(写真をクリックすると、大きな写真が表示されます)

Kの散歩帖
里庭掲示板
2025年6月30日(月)
別棟 野芝株に散水 その2
昨日の続きになるが、今朝ウォーキング時に、昨日夕方野芝株に散水した結果を確認しに立寄ってみた。
結果は、まだ薄く湿気た色が残り、すぐには散水の必要がないようであった。

ただ、その時思ったことがある。
今回はたまたま散水が必要でなかったが、もし必要な状態なら、また家に戻り、準備をして出直すという状況に追い込まれる。
立ち寄ってみて、必要な時があれば、いつでも散水できる状況を作っておけばよい、と思いついたのであった。


我が家には4リッター入りの空ペットボトルがある。
避難時の飲料水保管用にも使っているが  こちら→(2025/2/16)
その他に、「農業用」と称して、雑木の移植時や野菜の苗の植え付け時などの散水用にも、このペットボトルを重宝して使っている。

この農業用のペットボトルの利用である。
数えたら12本あった。

昨日と同様山水を入れ、運搬車で運び込んだ。
運び込んだのは夕方である。

この時に見れば株の周辺は渇いていたので、運んだうちの2本で散水し、残りの10本を、脇の建物の軒下に、備蓄用として保存した。

これからは、立ち寄ってみて必要な時、いつでも散水ができる。



2025年6月29日(日)
別棟 野芝株に散水
一昨日の梅雨明けは記録的に早いものらしいが、我が方にとっても、大いなる誤算であった。

どこで誤算が起きたかと言うと、別棟に植えた野芝の株  こちら→(2025/6/25)
に対してである。

基本的な計画は、梅雨時に植え付け、根付くのを終えてから、夏を迎えようとしたのであるが、「開店休業」の影響もあって、植え付けるのが遅れた上に、梅雨明けが異常に早い。
これが誤算と言うわけである。

残る余地に株を植え増しするどころか、むしろ、植え終えた株を枯らさない事に、注力をせざるを得ない状況になってきた。

そこで取ったのが、山水を、4リッター入りのペットボトルに詰め、野芝の株に散水するという作戦である。


最初は、どの程度水を用意すればよいかが全く分からない。
とりあえず4本詰めて、現地に向かった。

散水してみると、水が染み込むのに時間がかかる。軽めに一度撒いて、さらにもう1回撒くのがよさそうである。

これで使った水の量が、ペットボトル2本。2本は残して、様子を見ることにした。


夕方日が落ちてから行ってみると、午前中1回目で撒いた水はすっかり干上がっている。残したペットボトル2本を散水して、今後の様子を見ることにした。



2025年6月28日(土)
早朝ウォーキング
昨日梅雨明け。今日も、「梅雨明け十日」の言われのごとく快晴の良い天気。
例年にない長い夏を過ごさねばならない。

そんな折、今朝思いついて、ウォーキングにあてる時間を変更する事にした。

これまでは、小欄の投稿など、朝の一連の事務作業を終えたのちは、新聞を取りに出て戻り、およそ1時間前後をかけて新聞を読むのが習わしであった。

この新聞を読む時間を、ウォーキングに充てようとする変更である。

これまでウォーキングは、一日のうちの空き時間を見つけて出かけていて、暑い午後などは、今日は「熱中症予防で休もう」などと理由をつけて、ウォーキングを止めることがないでもなかった。

新聞は、場合によれば、「避暑室」 こちら→(2025/6/17)
で読んでも良いわけで、新聞よりウォーキングを優先しようと言う思いつきである。


その変更をした初日に当たる今朝、ウォーキング時に撮った写真である。
時間は6時半前から7時過ぎまで。

ウォーキングは、冷やりとした空気の中でのものになり、なかなか気分が良いものであった。



2025年6月27日(金)
梅雨明け
今日気象庁は、西日本は「梅雨明けしたとみられる」と発表した。例年に比べ22日早い梅雨明けという。
4・5日前は、梅雨明けは7月になってからと言っていたので、急転直下の梅雨明けとなった。

当地では、春先に刈る草刈りのことを「一番草を刈る」と表現するらしいが、これまでは、その「一番草刈り」。
これからは「夏草刈り」に突入である。
時期はこれから、8月下旬の「秋じまい」が始まるまで。
主だったところを、もう一度草刈りすることになる。

とりあえず今日は、「一の坂」周辺を刈ることにした。

通常、一の坂は自走式の草刈り機を使うのであるが、 こちら→(2024/7/9)
若干迷った挙句、紐の草刈り機で刈ることにした。

自走式の場合、事後の草集めが必須となるが、紐の場合は草集めを無視することができる、という理由もある。


草刈りをした場所は、「一の坂」、「一の坂脇」、「栗の木ベンチ」の3ヶ個所で、要した時間は、休み休みで行って1.5時間であった。


梅雨明けしたといっても、気温は低めで30度を僅かに越した程度。湿気は少なく、梅雨時の草刈りに比べ、むしろ爽快であった。



2025年6月26日(木) ラベル626
本日休刊
本日都合あって、休刊します。
2025年6月25日(水)
別棟 真砂土個所に野芝株を植える
本日から屋外作業を再開した。
今は梅雨時。再開第一号の仕事として選んだのが、別棟に野芝の株を植える作業である。

この作業は、昨秋から、その時期その時期に応じた作業を行っているもので、関連する記事を小欄に、直近で載せたのは、6月7日であった。 こちら→(2025/6/7)

その後当地は6月9日に梅雨入りし、本格的に株植え作業に入ろうとして、目土用の真砂土を6月16日に運び入れところで、このたびの開店休業の状況になった次第である。


さて、今日の作業は


野芝が生えている場所は、ウォーキング時に目星がつけてある。
その場所に行き、採取する。
どうせ1回では終わらないので、頃合いのところで終わりにし、現地に向かうことにした。

鍬で土を少し掘り、その中に野芝の株を置き、周りの土を寄せ、目土の真砂土を被せ、水を施し、踏み固めるという作業になる。
周辺に草が生え、植えた場所がわからなくなる可能性があるので、目印に、スレートの破片を株の脇に置くことにした。


作業終了後、植え終えた株の数を数えたら、18株であった。
これで予定の面積の半分近くはある。
次回頑張れば、もう1回で終了するかもしれないが、余裕をみて、おそらく、もう2回植えることになると思われる。



2025年6月24日(火)
ぼちぼち再開
土曜日に受けた“百日咳”の検査結果が出たと連絡があり、今日クリニックに行って結果を聞いてきた。

結果は「白」であった。


もともと違和感を感じ始めたのは、先週水曜日の午後からである。

当日は、サロン田屋が開催された日で、それに出席し、帰ってからの話。
のどが痛くなり、多少咳も出る。熱はない。
当日のサロン田屋を“百日咳”を理由に休んだ人もいて、自分もかかったかと疑ったが、もはや致し方なく、その日は市販薬の風邪薬を飲んで過ごすことにした。

翌日の木曜日はさらに痛みが増す。
近郊のクリニックに行き、百日咳の検査を頼んだが、医者の話では、
「百日咳は、すぐには検査にひかからない。2・3日経って、まだ痛いようならその時検査をしましょう」
とのこと。その日は喉の痛みを軽減する薬が出て帰ってきた。

その後も状況は改善しない。
土曜日になって、クリニックに電話を掛けると、「検査をしましょう。来てください」との返事があり、検査を受けたという経緯で、冒頭の話に繋がるわけである。


今日クリックで検査結果を聞いた折り、医者に
「百日咳でないなら、今回の喉の痛みや咳の症状は何が原因かと」尋ねてみたが、
医者からは「風邪かも・・・」と言いつつ、明確な回答は出なかった。

これまでは、風邪の症状が出ても、うがいをしてビタミンCと市販薬の風薬を飲めば一両日で治っていた。それが今回は、1週間でも完璧ではないのである。

これが「加齢」というものかもしれないと、諦めることにした。


ともかく、人様に迷惑をかけることは無いと確認できたので、1週間続けてきた開店休業の状態を取り下げ、ぼちぼち普段の日常に戻ろうかと思い始めている。



2025年6月21日(土)
本日休刊
依然として体調が悪く本日休刊とします。

当分の間、休刊が続くと言うことになるかもしれません。


2025年6月20日(金) ラベル620
私の履歴書 鋳造課勤務 試験研究担当 後編
私の履歴書シリーズその25である。 前回は こちら→(2025/6/14)

前回は試験研究担当としての前半部分について触れ、小野田賞を受賞したという、昭和48年前後までのことについて記述した。
ここでは、試験研究担当時代の後編として、昭和48年前後から昭和50年前後までの期間のことについて記述する。

本題に入る前に、今後の理解を容易にするため、この間に実行された職務体制の変更について簡単に触れる。
三井金属に入社した昭和43年当時は こちら→(2025/6/9)
上司は、国安鋳造課長、松谷企画委員と記載しているが、昭和45年4月を持って、国安さんは製造部長兼鋳造課長となられ、そして松谷さんが企画委員から鋳造課長代理に昇格されていて、鋳造課の、特に現場の具体的な差配は松谷さんが指揮を取られる体制に変わっている。

したがって、業務の中で「研究的な要素の多い業務」に関しては、結果は松谷課長に報告は上げるものの、指示などは国安部長から直接降りてくるという場面が生じたりなどもした。

さて本題の試験研究担当の話にもどす。

主たる業務は前半で述べて来た事項と基本的には変わらない。
しかし、それに加えて、少し得別な業務が加わってきた。
具体的に言うと、国安さんを工学博士に推挙しようという動きである。

当時ダイカスト業界内に博士号を持つ人が、他社の方で2,3名おられたが、三井金属関係では誰もいない。三井金属からも誰か博士をという声が上がり、そして国安さんに白羽の矢が当たったと思われる。
本店およびダイカスト事業部を挙げての全社的な動きであった。

国安さんは、東京大学工学部冶金学科を卒業、その後同大学理学部物理学科の修士課程を終えられた方で、三井金属が亜鉛ダイカストの研究を始めた当初からダイカスト事業に携わっておられる。
推挙するにあたってこれ以上の人は無いわけである。

博士になるためには、大学院の博士課程を終了する方法(過程博士)と、大学院には通わず博士論文を提出し、審査に合格して博士号を得る(論文博士)の2通りがある。
その後者の方法で、博士号を取得しようとしたのであった。
論文の提出先は、東京大学工学部、千々岩教授と決まる。


その提出論文作成の、補助業務を担うというのが、新たに加わった仕事であった。

博士号取得のための提出論文には、過去に行った研究成果を示す論文を添付資料として提出する必要がある。その数は少なくとも2桁以上とのこと。
しかも、提添付資料として提出する論文は、正規の「学会」で発表し、学会に論文を投稿したものでなければならないらしい。
営利団体などの大会で発表した論文は、正規の論文として認められないのだという。
三井金属としてこれまで発表してきた技術論文は、主としてダイカスト協会が主催する研究発表会が主体で、これらを再度正規の学会で発表し直し、学会誌掲載論文としての実績作りが必要であった。
最初に行った作業が、過去に作成した論文を学会と称される組織に提出し、実績を作ることであった。
我々が、投稿する学会として選んだのが1、2の例外を除いて「日本鋳物協会」とした。

当時論文を投稿し、掲載された学会誌を今でも保存している(逸散したものがあると思われる)。


そしてその中に保管された論文名ほかのデータを整理し、一覧にしたのが右の表である。

昭和48年の春と秋の大会に論文発表を行ない、その結果をもとにして、論文を機関紙に投稿している。
動きとして激しいのは、昭和48年の初頭から昭和50年の初頭まで、およそ2年余りのことであった。


昭和48年秋の、金沢工業大学で行われた講演会に参加した時の写真が、我が家のアルバムに残っていた。
この時、一覧表では国安さんも論文発表をされる予定になっているが、写真に国安さんは写っておられず、一緒に同行したという記憶もないので、実際には私一人で3件分の論文発表を行った、とも思われる。


学会に論文を提出するという作業と、同時並行ではあるが、期間の後半は提出論文の記述が本格的になる。
提出論文そのものは、国安さんが自ら手書きで論文を書かれた。

この場合私の役目は、論文を記述するにあたって論文の内容を裏打ちする諸資料を集め、国安さんに提供することであった。
この関係を示す、国安さんからの書簡がこの度見つかった。


このような経緯をへて論文は完成した。

その、提出論文の写しが手元にある。


目次の個所のみ抜き出してみる。


300ページに上る大論文である。
残念ながら論文は通らず、博士号は実現しなかった。

国安さんは、その後昭和51年に本店に移られ、53歳の若さで鬼籍に入られた。
亡くなったあと、工場に残っていた国安さんの関連資料の整理を命じられて私がした。
膨大なものが残っていて、その中に、当該論文の生原稿と写しがあった。
生原稿は奥様に返す箱に入れ、写しをこっそり頂いた。

それが今、手元に残っている、所以である。

国安さんにまつわる別の出来事を、別稿に記載している。

 こちら→


かなり後年の、2003年8月のことであるが、Mと2人で車で九州旅行をしたことがある。
その帰り道、国安さんのお墓を訪ねることにした。山口県の防府市であった(と思われる)。
どうやって墓のあり場所を探し当てたのか全く記憶がないのだが、お墓は、海の見える少し小高い丘の上にあった。「国安家代々の墓」という文字が刻まれていた。




2025年6月19日(木)
本日休刊
体調が悪く近郊のクリニックに行ってきました。
外仕事も中断中。
本日休刊します。

2025年6月18日(水)
本日休刊
ネタ切れにて本日休館します。

ただし私の履歴書 最新号 こちら→(2025/6/14)
において、居住先の変更(昭和寮から望海荘へ)の記事を追加しております。

2025年6月17日(火) ラベル617
避暑室の開設
午前中は、月一恒例となっている近郊のドラッグストアに買い物に行ってきた。
そして午後である。

昨日までは雨模様。しかし今日は一転晴れ。
外仕事に出て草刈りをと考えたのだが、どうもその気が起きない。なんとなくフラフラするようで、その気にならないのである。

Mは不在。致し方なく台所でぶらぶらする。
やる気が起きない原因を考えたりなどもする。年の性か、などと。

そのうちに、暑さもあるかもと思い始めた。
とにかくこの2,3日はひどく暑い。しかも湿気が多い。
このじめじめした暑さに、体力を奪われているのかもと思い始めた。

ならばと、気を取り直して暑さ対策の作業をすることにする。
昨年から始めた避暑室の開設である。 こちら→(2024/6/14)


1階にあるクーラーを利用するもので、2階の自室からノートパソコンと図書館で借りた本一式を運び込み、また昼寝用に可搬式のベッドを利用するという方法である。

クーラーは今年初めて使う。試しにつけてみたが問題はない。
やはり快適である。

そのまましばらく居続けた。



2025年6月16日(月)
今日の一汁二菜
朝、当日の仕事の段取りをつけるとき、食事当番が昼か夜かはいつも確認する。
今日は夕食が当番であった。

天気予報を見ると午後からは雨となっている。ならばと午前中にウォーキングに出た。
途中コースの脇にハチクの筍が出る場所があって、目をやると頃合いの太さのものが1本出ている。この附近に出る筍は誰も取らないので、いつもいただいて帰ることにしている。
だししハチクの筍の時期ももはや最終盤。おそらく今日の一本が最後になろう。

ウォーキングが終わって家に帰ると、その足で畑に行ってみた。
食材探しである。

採って帰ったのはさやインゲンと春菊。
さやインゲンは今が盛り。少々大目に取ることにした。
一方春菊は終わりに近い。汁物に入れるつもりで、最低限の春菊を取ることができた。

午前中の作業はここまで。
この段階では、今日のメニューの品は未だ決まっていない。

午後になってメニューを決めることにした。
最初に中心になる料理を決めるのがKの手順。冷凍庫を確認すると鳥胸肉の塊がある。数日前、から揚げを作ったので、別の料理と思って頭を巡らし、閃いたのが照り焼き。
過去に何度か作っている。

今朝採ってきた材料で、残りのメニューを考える。
筍と春菊で味噌汁ができそう。となると残るサヤインゲンのレシピを探せばよいことになる。
レシピ集を開いて探し出したのが、湯がいたのちの和え物。

これでメニューとしては立派な一汁二菜が成り立った。


夕食つくりの実際は5時前から始めた。

作ってのち冷やしても良いので、最初に作ったのがインゲンの和え物。
参考レシピは こちら→
アレンジとして醤油の代わりにポン酢とゴマダレを入れた。あとはレシピ通り。

次に作ったのが筍と春菊の味噌汁。こちらは、参考レシピはない。我流である。
だしはイリコ。
ハチクの筍は下茹での必要はないとされるが、下ゆでした方がやはり苦みが少ないので、さやいんげんを湯がいた残りの湯で、軽く下湯でした。
筍と味噌汁で味を整えた後一旦中断。食べる直前に加熱して春菊を入れ、春菊が柔らかくなるのを待って食事に供した。

最後に、食事時に合わせて作ったのが鳥の照り焼き。参考にしたレシピは こちら→

原則レシピ通りで行うが、最後に奥の手を使うことがある。
最後に二つに切ったとき、もし肉の内部に火が通ってないときは、この時点で電子レンジにかける。
高くセットすれば肉が固くなる。
65度にセットして加熱すれば大概火は通る。実は、今回もその奥の手を使っている。

健康的で、おいしい一汁二菜ができたと自讃している。



2025年6月15日(日)
Mの実家の手伝い
本来は昨日予定されていたが、昨日は雨で今日に伸びたもの。
Mの実家の手伝いをした。
採蜜の作業である。


毎年この時期に行われるのが慣わしであるが、毎年は載せていない。

一昨年の記事で詳しく載せているので、 こちら→(2023/5/27)
今年は詳報を割愛する。



2025年6月14日(土) ラベル614
私の履歴書 鋳造課勤務 試験研究担当 前編
私の履歴書シリーズその24である。 前回は こちら→(2025/6/9)

昭和44年4月1日、1年間の実習期間を終え、いよいよ本番勤務である。
前回も触れた「鋳造課日誌」の4月1日付けには、上司から、「今後は諸事積極的に構成員として参加のこと。多いに発言し、それに伴う義務を負う覚悟をしてください」とのコメントが載っていた。

当時の私の立場を理解するための資料として、当時のダイカスト事業部職務級制度の表を載せてみる。


正規に印刷されたものを見つけることができなかったので、記憶に基づいて今回作成したものであるが、当たらずとも遠からずのはずである。

大卒と高卒では明らかに立場が異なっていた。
実習期間を終えたよく年には、高卒の人なら、早い人でも15年程度かかる企画員という職分に一気に任命されるのである。
そういう“気概を持て”というのが、上記上司のコメントの所以であった。


もう一つ今後の理解を深めるために、鋳造課の組織構成について触れてみる。

鋳造課の現場は三交代勤務であったことは以前も簡単にふれたが、その詳細を示す資料が残っていた。「交代番人員配役表」という。


今回出てきた資料は昭和54年のもので、私が配属された昭和44年からは少し時代が下っているが、機能は全く変更されていない。
一の方は勤務開始時間が7時、二の方のそれは15時、そして三の方は23時が勤務開始になる。
この表では、一方あたりの人員が32、3名となっているが、昭和44年当時はこの値が40名を超える数字であったと記憶する。
その他に「常一鋳造」として表示してある、昼間の勤務スタッフが15、6名。
さらに、この表に記載されていない事務所スタッフというメンバーが存在して、課長以下、現場業務とは少し離れた、事務業務や改善業務を推進する部署が存在していた。この事務所スタッフの人数が15名前後。
したがって合計すれば、昭和44年当時は150名程度、表にある昭和54年は125名程度の大所帯の組織であった。


当時鋳造課には、改善業務として、二つ大きな流れがあった。
一つは自動化や省力化を進めて、現場の人手を削減するという、いわゆるハード的な改善チームと、もう一つは、製造品質を上げたり、主要機器類の寿命を長くしたり、あるいは公害対策をするなどのソフト的な改善をするチームの二つで、自分の担当は後者のソフト的な改善業務にあたることになった。
この担当業務を一言で表現するときは「試験研究担当」と呼称されていた。


当時の写真が残っている。


上段左は事務所スタッフの居場所。昼休み時の写真と思われる。暖房用ストーブの煙突が写っているのが時代を偲ばせる。窓際に座っているのは国安課長と思われる。

右が当時の私。多くの大卒社員がネクタイを締めて業務に当たるのに対し、国安さんの教えで、接客時は別として、ネクタイを締めて業務に当たることはなかった。この習性は、退職時まで変わることなく続くことになる。一方、突然の来客用に、ネクタイやスーツなど一式を、個人用ロッカーに常備しておくのも習慣であった。

写真下段の左が、試験研究担当職務の相棒、K・Hさん。私より3年年長であったが、私の助手役になっていただいた。真面目で頭の良い方であった。
写真右は、ダイカストマシンの諸性能を測定するための器具類一式。
台車にセットされていて、試験時、あるいは問題発生時など、マシンサイドまで運び、鋳造機の諸性能を測定記録したものである。


試験研究担当の目的は、現場の改善をし、コスト低減を図ることにあるのだが、その成果をまとめて対外的に発表を行うようにもなってきた。


ここに示すものは、ダイカスト協会で発表した事例である。
(発表は原則上田が担当した)


一方この間に、スタッフ業務を一時離れ、ライン業務に従事したこともある。
交代現場のトップである作業副長に従事した。記憶では半年程度は就いた思っていたが、「鋳造課日誌」を読み返すと、昭和46年1月冒頭から4月3日までの、3ヶ月間であった。
この時、専任班長としてお世話になったのがK・Kさん。
K・Kさんについては、以前小欄で触れている。 こちら→(2019/6/23)

当初は戸惑うことも多かったらすぐに慣れ、三交代勤務も思いのほか楽しいものであった。
工場から歩いて5分くらいの場所に酒屋があり、三の方あけの早朝、皆で立ち飲みで痛飲したのもしばしばである。


この三交代業務を終えてから間もなくのこと、住む場所を変えている。
それまでは工場敷地内にある昭和寮と呼ぶ独身寮であったが、移った先は品川区大井町にある、望海荘と呼ぶ事業部専用で家族用に建てられた建物。4階建てであるが、その1階のみを独身者用に転用したものであった。
転用なので、襖で仕切られてはいるが3人が同居する構造になっている。
一緒に同居することになる、2人の相手は、一人は高卒ながら本店にある計数室に務め、IBM製の電算機を操作する技術者。もう一人は私より2年後に入社した大学院卒業生。勤務先はドアロック製作部という人になる。


昭和寮の場合、住人はほぼ全員が鋳造課に務める部下になる人たちで、それなりに気を使ったが、移った先の望海荘では、そのような配慮は一切いらない。
同居人3人で大いに青春を楽しんだ。

3人で、よく飲み食いなどをしたが、特に記憶に強く残るのは、徒歩で山の手線を一周した小旅行。
このことに付いては以前小欄で触れている。 こちら→(2019/3/31)
住いを変えた日は、日誌に基くと、昭和46年7月18日となっていた。


話を、試験研究担当の職務に戻すと、昭和47年にダイカスト協会で発表した「亜鉛ダイカスト合金の凝固特性に関する研究」が、ダイカスト協会で最も権威のある賞の小野田賞に推挙されることになった。
昭和47年の出来事。
この間の、経緯を示すファイルが残っていた。


ファイル冒頭には、国安さんの直筆で、経緯を本店を含む幹部に報告する書類が綴じられている。

研究報告書は昭和46年度分の小野田賞として扱われることになり、昭和47年に発行されたダイカスト協会の協会誌に掲載され、表彰状(該当者それぞれ充て)は、昭和48年1月の日付で頂いた。


研究報告書は、印刷されたもので59頁もある、かなりのボリュームのものである。



2025年6月13日(土)
サツキの剪定
6月8日に集落行事でサツキの下刈りをしたが、 こちら→(2025/6/8)
その時Kは、電動の剪定用バリカンを持ち出したので、その後続けて我が家のサツキ類の剪定をすることにした。
剪定の対象は町道沿いで横庭と呼ぶ場所と、欅台と呼ぶ場所の2ヶ所になる。


あまり無理をしないでという心づもりで取り組み、結果的には、4日かかった。時間は延べにして7.5時間である。

初日の9日が、入り口右側にある大きな塊。この場合Mの育てている草花が枝が落ちる直下にあるので、シートを敷いて、枝と草花が混じらないようにするなどの配慮をする。この日が所要時間は1.5時間。

10日はほぼ終日雨で中断。

翌11日には町道沿いに残るサツキ類で、町道から手が届く範囲の剪定をした。
この場合、踏台なしで手が届く範囲を一度刈り終え、次に脚立を持ってきて、側面から上面の剪定を行う、とういう2段構えで行った。
この日の所要時間は1.5時間。

12日は、少々無理をして、午前と午後も作業をした。

午前中は「ニの畑」に上がって、町道沿いの上面と後面の剪定。
そして「二の畑」に上がる脇に生えているサツキ類の剪定。この場所ではMが写真を撮ってくれた。
この場所で要した時間が、1.5時間。
午後は、場所を変えて欅台での剪定。ここの時間が1.5時間。

そして最後になる今日は、剪定した枝類の片付け。
枝類を運搬車に乗せて焼却場に運ぶ作業。町道沿いだけで満杯になり、欅台分は別便を仕立てた。
この片付け時間も1.5時間を要した。

毎年恒例の行事なので、やり終えると少々安堵する。



2025年6月12日(木)
再生 その後8
欅台と呼ぶ場所に、前住者が植えた大きな欅の木があるのだが、大きくなりすぎ、倒れて母屋の瓦を割る心配もあり、2015年にその枝落としをしたことがある。  こちら→

翌年は、枝を切り落とした欅に新たな枝が出始め、その枝の成長ぶりを「再生」と称して
、これまでに何度か小欄で紹介してきた。

取り上げた経緯が次である。
 こちら→(2016/5/19)
 こちら→(2017/5/18)
 こちら→(2018/8/15)
 こちら→(2019/7/7)
 こちら→(2020/11/1)
 こちら→(2021/3/30)
 こちら→(2023/3/21)


その後若干、間が空いたが、今日思い出して写真を撮ってきた。


全体を治めるため、少し下がって写真に撮っているが、前回に比べるとさらに大きくなっているように思われる。

過去の成長経過を定量的に測る方法は無いか、と思い始めている。



2025年6月11日(水)
哀れな 「父の日」
今日の読売に掲載された広告である。
忘れられがちな「父の日」を見事に表現していて、思わず笑ってしまった。
広告の主はユニクロ。


写真左が広告の全体。詳細が分かりづらいので、人の写真部分と広告の文字部を拡大して右に添えている。

5月の「母の日」は、よく話題に上るが、6月の「父の日」はほとんど無視される。いつが「父の日」かわからないほど。
調べてみたら6月の第3日曜日、今年は6月15日が「父の日」であった。

いつの時代も忘れられがちな、哀れな、「父の日」を見事に表現している。


今日はネタ切れ。
ネタ切れの日の常套手段は「一汁二菜」であるが、その一汁二菜も適当なものがない。致し方なく、思わず笑ってしまった新聞広告で、お茶を濁すことにした。



2025年6月10日(火)
梅雨時のウォーキング
気象台は昨日、中国地方が梅雨入りしたと発表した。
平年より3日遅く、去年と比べると11日早い梅雨入りらしい。

その中にあって当地は、昨日はほとんど雨が降らなかったが、今日は、朝は少し強めの雨。
ただ、午後になると雨が止んできた。

このような雨の時期は、かなり意識しないとウォーキングに出るチャンスを失ってしまう。

午後3時頃のこと、スマホで天気予報を確認すると、しばらくは雨が降らなさそう。
ウォーキングに出ることにした。


普段のウォーキングでは、ノルディックウオーキングのポールを片方のみ持って出るのだが、このような雨の時期は、ポールの代わりに傘を持つのが慣わし。

今日も傘持参で出かけたが、使うことはなかった。
周辺の山には雨上がりの雲がかかり、そして空は暗め。

田圃の稲は株が大きくなってきて、逆さの景色も写り辛くなってきた。



2025年6月9日(月)  ラベル609
私の履歴書 ダイカスト事業部配属
私の履歴書シリーズその23である。前回は こちら→(2025/5/31)

昭和43年に入社した、三井金属ダイカスト事業部は、平成26年(2014年)に三井金属(株)から分社独立し三井金属ダイガスト(株)となっている。同社のホームページから沿革を抜粋した。



もともとは亜鉛地金の販売が本業である三井金属が、その亜鉛地金の拡販手段の一つとして、亜鉛ダイカストの研究を目的とした会社を立ちあげたのが発端である。
昭和28年(1953年)に、昭和ダイカスト(株)と言う会社を立ち上げた。
しかし、その後狙いが次第に変貌し、宣伝用ではなく、ダイカスト事業そのものでも儲けようとなって、昭和37年(1962年)に直属の事業部に格上したのが「ダイカスト事業部」であった。

したがって我々が入社した昭和43年当時は、三井金属から出向した社員と昭和ダイカストで採用した社員とが混在する状況の事業態であった。

工場はドアロック製作部門が主体の大崎工場と亜鉛ダイカスト製造が主体の川崎工場の2工場があり、本体は川崎工場に存在していて、昭和43年4月、我々が出社したのは川崎工場である。

川崎工場の正門を写した写真が一枚残っていた。



出社したのは4月12日。
なぜ月日まで分かるかというと、それを示す資料が出てきた。
入社後1年間は「実習期間」と定められていたようで、その一年間を総括する「実習報告書」と名付けたファイルである。


ファイルの冒頭には、直属の上司である課長の、私を評価するコメントが添付されていた。
評価内容を一言で示せば、「概ね良好」と言うことになろう。
ファイルは事業部幹部に回覧されていて、検印が押してある。

実習報告書の目次と内容の一部を抜粋すれば次である。


この記述の先頭部分に、4月12日に鋳造課勤務の辞令を受けたと記していて、最初の出頭日が確認できたという経緯になる。


この報告書を読むと、4月から6月下旬までは、同時配属された4名一緒で各課を廻り実習をしていて、配属先である鋳造課での実習が始まったのは、6月24日となっていた。

配属先の鋳造棟と工場内のダイカストマシンが並んだ写真である。



職場は三交代で24時間、日曜日を除くフル操業の現場で、交代勤務に組み込まれて機械操作の実習をしたり、品質改良のための試験研究の実習をしたりなど、今後の勤務にあたっての初期指導を受けた。

この間毎日、鋳造課日誌を提出し、上司の検閲を受けている。
実習初日と実習後半部の記載の一部を抜き出してみた。


ここで青い検印を押しているのが当時直属の上司になる松谷企画員。赤い検印が当時のトップ、国安課長。
下の写真では、左が国安。右が、松谷。


飲んで乱れた写真は何枚もあるが、直立の写真を探すに苦労をした。

国安氏については後日別の項で触れる予定であるが、若くして53歳で亡くなられた。
一方、松谷氏は後にダイカスト事業部長になられ、現在もご健在、生涯お世話になり、年賀状のやりとりは今でも続いている。


この間に住む場所が変わっている。
最初に住んだのは西武新宿線沿いにある鷺ノ宮寮。三井金属に入社した同期のもので、入寮希望者が全員入居した。なかなか立派な寮で、正規の広さのテニス場が付設されていた。

移った先は、工場の敷地内。グランドを挟んで工場とは反対側に建てられた昭和寮である。三交代勤務者ように建てられた寮であるが、特別扱いで入寮させてもらった。
他の寮生は2階以上の部屋に一部屋2人で住んだが、私のみ1階の部屋で、一人独居の入居であった。


先の日誌によれば、7月15日に移ったと記している。



2025年6月8日(日) ラベル608
集落行事 サツキの下刈り
初夏の集落恒例行事、「サツキの下刈り」が行われた。
昨年は こちら→(2024/6/2)

昨年の参加者は15名。今年は12名。
昨年までは保養館周辺の他に龍岩神社の階段脇の除草も行っていたのだが、人数減少の影響で、集落長野判断により、龍岩保養館周辺のみの作業をすることになった。


この作業の時、Kはいつも剪定用の電動バリカンを持参することにしていて、上の広場に通じる坂道の両脇のサツキと、保養館建物前のサツキの剪定を担当している。

作業を始めたのが朝の8時。途中で休憩を挟み、終了したのが11時前。
ほぼ3時間の作業になった

今回参加した中ではKが最長老。他の人に迷惑をかけない程度には動くことができる、と思っている。
ありがたいことである。


少し余談になるが、平成20年(2008年)に、同じ作業で寄り集まった時の写真を別の項目で残していた。

 こちら→

17年前の写真になるが、女性の方も多く参加している。全員が写る場面が残ってないが、おそらく40名前後は集まっていたものと推測される。


今昔の感がある。



2025年6月7日(土) ラベル607
別棟 真砂土個所に除草剤を散布
昨秋別棟に真砂土を運んだ。運んだ真砂土の上に野芝の株を植えるという狙いである。
詳しくは真砂土を運んだ時に記載しているので、そちらを参照願いたい。
 こちら→(2024/11/29)

さて今年の春である。
時期が来たと思って、野芝の株を探すことにした。
野芝の株はウォーキングなどを行う道端の渕に生える。

4月ごろであろうか、探して歩いたが、未だ野芝の芽が出ておらずに探し出せない。

時が進んで5月になる。
道の端に野芝の株が見えるようになった。

いよいよ時期が来たと思い、植え先の現地を見に行くと、思わぬ事態が起きていた。
真砂土の上に雑草が出てきてほぼ緑一面。このまま野芝の株を植えても、株が負けると思い、事前に除草剤をまいて雑草を枯らすことにした。


最初に除草剤をまいたのが5月4日。
以後枯れる様子を時折見に行くと、通常の雑草は枯れ始めるが、スギナはなかなか枯れない。
スギナ殺しを目的に、2回目の除草剤を5月23日に撒いて、漸くスギナも大半枯れてきた。

ここまでくると、株が乾燥で枯れるのを防ぐため、植えるのは梅雨に入ってからと決めている。
その梅雨入りも近いと報道されていて、昨日当該場所の草刈りをした。


来週のどこかで、本番の株植えになろう。



2025年6月6日(金)
絵本作家 いわむらかずお
1週間程度前の話になるのだが、NHKのテレビを何気なく見ていると、「あの人に会いたい」という番組が流れていた。亡くなった著名人の足跡をたどる番組である。
放送している対象の人は、絵本作家の”いわむらかずお”という人。Kにとっては初めて承知する名前の人であった。

「14匹」シリーズの、ねずみの家族を描いた絵本を制作したことで有名な人らしい。
出てくる絵本の絵が、精緻であるが誠に優しい。
番組をもう一度見たいと考え、「いわむらかずお」と「14匹」の二つの言葉を備忘のためメモし、とりあえず見終えた。後刻、NHKプラスで探して見直そうと考えたわけである。

メモ紙は机の端において、そのことはすっかり忘れていた。

一両日経って、あるときそのメモ用紙が目に入り、「そうだ番組を探さなければ」と思い立った。
パソコンでNHKプラスを探してみると、5月31日の土曜日の朝放送している。パソコンで放映させ録画をしてみることにした。


東京芸大卒。若い時代家族で栃木県の益子町に移住し、そこで絵本を書き続けているという。
表情が誠に柔和。
昨年85歳で亡くなっている。


実際に絵本も見てみたいと思い立ち、図書館に行って借りてきた。


とりあえず2冊。
ぱらぱらとめくってはみたが、本気で読んではいない。
時間のある時、ゆっくり落ち着いて、読もうと思っている。



2025年6月5日(木)
山水確保用通路の笹刈り
今日は梅雨入りを前にした快晴の良い天気。

朝の心積もりでは、雨が降らない日の日常作業になっている紐用草刈り機での草刈りを行うことにしていたが、その紐の草刈り機をMが使いたいという。
ならば、ということで、丸刃の草刈り機の作業に内容を切り替えた。

作業内容は、何かと重宝して使っている山水を確保するための、メンテナンス通路の笹刈りである。
山水の取水口は、裏山(他人様の土地)にあり、200メートル前後は離れている。この取水口に至る通路に生える笹刈りである。

毎年1回は刈ることにしていて、刈る時期はいつもこの時期。笹が出そろった時期に刈ることにしている。


丸刃の草刈り機で刈りれば、そう難しい作業ではないが、それでも1時間余はかかる。

笹が伸び切る時期を待っていたので、これまでの、特に朝など、この場所を通ると足元が濡れていたが、これで容易く通ることができる。

少し以前から気にはなっていた作業で、終えることができ、若干ながら安堵というところである。



2025年6月4日(水)
「八色石方言集」 完成
ただいま集落の老人会で方言集作りを行っていて、その編集作業の任に当たっている。
この方言集作りに関しては過去2回、小欄で触れている。
 こちら→(2024/12/8)
 こちら→(2025/2/27)

その後も集める作業は継続しているのだが、いつも方言のメモを出してもらえるTさんが、この前の集まりの折り「かなり出尽くした」との発言があり、ここらで取り敢えず区切りとし、まとめて製本することにした。

今日はサロン田屋の日。
もともとこの方言集めは、サロン田屋の集まりで始まったものなので、この日に配れば良いと思い、昨日のうちに印刷と製本作業を終えて、今日の席上で参加者に配ったわけである。


これまでに集まった方言の数は、丁度300個。
それらの経緯を含めて、編集後記として冊子の最後に添えている。


配布後の会員の反応はよく、冊子を見返しながら、結構わいわいと話が弾んでいた。

私も再度見返したりなどする。
ところが異変に気がついた。
方言は“あいうえお順”に並べ替えているのだが、その最後あたりに載っているはずの用語が印刷されていないのである。
とりあえずその場では、配布済みの冊子を全て回収し、修正することとした。


当初は何が起きたのか、原因が分からなかったが、そのうちに思い当たる節もある。
この方言集は、今年の2月に公民館で行われた“ひな祭り”に途中経過をパネル展示しているのだが、そのために、それまでのデータを一度印刷している。
その際余分な情報を印刷しないため「印刷範囲の設定」を行っているのだが、今回印刷の時、この“範囲の設定のし直し”を行っていない。
ひな祭り以降追加した方言の印刷枠がなく、あいうえお順に並び替えた後半部分が印刷されないのだと思い当たった。
帰宅後パソコンを開いて確認してみると、推定した通りの状況になっていた。

致し方ない。製本のし直しである。
印刷範囲の再設定をして後半部分を印刷し、全てばらして、正規の状態に戻して製本し直した。


明朝、本日一度配布した会員宅へ正規本を持って行き、再度お渡しするつもりでいる。



2025年6月3日(火)
ヤマボウシの花の色 白からピンクへ
2階自室の窓にかかるカーテンを開けたとき、眼前で目に入るのがヤマボウシである。
今年も豊かな花をつけてくれた。

その花の色であるが、咲き始めの頃は白色であったはずなのに、この2,3日前からピンク色が加わり、そして今日見ると驚くほど色が濃くなっている(ような気がする)。


ただし、毎年この時期になると花をつけてくれるわけで、「あぁ今年も咲いてくれたな」という程度の感慨で、特段花の色の変化には注目していなかった。

したがって、初めからピンクが混じっていたのか、あるいは、初めは白でピンク色に変わったのか、がなんとなく不鮮明である。

改めて、確認してみようという気が起きてきて、
今年になって花が咲き始めた頃の写真が無いか探してみることにした。

あまり注目してなかっただけにちゃんとした写真はない。
探してみると、別の目的で撮った写真で、写真の後方にわずかにヤマボウシの花が写る写真が見つかった。


5月24日に撮影した写真で、中ほど左に半分ほどヤマボウシの花が写っている。

この写真で見る限り、花の色は白い。
どうやら最初は白で、次第にピンク色が増してきて、そしてここにきていよいよ濃くなったと考えてよさそうである。

事情に詳しい人なら常識の事柄であろうが、Kにとっては、初めての大いなる再確認であった。



2025年6月2日(月)
「生の」落語を聴いていた
今年になって、「私の履歴書」シリーズを小欄に掲載中である。
この場合、記事の根拠になる古い資料を持ち出して、読み直したりすることもしばしばある。
ただ今は、三井金属に入社した当時のことを掲載中で こちら→(2025/5/31)
当時の日記を持ち出して、読み直しているときに見つけた。

生の落語を聴きに行った時のパンフレットである。


昭和44年から46年にかけて、少なくとも3回は生の落語を聴きに出向いていた。
生で聴いている落語家の名前は、志ん朝、小さん、圓生、文楽ほかである。


私は寝ながら落語を聞くのが癖で、収録済みの落語をiPodに入れて聞いているのだが、聴く落語は、昨今の落語家のものではなく、昭和の時代の落語家の噺である。

これら集めた噺の経緯を別のところに載せている。  こちら→
この文の、冒頭部分に書いている「落語会」に行ったという証拠の品になる。

まさか、このような証拠の品が出てくるとわ思わず日記を読み返していたので、少々驚き、ここに載せてみた次第である。


また日記には、別の驚くべき品も残していた。
文楽の死を伝える新聞記事。日記の日付は昭和46年12月13日となっている。


落語絡みの話として、この場を借りて載せてみる。

記事の後には、次の文を添えていた。



文楽が亡くなったのは昭和46年12月12日。79歳とある。
今のKより2歳若い。



2025年6月1日(日)
泥落としふれあい祭り
昨今では、集落で一番のイベントと思われる「泥落としふれあい祭り」が爽やかな好天のもと行われた。
昨年もほぼ同じ時期に開催されている。 こちら→(2024/5/26)


今年も、グランドゴルフと手作り料理のセット。
グランドゴルフには、約20名が参加した。

料理の方は集落の女性連が当たり、昨日の午前中に準備をし、今日は7時から早出をしてのごちそう作りである。
また、昔から泥落としには欠かせない、ちまき作りは、老人会女性の、“昔取った杵柄”での手作り作品という。

昨年同様ごちそうが並んだが、ただ、今年は米価高騰のあおりを受けて、お稲荷やおむすびはなく、炭水化物はそうめんのみと言う。料理作りの責任者が半分冗談を込めながら説明をしていた。

参加者は、食事で集まった時数えてみたら42名。小さなお子さんも参加して、晴れやかであった。
ちなみに、アルコールを含む飲み物を含めて、一切集落の会計もち。
10時に集まって午後2時に散開するまで、大いに楽しんだ。