶する(記憶はかなり曖昧)。
ただしこの状態は長く続かなかった。一緒に入居したI・A君が、部屋を出て、別の場所に移り住むことになる。経緯のことは全く憶えていない。時期は、1年生が終わる昭和40年の3月ころであったと思われる。
「前」のきれいな部屋があいたので、大家の了解を得てKが前の部屋に移り住んだ。
結果として、「奥」の部屋が空くので、これまた大家の了解を得て、寮で同室であった機械科の同年生I・T君に声をかけると入居するという。2年生になった4月であったと思うが、I・T君が同じ棟に入居してきた。
この状態はほぼ1年間継続した。
しかし2年生の末になった時点で、I・T君がこの部屋を出ることになる。
以後「奥」の部屋に人が住むことはなかった。
「前」の部屋にKのみが住むという状態が、卒業の時点まで2年間続くことになる。
以上の経緯を経て、Kはこの家に3年半お世話になった。
時間が長いだけに、それなりに逸話が生じたりなどするが、今日のところは、それを説明する紙面的余裕がない。
それらを含めた続きは、後日のことにする。
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2025年5月8日(木) ラベル508 |
塩サバの南蛮漬け |
ネタ切れの時の一汁二菜シリーズである。
生協とは別のルートで塩サバを入手する方法があったらしい。ただいま冷凍庫に塩サバがかなり大量に保存されている。
塩鯖といえば、焼いて食べるか、“チシャもみ”にするかが定番であるが、少し目先の変わった食べ方は無いかと探し出し、見つけたレシピである。
塩サバの南蛮漬け。
レシピは こちら→
塩サバを酒に浸したのち、焼いて南蛮漬けにするというもの。
そう難しくはないが、さっぱりしてなかなか美味しい味である。
もう一品は、茹でた菜の花が、これも冷凍庫にあったので、戻して白和えにした。
白和えの方法は、藤井恵さんのレシピ。
こちら→
キュウリを菜の花に変えてみた。
こちらも簡単であるが、味は悪くない。
写真はないがもう一つの汁。我が家で採れた原木シイタケが、これも冷凍保存してあり、これで椎茸の“おすまし”を作った。
レシピはなく我流である。
春を冷凍して保存しておいた、初夏の一汁二菜となった。
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2025年5月7日(水) |
眼瞼下垂(がんけんかすい) |
4月1日、眼科に行ったと記述している。 こちら→(2025/4/1)
左目の視野、特に上方向の視野が狭いので見てもらいに行ったのだが、目に異常はなく、視野が狭い原因は瞼が少し下がっているためと説明を受け、私なりには、とりあえずはこのままで過ごすと結論付けていた。
結論を出した以上、その後はあまり気にせず普段通りで生活をしていたのだが、およそ1週間前のことMが話しかけてきた。
Mがネットで調べたらしいのだが、私の目の症状には「眼瞼下垂(がんけんかすい)という病名がちゃんとあり、治療の方法もあるという。
治療の方法は大きく分けて二つあり、一つは手術。もう一つは医療用テープでまぶたを吊り上げるという方法らしい。
「調べてみたら」と勧められたので、探し出してみた。
眼瞼下垂の病状について こちら→
医療用テープの使いかたについて こちら→
手術はかなり難しいともあり、今のところ受ける気は無いが、テープによる吊り上げの方法は安易なもの、ダメ元で試してみようかと思い始めた。
手近なものを探すと、バンドエイドがある。
普段から肌色に近いものをかい求めていて、バンドエイドの両端の綿が貼り付けて無い部分が使えそう。この部分を4〜5mmの幅に切って使ってみることにした。
最初は貼るのにかなり苦労する。
しかしうまく貼り付けられた後の結果は、思いのほかかなり良い。
瞼が上がり上方の視野は正常に広がる。貼る前は、まばたきができるかと訝しんだが、貼って後まばたきをしてみると、わずかな違和感はあるものの問題ないといってよい。
少し時間が経つと、その違和感も消えていた。
試し始めて今日で4・5日目になるが、そのまま続けている。
風呂に入ると、さすがにテープがはげ落ちるので貼り直す必要があるが、洗顔のときは注意をして行い、はがれないように気を使う。したがって丸一日は充分に持つ。
近づいてしげしげと見ると、テープが貼ってあるのがわかるが、少し離れるとほとんどわからない。
今日はサロン田屋の日で、テープを貼って出かけたが、テープの存在に気がつい人は誰もいなかったと思われる。
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2025年5月6日(火) ラベル506 |
私の履歴書 大学時代 その2 課外活動 |
私の履歴書シリーズその17である。 前回は こちら→(2025/4/28)
今回は勉強以外の課外活動全般について述べるつもりであるが、その前に、この大学シリーズをどのような資料をもとに記述しているかを示してみる。
本来なら前回示しておくべき資料であったが、致し方ない。次善の策として、ここで示す。
写真類が2種類。一つが卒業記念に大学が贈ってくれたもので、アルバムになっていて、学校の全景や学長の顔写真、教授連の個人別写真、さらに金属工学科同窓生の顔写真などからなっている。
もう一つが未整理の写真。個人的に撮った写真である。小さな小箱に入っていて、2〜300枚はあろう。
次が資料類。2冊のアルバム形式になっていて、一つが書簡の類。学校などからの通知書類や、祝電などもこのアルバムに保管している。
もう一つが紙の小物類。食券や鉄道の乗車券、あるいは切手、コンサートの入場券などを貼っている。
本題に戻ろう。
勉強以外の課外活動の主なものについて触れてみる。
一般論として大学時代の課外活動を振り返ってみると、鮮明な思い出が少ない。
高校時代は、いろいろ楽しい場面が思い出され、高校生活を楽しんだという気持ちが強いのに対し、大学時代の思い出はかなり不鮮明である。
高校時代同様クラス替えのない学校生活であったのに、思い出が少ないのは、男性ばかりのクラスであったからとも思われる。
青春真っ只中の時代。男ばかりの生活では、気持ちは踊らない。記憶が不鮮明になるのは致し方ない事かもしれない。 大学生活を一言で総括すれば、他愛なく平凡に、可もなく不可もなく、課外生活を送ったということになるのかもしれない。
以下、具体的な動きを取り上げてみる。
最初に部活動。
入学すると部活各部から入部の勧誘があり、結果としてテニス部に入った。
その時の写真が1枚残っている。
写真を見ると軟式庭球部の文字があり、なぜ“軟式”に入ったのかは、思い出せない。
ただ入部の時期は長くはなかった。1年もせず退部して、以後は部活動はしていない。
次が運動会。
あまり具体的記憶がないのだが、写真等の資料が残っていた。
運動会のプログラムが残っている。昭和41年のもので第16回とある。これを見ると毎年行われた模様であり、昭和41年といえば、Kが3年生のときになるが、写真で見ると、集合写真に写る生徒の数は40〜50名で多くはない。
一体どういう形で行われたのであろうか、ほとんど思い出せない。
少なくとも2回は出場した写真が残っていた。
次が金属工学科同窓生(実験助手含む)と一緒に遊びに出かけた写真。
この種の写真は何枚もあるが、春夏秋冬が感じられる4枚を選んでみた。ぼちぼちカラー写真が一般化される時代でもあった。
次は合ハイ(合同ハイキング)の写真。女性と一緒に写る写真はこれのみである。
九工大から遠く無い場所に、筑紫女子短大という学校があり、そこの女学生と一緒に合ハイをした写真である。
ただ写真が残るのみ。その後何かが起こったということは、聞いた覚えがない
次が島根県人会の写真。島根県出身者で九州工大に入った者の集まりである。
およそ20名程度の学生が写っているが、石見地方から入学したものは自分一人で、残りはすべて出雲地方の出身者であった。
その中に加わっていただいたのが、松江出身の日本史の先生で名前を平野教授と言う。
後年は懇意にしていただいたが、単身赴任で家族は横浜に住み、普段先生は構内にある官舎に住んでおられた。
最後が一人旅である。
列車に乗って一人旅をした。国東半島をめぐり富貴寺や磨崖仏などを見て鹿児島に行き、桜島や開聞岳に登ったりなどした。
何時のことであったろうと散々調べたがわからず、最後になって桜島観光をした時の写真が出て、その写真の中に日付が載っていた。昭和40年10月17日とある。
昭和40年といえば大学2年生のときになる。
その後霧島連山を訪ねたのははっきりしているが、阿蘇を訪ねたかどうかは記憶がない。
貧乏学生ゆえ、原則は野宿であったが、3〜4泊はしたはずである。
帰省などで列車に乗ることはもちろんあったが、物見遊山の旅行は、ただ一度この時のみであった。
以上主だったものを拾い上げてみたが、せいぜいこんなものである。
課外活動としては、平凡でかつ平穏な動をしてきたといってよかろう。
世間では、全共闘を中心とする学園紛争が騒々しくなり始める時期であったが、九州工大の中では、そのような動きはほとんどなく、私自身にも、その気は全く起きなかった。
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2025年5月5日(月) |
綿毛は花より背を高く |
実は昨日の出来事。
晴れの良い天気で、午前中にウォーキングに出た。時間は10時過ぎである。
ウォーキング中、以前はスマホでラジオをよく聴いていたが、ここのところはほとんど聴かない。思いついて聴いてみようかと、久しぶりにラジオをつけてみた。
流れてきた番組は「子ども科学電話相談」という番組。小学生が中心になるが、子供達が不思議に思う出来事を電話をかけて専門の先生に質問し、その質問に対し、先生方が子供らと電話で会話をしながら答えていくと言う番組である。
夏休みなど長期休暇の時期に放送していると承知はしていたが、今の時期に放送とは、あまり知らなかった。連休中なので放送しているのかもしれない。
その中で、小学3年生の女の子が質問をしてきた。
質問の内容は「タンポポの花は黄色いのに、綿毛はなぜ色が白いのですか」という質問である。
これに対する先生の答えは、最初に「花と綿毛では役目が違うからです」と結論を述べてから、「花は実を作るため、花粉をハチや蝶々に運んでもらう必要がある。そのためには黄色い色をつけて目立つ必要がある。だからカロテノイドという物質を持って、黄色い花を咲かせている。
ところができた綿毛は、遠くに飛ばす必要があって、軽くなければならない。軽くするために実の成分はほとんど空気である。したがって色が白く見える。
タンポポは賢いよね。」という答えであった。
ここまでの話は、子供は別にして、大概の大人なら承知している事実である。
ところが先生の答えはここで終わらず「タンポポはもう一つ賢いことをしている」と説明を続けた。
その内容は、「タンポポは花から綿毛に変わる時、一度茎から倒れて、再び立ち上がるのだという。そしてそのときは、必ず茎をさらに伸ばして花より身を高くし、風に飛ばせやすくする」のだという。
この話は、80歳にして初めて聞く話であった。
丁度ウォーキング中である。
あたりを見回すとあちこちにタンポポが咲いている。今聞いた先生の話を確認してみた。
確かに花の高さに比べると綿毛の高さは倍前後あり、背が高い。
よく見ると茎が倒れているものもある。これまでの認識では、茎は枯れ、もはやこの茎は寿命が尽きたと思っていたが、これから立ち上がって綿毛になるのだという。
80歳して初めて知る、生命の神秘であった。
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2025年5月4日(日) |
矢上高校野球部 県大会優勝 |
本日の読売、島根版の記事。
高校野球春の県大会において、矢上高校が優勝したと報じている。扱う記事も大きく、紙面の1/4弱は占めている。
昨夕防災無線で放送があり、矢上高校野球部が県大会で優勝し、夕方学校に到着するので、できる方は歓迎に出向いてほしい旨の放送があり、優勝のことは一応承知はしていたが、新聞記事にて詳報を知るとやはり感慨が湧いてくる。
Kも在高時、活躍はしていないが野球部に在籍していた身であり、 こちら→(2025/4/7)
そういう意味では今回優勝した諸君の大先輩ではある。
Kの在部時は軟式野球で、しかも田舎の学校。なんとなく引け目を感じながら野球の試合に出向いた気がするが、今や硬式野球部に転じ、しかも優勝であるから、大変身といってよい。
詳しいことは承知せぬが、数年前監督が変わり、急に強くなってきたと言う。今や他県からも入部する人がかなりあるとも聞く。
春の大会は、残念ながら甲子園に結びつく直接の道は無いが、夏に向けて行われるシリーズでもぜひ優勝し甲子園へ出場してもらいたいものである。
かつて、だいぶん昔のことであるが、Mの母校になる新庄高校が夏の甲子園に出場したことがあり、Mが応援に行くというのでKも便乗して行ったことがある。 こちら→(2016/8/15)
その時も結構楽しんだが、しかしなんといっても他者の母校。
しかし今度甲子園となると、自分自身の母校である。是非とも応援に出かけ、冥途の土産にしたいものである。
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2025年5月3日(土) ラベル503 |
山は薄緑 |
4月24日、周辺の山は“山笑う”の状態であったが、 こちら→(2025/4/24)
それから10日近く経って、木々の色の濃さが増してきた。
「新緑」と形容するのが最もふさわしい時期である。
そんな中、午後のこと、ウォーキングに出た折り、ところどころで山の様子を写真に撮ってきた。
田圃は今が田植えの最盛期。代掻きが終わって水の張られた田圃も多く、山が逆さに写り込む場面もしばしばで、写真に面白みを加えてくれる。
我が家の背後に映る裾野の広い山は四反田山と言う。
周辺の山と繋がらない単独峰。
「八色石富士」と言っても良いくらいの、形の良い山である。
寒暖を繰り返しながらも、季節はいよいよ初夏。
心が華やぐ季節でもある。
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2025年5月2日(金) |
「あんぱん」 |
4月から始まった今回の朝ドラタイトルである。
今回は面白そう。
我が家では、朝ドラを生で見ることが無いではないが、大半は録画したものを見る。
次の写真はその中で、今日放送されたものから抜き出した。
今回のドラマは、漫画家である“やなせたかし”夫婦を描くもの。 夫になる“たかし”が、一浪後東京の大学に合格すると言う場面である。
前々回の「虎に翼」は面白く、全編を通してみ終えたが、 こちら→(2024/4/13)
前回の「おむすび」は全くダメだった。1・2週間も見ず、途中でやめている。
ドラマの面白さは、出演する俳優陣もちろんあるが、やはり脚本次第である。
今回のドラマの脚本の作者は中園ミホ。
中園ミホ氏の手になるこれまでのドラマは、朝ドラでは「花子とアン」、大河では「西郷どん」、そしてなんといっても有名なのが、「私失敗しないので」という決め台詞で名を馳せた「Doctor-X 外科医・大門未知子」がある。
いずれも成功したドラマとされる。
今回の「あんぱん」も、その仲間入りをするに違いない。
期待しながら、おそらく最後まで見ることになるであろう。
ドラマの人物相関図が載っていた。
この中でKの目を引くのが、2人の主人公役は別にして、松嶋菜々子、吉田鋼太郎、竹野内豊、二男役になる長沢元紀が良い。
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2025年5月1日(木) |
榾木用原木の落ち葉炊き |
4月4日に行った作業 こちら→(2025/4/4)
の続きの作業になる。
二の畑に下した枯れ草のうち、山野草側の枯草はこの間にMが畑に埋めたり、少しずつ焼いたりなどして始末していたが、榾木を取った後の落ち葉はそのままに土手沿いに残っていて、景観を害してしていた。
焼きたい気持ちは持っていたが、周辺は枯れ草で火事の心配があり、日延べをしていたものである。
ようやくここにきて、周辺は緑が広がってきた。火事の心配はなくなったと考えて焼くことにした。
ただし焼くのは早朝。朝露で周辺はまだ湿気ている時である。
落ち葉には昨夜からシートをかけておいた。
落ち葉の表面は乾燥してよく燃えるが、下積みになった個所はかなり湿気ている。
少しずつ乗せては焼けるのを待つという格好で、時間はかかりそうである。
待っている間は時間が余る。
何か仕事はないかと探してみると、二の畑の入り口周辺で吹き溜まりの形で落ち葉が溜まっている。こちらも焼くことにした。
合わせて火点は二つである。
しかしそのうち、入り口付近の落ち葉は燃え尽きる。
そうなるとまたしても時間が余る。
次に見いだした仕事は、すぐ脇にある欅台の草刈り。
草刈りの道具一式を取りに帰り、草刈りを始めた。
途中時々落ち葉の草焼きを見ると言う格好である。 草刈りに要した時間は1時間。
そうこうしているうちに、落ち葉焚きの作業も、ようやく終えることができた。
落ち葉炊きが終わったのは、始めてから3時間後のことである。
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