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Kの散歩帖
里庭掲示板
2026年4月30日(木) ラベル730
私の履歴書 生産管理課時代 その2
私の履歴書シリーズその43。昨日の続きになる。

課長としての業務、例えば予決算とか人事など課内全般にわたる業務は、当然のことながらダイカスト部門、アロック部門分け隔てなくなく実行することになるが、日常のトラブル対応としての業務は、前回も述べたが、問題事項の多いドアロック部門に中心をおかざるを得なかった。


そのドアロック部門は、昭和41年に創業を開始した。当初はホンダ車のみがお客であったが、それ以降20年経た、私が生産管理に従事し始めた頃には、お客相手は日産を除く、日本の車メーカー全社に広がっていた。
しかし納入数はやはりホンダが一番多く6割程度、次がトヨタで2割程度、残る2割を残りの車メーカーで分け合うという状況となっていた(と思われる)。

そういう状況にあって生産管理課の役目は、内製・外製を含めて生産物の進捗度状況を把握し、最終的には各車メーカーに対し、納入指示に基づいて製品を納める、というのが基本的な業務である。


一方、当時車メーカー側は、トヨタ社が始めたと思われるが、「ジャストインタイム」という生産方式を各社取り入れ、生産効率の向上を図り始めていた。
車メーカー側は在庫をおかず、我々外製業者に、指定時間通りにものを納めさせるという方式である。

車メーカーに在庫は無いので、何らかの都合で我々外製メーカーからの物品納入が遅れることがあれば、車メーカー側には部品がなく、生産ラインがストップすることになる。
「1分ラインを止めれば、1000万円の違約金を払う」と、まことしやかに言われていたものであった。

この定時納入の役割を生産管理課が担っていたのである。
逆な言い方をすれば、やむを得ず、定時納入を守ろうとしてもがくのである。
定期便での納入が間に合わないときは、臨時便を出してでも、ラインを止めないために、配車を行うのである。

この臨時の配車には「赤帽」を使った。1台の赤帽で間に合わない時には、複数台の「赤帽」を待機させ、ものが10個とか20個とか必要数が出来るたびに赤帽を出発させるという事態も起こるのである。
そのような事態の時は、まさに戦場のような慌しさであった。

車メーカー側(主としてホンダ社だが)も、ラインを止めないということに関しては必死で、赤帽でも間に合わないと言う時には、ホンダ社からヘリコプターを出してくれる。
韮崎市内を流れる釜無川の川べりに広場があり、その場所をヘリコプターの駐機場代わりに使う。
われわれは車に製品をのせてその駐機場に向かう。一方ホンダの狭山工場からヘリコプターが飛び出る。駐機場で落ち合ってヘリコプターにものを載せるという方法である。
私は、生産管理課に従事した初期の頃、このヘリコプター事件を少なくとも2回は経験した。もう1回行ったような気もするが、こちらは定かでない。
ヘリコプターが飛び去る姿を見て、これでラインを止めずにすんだと安堵した気持ちが蘇ってくる。

ヘリコプターの費用を如何に処置したかは記憶がない。一方、赤帽の費用は記憶に残る。
製品などの販直費は生産管理課の管理業務の一つになっていて、その中に赤帽を使った臨時処置の費用が載る。
幹部からこの赤帽代の費用が多いといつも叱責を受けた。
増える理由の原因は我々生産管理ではないと思いつつも、努力します、と答えることにしていたものである。


このようなトラブルが毎日のように起こり忙しく過ごすのであるが、中に入ってもう少し違う観点で中身を見ると、その内容には特徴的なことがあると分かってきた。

トラブルが頻繁に起こるのは、車のモデルチェンジ等があって、収める製品が新しい品物に変わる時に起きがちなのである。
新しい製品の立ち上がり直後の1ヶ月程度の期間に集中し、それぞれの問題を処置して、一旦軌道に乗ってくると、ほとんど問題は起こらないのである。

資料がないので記憶だけになるが、我が社がホンダ社から受注していたロックは、アコード、シビックさらにシティなどのセタン型の車が中心であった。
それぞれの車は、ユーザーの目を惹くために、毎年「フルモデルチェンジ」とか「マイナーモデルチェンジ」を繰り返す。
その影響を受ける我々は、どれかの車種のモデルチェンジの対応をし、それが落ち着いてきた頃には、また別の車種のモデルチェンジが始まり製品が新しくなる。またトラブル対応が始まるという次第で、年がら年中トラブル対応しているように見えるわけであった。


このような落ち着きのない日々を過ごして一年程度経った頃のこと思う。
「生産管理課全体でざわつく必要はないのではないの?」と思い始めた。
ドアロック部門で新製品が立ち上がるたびに課内全体が混乱するわけで、混乱の対策チームを生産管理課から外してしまえば落ち着くのではないかと思いついた訳である。

誰にどう話を持って行ったか忘れているが、結果としてその思いが結実することになった。
「計画課」というという新しい組織が発足することになる。
私は生産管理課長兼務のまま、この新しい計画課の課長も拝命した。昭和62年(1987年)10月1日付である。


計画課の課員は5・6名であったが、その中の主要3人が並んでいる写真が見つかった。左は生産管理課主事のOさん。Oさんにも兼務で計画課に入ってもらった。私の隣に写るのはKさん。2年年上の極めて優秀な方、お願いの上加わって貰った。


計画課が出来上がって最初のモデルチェンジが「アコード」であった(と思う)。
どう対応すればよいか皆でかなり議論した。
外注さん(協力工場と呼ぶ)にも足を運び、何が問題かを相談したりもした。
“時計時代“の経験も踏まえ、必要な部品在庫は持っても良いとした。
夜中まで動くこともしばしばで、睡眠不足を心配した会社は、私が昼間車を運転する際、居眠り運転を心配して、社用車用の運転手を私用に用意してくれたこともある。
そんなことがあって、アコードの立ち上がりは、ほぼ問題を起こすことなく立ち上がった(と記憶する)。
以後、いくつかの新製品立ち上げで同じ経験を積み重ねながら、会社全体で、スムーズに新製品が立ち上がる体制が出来上がってきた。


このような経緯を経ながら、計画課を含む生産管理課での業務は3年という長い歳月を過ごすことになる。
苦労の多い3年間ではあったが思わぬ褒美もあった。
次回はその褒美の話をしようかと思っている。



2026年4月29日(水)
私の履歴書 生産管理課時代 その1
私の履歴書シリーズ その42である。
前回は こちら→(2026/4/25)


前回記事において、2年間にわたる工場を移転を終え、昭和61年(1986年)4月1日から、新たな韮崎工場で、新組織に基づく業務が開始されることになると報告した。

その新組織において私が拝命した職名は、生産管理部生産管理課長というものである。年齢は42歳を間近に控えた41歳であった。


生産管理部は、原材料をはじめとする単品物品を調達する購買課と、製品製造の進捗と、客先への製品納入を業務とする生産管理課という二つの部署から成り立っている。
一方、、川崎工場と大崎工場に分かれていた部署を、合同して一つにし、立ち上げるものでもある。

運動会時と思われる当時の写真が残っていた。


課員の数は、購買課が10名弱、生産管理課が30名強であったと記憶する。

一緒に苦労を共にした管理職の写真を集めてみた。どの方も私より5才以上年上の人である。


いずれの方も、元の工場にあって生産管理業務を担当していた人で、私のみが異色であった。
もともと生産管理課は人文系の学科を卒業した人が担当することが多く、工学部を出た私には、何ゆえと訝ることもあったのだが、“時計時代”の腕を買われて引き抜かれたのだと説明してくれた人がいて、そうかこれも運命かと妙に納得した記憶がある。

仕事を始めてみると、生産管理の業務は超繁忙であった。


少し横道に逸れるが、当時の時代背景に触れてみる。
生産管理業務に携わる1986年から1990年に向かう頃は、日本はバブルの絶頂期であった。
作れば売れるという時代である。

一例として、ここに自動車の国内生産量の推移グラフを示してみる。(ネットで検索、引用した)


1990年には、国内での自動車の生産台数が1350万台生産され、ピークを迎えるのだが、丁度そのピークに向かっている時である。
各社とも増産を競い合った時代であった。


そのような時代背景の中で事業部の業容を見ると、ダイカスト部門も自動車部品を扱っているがその比率はせいぜい4・5割。一方ドアロック部門は10割が自動車部品である。

自動車関係比率の高いドアロック部門の方が、動きが激しく、混乱も多いという時期であった。

必然的にダイガスト部門の管理業務はダイカスト担当の主事にまかせ、私は、ドアロック部門の管理業務に注力するようになる。
記憶を辿れば、8がドアロック、2がダイカストという程度の業務配分であったかもしれない。


今日はここまで。
続きは次回に回す。



2026年4月28日(火)
外出時の 音楽、ラジオを聴く体制
少し以前の話であるが、 こちら→(2026/4/6)
新スマホ用に、USB-Cイヤホンを購入したと記載した。

我が家周辺でラジオや音楽を聴く場合、周りに人がいないので、音を出しても迷惑にはならない。
イヤホンは使わず、そのまま本体から音を出させて聞いている。

したがってイヤホンを使って音楽を聴くのは、ほぼ外出時に限られ、イヤホンの保存先は外出時に使うバッグの中と決めている。

一方、外出時には、保存した音源の違いから、iPodを持ち出す場合も無いではない。iPodで使うイヤホンは旧タイプである。
したがって外出用バッグの中には、新タイプと旧タイプの二つのイヤホンを一緒に袋に収めて保管することになる。


これで原則的な問題は解決するのだが、一方使う段になってみると思わぬ事態が起きてきた。
いざ使おうとすると、2本のイヤホンの線が絡み合ってほどく作業が大変なのである。

致し方なく、それぞれのイヤホンを別の小袋に入れて保管しようかと思い始めていた。
ところがである。またしてもアマゾンで便利なものを見つけた。


変換アダプターである。
その品物が今日届いた。


これなら絡むことはない。
当然のことながら音も聞けた。



2026年4月27日(月)
八色石の水鏡
今、八色石は稲作作業の最中である。

春になり稲作が始まると、田圃では、荒起こし、代掻き、そして田植えとなるのだが、代掻きと田植えの間には、代掻きをした後土を馴染ませる期間が必要なようで、一週間前後水が張られたまま待機となる期間がある。

今が丁度その時期。
風のないときは、田圃の水が鏡となり、周辺の景色が逆さに映る。
特に朝などは風が凪、映る景色は鮮明である。

そんな折の今朝のこと、Mが写真におさめた。


撮影の時間は朝の7時過ぎ。背景に映る山は四反田山である。


一方、次はKが取ったもの。


昨日の午後ウォーキングに出た時撮ったもの。微風があって、わずかにボケる。


この後田植えが行われれば、もはや鏡は消え失せる。
毎年この時期、わずかの間だけ見ることができる貴重な風景である。



2026年4月26日(日)
白洲正子の 「かくれ里」
NHK番組で「おとなのEテレタイムマシン」というのがある。

Eテレで毎週土曜日22時から放送される。昔放送された番組の中で、これはと思う番組をピックアップして再放送する番組で、毎週予約をかけて録画をしている。
興味がわかない番組が放送されることもあって、まったく見ずに録画を消す場合ももないではないが、大方7・8割の番組は見ていて、中には、鍵マークを付け長期保存をする場合も少なくない。

今回ここで取り上げるのは2月14日に放送されたもの。


1999年に放送されたもので、番組名は「新日曜美術館」。白洲正子について取り上げた番組であった。
白洲正子の美の世界についていろいろ語られるが、中でも時間をかけたのは、白洲正子が書いた書籍「かくれ里」についてであった。

「かくれ里」に記載されている場所を、作家の車谷長吉氏が再訪するという形で話が進む形式である。
その最初の部分で、「かくれ里」の冒頭部に書かれた文章を、白坂道子さんの音声で読み上げる場面がある。

少々長いが、その音読された部分をここに再掲してみると次のようになる。

「かくれ里」と題したのは、別に深い意味があるわけではない。字引を引いてみると、世を避けて隠れ忍ぶ村里、とあり、民族学の方では、山に住む神人が、冬の祭りなどに里へ現れ、鎮魂の舞を舞った後、いずこともなく去ってゆく山間の僻地をいう。
秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも「かくれ里」の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯があり、そういうところを歩くのが、私は好きなのである。」

この読み上げられた文章を聞き、私が思ったのは、今我々が住む八色石も、「かくれ里」と呼んでも良いのではないのという想いであった。

俄然、著作「かくれ里」を読んでみたいと思い始めたわけである。
アマゾンで買ってみようかと思いもしたが、なんとなく時間が過ぎ、この度、図書館にゆくことになる。

何度か前に立ったことのある、白洲正子の書籍が並んでいる書架の前に立つと、これまで目に入らなかった「かくれ里」が並んでいたのである。
早速借りて帰ったという、話。


1971年(昭和46年)に初版が発行された書籍で、手元にあるのは1999年に印刷された第21刷。価格は4200円とある。
藝術新潮に2年間にわたり連載された随筆とのこと。
これから少しずつ読み始めてみようと思っている。



2026年4月25日(土) ラベル425
私の履歴書 移転室時代
私の履歴書シリーズ その41である。
前回は こちら→(2026/4/19)

前回記事の末尾において、新しい辞令を受けることになると記述しているが、その新しい辞令の話に移る前に、当時の事業部の立ち位置について一度振り返っておく。

以前一度掲載したことがあるが、理解を容易にするため、所属した事業部の沿革をもう一度載せてみる。


昭和43年に入社した私の勤務場所は川崎市にあるダイカスト事業部「川崎工場」の鋳造課であった。
この部門は、元は、東京品川区の「大崎工場」にあったものが昭和42年に移転してできたものである。
したがって、前回までに記述して来た内容は、大半、川崎工場での出来事に限られていた。

一方、移転元の大崎工場には、昭和41年に創業を開始した、自動車のドアロックを製造する部門があって、当時の日本車の生産台数の増加に合わせ、生産規模を拡大しつつあった。
時を経るにつれ、このドアロック部門の販売高は、ダイカスト部門のそれに肩を並べるほどになり、「ダイカスト事業部」という名称が相応しくなくなり、昭和56年に「機器事業部」という名前に組織名を変更したのであった。

これまで何度か私の名刺を掲載しているが、いつの間にか「ダイカスト事業部」という名称が「機器事業部」という名称に変わっているのは、このような理由によるものである。

さらに時をへて、新しい動きが始まることになる。
それは、これまで二つに分かれていた工場の、すべてを一纏めにして、山梨県の韮崎市に工場移転をするという話であった。


ただし、この話は極秘裏に進められてきた。
本店(本社)の一部と事業部の幹部の限られた人によるものと思われる。

私がこの移転の話を初めて承知したのは、ある偶然の出来事によるもので、その時期は、昭和57年6・7月頃のことと思われる。
前々回の記事(4月17日付け) において、海老名の家を購入したと記載したが、この家の購入手続きをしておるときのこと。
自己資金が不足し、会社の融資制度を申し込みに総務課に行ったとき、偶然その場に副事業部長がいて、「何の用事?」と聞く。「斯く斯く云々でお金を借りに」と返事をすると、「実は、工場が山梨に移転することになった。家購入の話はそれを踏まえて」と発言がある。
購入手続きはもはや止められないので、そのまま進めて入居した。入居したのが8月であるから、それから推定して、移転の話を承知したのは6月か7月ごろと思った次第である。

その後移転の話は、しばらく間をおいて、正式に公表されたものと思われる。


前置きが長すぎた。本題に戻すことにする。

山梨県韮崎市への工場移転にあたっては、二つの組織が編成された。建設室と移転室である。
建設室は敷地を整備し建物を作るといういわばハードの部分を担い、移転室は、生産設備と社員をいかにして移動させるかという、いわばソフトの部分を担うことになる。

私が新たに受けた辞令は、「移転室次長」という職名である。受けたのは昭和59年4月1日付けであった。
移転室次長はもう一人いて、I.K さんという。九州工大機械化卒の人で、私より一年入社が早い。ドアロックの生産に従事している人である。
私が川崎工場を主に担当し、I.K さんが大崎工場を主に担当するという、作業配分を考慮しての人選であった。
九州工大卒業生がこの移転業務の両翼を担うという、不思議な因縁の誕生でもあった。

この折り、それまで私が従事していたカシオ社の時計生産業務は、生産設備を韮崎工場に移転せず、相模原市にある、三井金属の子会社の相模原部品工業株式会社に移設し、生産を続けることになった。わたし以外の時計製作課員は相模原部品社に転籍である。
昔からの経緯で、時計から私が離れることをカシオ社が心配するのではないかという配慮から、私は兼務でもう一つ辞令を受けた。時計課顧問という辞令である。したがって昭和59年4月1日付けで受けた辞令は二つあった。


しかし、顧問の名刺を使うことは一度もなかった。


なお、移転室長には副事業部長であるNさんが兼任で従事された。


移転室時代のものではないが、左がNさん。

下ネタ好きの、決して上品な方ではなかったが、力があり即断即決できる人で、仕事はやり易かった。
ただし、副事業部長という別の業務があり、移転室に常駐されるわけではなく、移転室の実質業務は、I.K さんと私が中心になって取り進めることになった。

移転業務はかなり大変であった。めっき設備のように、設備を更新するものはそれでも比較的楽であるが、ダイカストマシンのように、設備を移転するものは、準備作業が複雑になる。
移転中は機械が停止するので、その間に必要な製品は前もって作り貯めをしておかなければならない。それが終わった後機械の移設行い、同時に機械のオペレーターも移動させるという作業になる。

住まいとしては、将来は家族寮に転用することを前提とした、独身者用の鉄筋コンクリートの建物が一棟。その他に家族用の木造アパートが2棟用意された。
借家を希望する人もある。それに対応できる借家探しも必要であった。

一方移動する社員の数であるが、もともとの社員数は、大崎工場が200名弱。川崎工場が300名弱。合わせて約450名の社員がいた。
うち女性社員を中心に移転を機に退職する人もあり、また相模原部品に転籍する社員などもあって、およそ400名程度の社員が移住することになる。家族も含めれば、800から1000名程度になろう。
それらの人々の希望に沿った移住計画の手伝いをするわけで、この作業の仕事量も相当なものであった。

その他に福利厚生の仕事もあった。昼食や三交代職場用の食事の手配である。韮崎興産という新たな会社を起こして、主作業はその会社に任せるものの、情報を与え、進捗具合を確認するなどの業務もあった。
移転を機に作業服も変更した。従来のカーキ色から紺色の作業服である。社内売店や銀行ATM装置も配置した。このような作業も中心になったのは移転室である。


これらの業務を処理する移転室のメンバーであるが、その資料が何も見つからない。
室長と次長合わせて3名ははっきりしていて先に述べた。これに加わる社員スタッフのことである。
そのうち1名は記憶がはっきりしていてT.Kさん。ダイカストの生産管理課にいた人。したがって、一緒に仕事をすることも多々あったが、随分と助けていただいた。
ところが、この他の人の事情が全く思い出せない。少なくとも、もう2・3名はいたはずと思われるが、申し訳ないことに、それらの方がまったく解らないのである。

ともかく上記の内容で移転室の業務を推進した。期間は2年間。
昭和59年4月から作業が始まり、すべての移転業務を終えて、全社的に、移転終結宣言がなされたのが昭和61年3月31日であった。


昭和61年4月1日から新組織で業務を実行することになり、4月1日付けで新たな辞令を受けることになる。
ただしこれ以降の話は次回に回す。


なおこの間に、私は昭和60年7月に先行で単身山梨に移り、独身寮に入居して業務にあたった。
窓を開けると八ヶ岳山麓の峰峯が見える。
「とうとう山梨に来たか!」という感慨を覚えた記憶が残っている。

一方家族は同年11月になり、白根町の借家に居を移した。
2階建ての大きな屋で、2階に3部屋、1階に7部屋あるというもの。
業務で社員の借家を探しているおり見つけたもので、我が家族用に頼み込んでおいたものである。
職権乱用と言われても仕方のない所業ではあった。
持ち主は建設業者で町会議員。この家のことについては後日どこかで、また触れることがあるかもしれない。


周りは、桃を中心とした果樹園が広がり、晴れた日には富士山が遠望できる場所であった。



2026年4月24日(金)
軽スポーツの日
毎月最後の金曜日は軽スポーツの日となっている。

昨日は一日雨であったが、今日の予報は曇りのち晴れ。
3月から11月までの間は、雨でなければグランドゴルフが行われるのが習わし。
よって、今日はグランドゴルフが開催されるので参加してきた。先月Mは欠席したが、今日はMも参加。
最終的には15名の参加があった。


普段の月なら、ホールインワンが出る人の数は1人か2人なのだが、今日はひどく多くて5名も出た。K、Mは出ず。
それでも成績はまあまあで、Kが5位、Mが8位。

5の倍数の成績の人には“飛び賞”が出る。Kは5位なので商品をもらって帰ってきた。



2026年4月23日(木)
本日休刊
2026年4月22日(水)
「Agent i 」
昨日付けの読売記事。
LINEヤフーが新たに「Agent i」というAIサービスを始めたとある。


初めての国産AIサービスの誕生である。

私の場合、主としてチャットGPTを使用しているが米国製である。
日本製ということもあり試しに使ってみた。


記事にある通りヤフージャパンを開くと、右上に専用アイコンが表示される。
このアイコンをクリックすると、写真下の画面となり質問が可能となる。

2・3設問をしてみたが、特段の違和感はない。
ただし、回答が「です」「ます」調なので、「である」調に文章を変換するよう頼み直すと、少しばかり日本語が変な感じになる。

またチャットGTPでは、写真の編集などもしてくれるが、ここには今のところその機能は無いらしい。

新聞記事にもある通り、今のところ発展途上の模様。
即座にチャットGPT機能の代替とは考えにくいが、使い勝手は簡単なので、補完機能として使ってみようかと思っている。



2026年4月21日(火) ラベル421
山笑う
山の若葉が出揃ってきた。今まさに山笑うの風景である。

この景色、普段ならウォーキングに出たおり撮るのだが、今日は午前中図書館などに出かけ、午後帰ってからは一時間あまり草刈り、そして夕方からは夕食当番である。
ウォーキングに出る時間がなさそうなので、とりあえず母家の近くでこの状態を撮ってみた。


この山笑うの風景は、自分にとってお気に入りの景色なので、毎年小欄に載せているはず。
繰ってみると。昨年は24日に、その前年は21日に載せていた。

毎年見る景色ではあるが、この景色を見ると心が弾むような気がして、何とも嬉しい、晴れやかな気分になるのである。



2026年4月20日(月)
倒木の枯らし処理
一昨年の夏から秋にかけて、薪や椎茸の榾木用に倒した木がある(対象の木は2本)。
倒した時なんの処置もして居なかったので、昨年はその切り株から新たな芽が出、枝になり少々うるさくなってきた。
うち一本は昨年の秋枝を落としたが、もう一本はそのまま。

今年春になり、新たな芽が出始めている。
このまま大きくなっても将来困るので、根元から枯れるための処理を施すことにした。


処理の手順は難しくはない。枝が出ていれば最初にチェンソーで落とす。
次に新たな切断面を出すために、株の上面を数センチの高さで切り落とす。
かける薬剤は灯油であるが、その灯油の染み込み効果を上げるため、チェンソーで切り込みを何本か入れる。
そして最後に灯油をかける。
という手順である。


これで様子をみることになるが、これほど太い切り株の枯死作戦を実施したことはこれまでにない。
どのような結果になるか、少々楽しみにしている。



2026年4月19日(日) ラベル419
私の履歴書 時計製作課時代 その3
私の履歴書シリーズ その40である。
前回は こちら→(2026/4/17)

前回は、昭和57年1月1日付けで時計製作課課長の辞令を受け、1年間かなり苦労はしたものの、ほぼ一年経った時期には、組織全体が落ち着きを取り戻すまでに立ち直ったと記述した。

その丁度一年経った昭和58年1月1日である。
私は新たな辞令を受けることになった。
時計政策課課長はそのままとして、兼務として製造第一課の課長の辞令である。


会社幹部としては、落ち着きを取り戻した時計製作課は、私が常駐しなくても大きく崩れることはないと判断されたのかもしれない。
一方私は、製造第一課の課長の辞令は嬉しかった。

と言うのは、時の経過を経て名前は機器事業部製造部製造第一課となっているが、元は、ダイカスト事業部製造部鋳造課のことで、私が三井金属に入社し最初に配属された職場である。
当時の課長は、私が尊敬して止まない国安さんが務めておられた職場である。
もちろん人格は比べるべきもない人であるが、同じ職場の課長になったということは、若干なりとも国安さんに近づけた気がして嬉しかったのであった。

兼務になって仕事の配分をどう進めたか全く記憶がないが、時計と鋳造、おそらく同じ程度の時間をかけていたと思われる。

そんな仕事ぶりで日を過して居た丁度その頃の事、思いもせぬ出来事に出会っていた。
以前見過ごしていたものと思われるが、新たな資料が出てきたのである。


事業部長名の表彰を受けていた。
この受賞については全く記憶がない。当時事業部内には定例の表彰制度はなかったので、この扱いは、破格のものであったのかもしれない。金一封の額も、またそれをどう使ったのかも記憶がない。

但し、この受賞が起因になったのかもしれないが、翌年の調和49年2月に受賞した賞のことはよく覚えている。
それは三井金属本体の社長表彰である。この表彰制度は定例的に毎年行われていて、その年に貢献した個人または団体が、年に3・4件表彰されるもので、その時は時計製作課が表彰を受けた。
本社の大会議室に社長以下役員が集まり、その前で、表彰されるものは15分程度であったか業績の内容を報告し、表彰を受けるのである。

資料作りは私が行った。作った資料はスライドにして投影して出席者に示すという形である。
受賞日には、事業部長と私と主事のHさんの3名で出席した。
発表は私が担当し、スライド機の操作をHさんに頼んだ。

受賞後、事業部長が労をねぎらうため、都内のレストランに入り食事を馳走してくれた。
ふたりは当然のこととしてビールなど飲むが、私はその時、その年の正月から酒を飲むと頭痛が発生するようになっていて、致し方なくジンジャーエールを注文して乾杯した。
残念な思いが強く、この時の記憶は鮮明に覚えている。

受けた賞金はかなり多額で、万年筆だったと思うが受賞の文字を刻印し関係者に配った。
今回、記事を書くにあたって、受賞の賞状、発表に使ったスライドおよび記念に配った万年筆をあちこち探してみたのだが、どれも見つけることができなかった。


このようなトピックスを踏まえながらの一年余りになるが、二つの課を兼務する時期が続いた。
この間、おそらく、大過なくすごしたものと思われる。


そして昭和59年の4月のこと、別の辞令を受けることになるのだが、この話は次回に回す。


なお余談めくが、この時計製作課時代にゴルフを始めた。
"時計”の前の”鋳造”時代は、課内に「ゴルフはしてはならない」という不文律がなんとなくあって、始めることができなかったのだが、その束縛から離れ、また、時計課の中にゴルフの上手な人がいて(前回示した写真で一番左に写る人)、教えてあげようかという。その言に従って習い始めた。
この時に習って良かったと後日しみじみと思う。
麻雀のできない私にとっては、ゴルフを始めたことで、人並みに遊びの付き合いができるようになった、と思っている。



2026年4月18日(土) ラベル418
草刈り 第1号
実は昨日行った作業であるが、今年になって初めての本格的草刈作業である。
場所は別棟と呼ぶ場所。

たまに例外はあるが、春になって最初に行う草刈は、およそこの別棟と決めていて、今年もその例に従ったという次第である。


丸刃をセットした草刈機も準備したが、主に使うのはナイロン紐をセットした草刈機の方。

ほぼ半年ぶりに草刈機を使うわけで、なんとなくその操作方法を忘れた感じもする。
思い出しながら、ゆっくりと操作した。

今日は初日なのであまり無理をしないこととし、およそ一時間で作業をやめた。
これからは、他に用のない限り、雨が降らなければ草刈作業が続くことになる。

これから「秋じまい」が終わるまでの期間続くわけで、先は長い。
まあ、ぼちぼち行うことを旨として、まいる所存である。



2026年4月17日(金)  ラベル417
 私の履歴書 時計製作課時代 その2
私の履歴書シリーズその39である。
前回は こちら→(2026/4/10)

最初にお断りを一言。

ただいま記載中の「私の履歴書」は、できるだけ事実に基づきたいとして、会社勤務時代の資料を探し出し、それをベースにして記事を書いていた。こちら→(2026/2/1
ただ、その時に出てきた業務メモを記述した手帳などは昭和56年(1981年)までのもので、それ以降のものは何も出てこなかった。

今後書く記事の内容は昭和57年以降の話が中心になるが、したがって、資料に基づくことができず、記憶に頼る部分が多くなる。このような背景の中で記事を書き進めることを、お含みおき戴きたい。

ただ、この他に、「家族の歴史」というExcelファイルを綴っていて、 こちら→(2023/5/10)
出来事の年代確認のために、このファイルに書かれたデータを使う場合もある。


さて、本題に戻す。

前回記事の末尾に昭和57年1月1日付けで新しい動きが始まったと記載した。
新しい動きとは、これまではプロジェクトチームで対応して組織を格上して、新たに「時計製作課」という名称の課を作り、対応するとしたのである。

私はその新設された課の課長に任命された。


年齢37歳。組織は小さいとは言え、正課長である。
辞令交付の時、幹部から、同期入社の中では一番速い正課長だ、と言われた記憶が残っている。
一方、私は製造現場の人間と思っていただけに、管理部門の長になるとは思っておらず、この辞令には少々驚いたという記憶も残っている。

右の写真は課が新設されて1年以上立ったときのものであるが、課の構成員は写真に写る6名(内訳;、右から2人管理職、課長と主事。中央2人が生産管理担当、左2人が品質担当の社員)と、事務の女性が一人。さらに金型設計部門在籍のままカシオ社の金型を設計する担当者が1人専従になって、合わせて8名の体制で事業を推進することになった。


組織の中に入って業容見ると、相当に混乱していた。

カシオ社の仕事を始めて丁度1年経った時期のことになるが、当初月当たり数万でスタートしたものが、この時期には、20万個程度にまで急激に増加している。

一方、この時計ケースの製造工程を見ると、鋳造、仕上げ加工、表面処理そして組み立て検査、最終の出荷という順である。
鋳造から表面処理までの工程は事業部内の各課で担当するが、組み立て以降の工程を担う場所が社内にはなく外注の協力工場に委託していた。

委託した会社は、(株)邦和という。
事業部から車で20分程度の場所にある会社で、新興の住宅地に近い場所に立地していた。
社長が木下邦夫、専務が奥さんで名前を和子さんという。余談めくが、会社の「邦和」という名称はご主人と奥さんの名前の一字ずつを取ってつけた会社名である。
当時社長は50歳前後か。専務は40歳半ばと思われる。
社長はニコニコして温厚な人、専務は穏やかに見えるも頭脳明晰な人であった。
社員は、男性が2・3名いたが、残りはすべて女性。近郊に住む奥さんたちに、専務が声をかけて集めた方であった。

この(株)邦和という会社に最後の工程をすべて頼んでいた。
カシオ社と繋がっているのはダイカスト事業部ではなく、この邦和社であった。
カシオ社の評価を左右するのは、この邦和の仕事をぶり如何にかかっている、と気づいた私は、時間の許す限りこの邦和社に出向くことにした。

中に入ってみるといろいろな事情が見えてくる。
当日の出荷分が間に合わないからといって、女性社員は夕方一旦会社を出、家に戻って夕食の準備をしてのち、また会社に戻って仕事を続け、当日分の出荷に間に合わせるというようなことも結構な頻度で起きていた。

このようなトラブルの原因は、もちろん邦和社にないではない。しかし主因は、前工程にあると思われた。
邦和社に物が届くのが遅いのである。


話が少し横道に逸れるが、トヨタ自動車が提唱する“かんばん方式”というものづくりの方法は、当時の日本にはすでに広く伝わっていた。
それは工程間の在庫を極力すくなくするというもので、これにより原材料費を抑え工程間の無駄を省くという考え方であった。

時計生産に携わっていた生産管理の担当者は、当然のこととして、極力工程管理在庫を減らすという形で生産生産工程を進めていたのであった。
ところがカシオ社の製品は、通常の製品に比べ生産個数は多い。しかも最後の工程には組み立てという他の製品では見られない工程も入っている。
一旦どこかの工程でトラブルが発生すると、余分な在庫がないがゆえに、対応ができず全体の工程に支障が生ずると思われた。

そこで生産管理については素人である私が考えたのは、流動間の在庫増やしてはどうかという思いつきである。
形状が大きく重量が重い製品の場合は、在庫を増やせば余計なコストがかかる。 が、時計ケースの場合、せいぜいその重さは2・30gである。しかも形はきわめて小さい。在庫を増やして増える経費に比べ、在庫を減らすことによって生ずるトラブルに起因する経費の方が多いと考えたわけであった。


時計製作課内の社員にも説明し、在庫を増やすという了解を幹部からも取って実行してみた。
徐々に結果は良い方に向かう。半年経過した頃には工程はずいぶんと落ち着いてきた。

着任した当時は、日付が変わって翌日になる終電で帰宅し、食事をし、わずかに睡眠をとって、翌日の始発電車で会社に向かうという日々の連続であったが、次第に落ち着き、帰宅のときは、駅前の飲み屋に皆で寄り、一杯飲んでのち別れるというような落ち着いた生活ができるようになったのであった。

もちろんそのほかにも、帳票類の形式を変えるとか、あるいは在庫数の正確さを期するため、パレットに入れる収容数を10個単位でまとめるという形に変更したりなど、改良を加えた記憶は蘇るが、それらの中で最も効果があったのは、“工程間在庫を増やすという素人的対策”がもっとも効果を発揮したと自分では思っている。
勿論、工程間在庫はむやみに増やしたわけではない。各工程での在庫量はどの程度が最適であるかのシミュレーションは充分に行ったのち、その結果を持って適用をしたわけである。


なお、この間や、それ以後を含め、(株)邦和の女性専務のご協力の力も大きかった。
小々無理と思われることを頼んだりもしたが、「課長の言うことなら何でも従う」と言い、実行に移していただいた。
カシオ社の評価が時間を経るにつれ、次第に上昇して行くのが感じられたが、この影には、この専務の力添えも大きかった気がする。

このような経過を経て、ほぼ一年経った頃のことである。
ある日副事業部長が私に向かって、「今日カシオさんに行ってきた。カシオ社の幹部から、『新たに課を作っても、実質そうは変わるまいと思っていたが、見事に変貌した。学卒者が1名入るだけで、こうも変わるものかと驚いた』と、褒められて帰ってきた」と告げていただいたことがある。
確かに苦労した一年であっただけに、妙にその言葉が記憶に残っている。

生産量も次第に増えていったという記憶がある。具体的な数字を示す資料は残っていないが、月産40万個程度までは増えていたかもしれない。


だらだらと書き続けてきたが今日はここまで。
続きは次回とする。


なお、この年8月のことであるが、3年間住み慣れた大和市を離れ、海老名市に居を移した。


2階建ての一軒家。中古ながら初めての持家である。
小田急線海老名駅から徒歩10分程度の距離にある家であった。



2026年4月16日(木)
本日休刊
2026年4月15日(水)
老人会の花見、雨で室内開催
今日は老人会の花見の日。

数日前から今日の予報は雨模様。
予報の外れることを願って今朝を迎えたが、最近の天気予報は精度が良い。外れることなく見事に雨となった。

晴れていれば、グランドゴルフをしてのち、わが里庭に来て花見という予定であったが、雨のため、保養館での開催となる。


昼食を手作りするMら女性メンバーは7時から。役員は9時から集まり会場の準備。今年から無益となった私らは10時から参加。合計で13名集まった。

最初に軽スポーツ。今日はモルックが準備された。

マルクという競技をネットで探すと次のように書かれている。
【モルックは、フィンランド発祥の「木の棒(モルック)」を投げて、「数字が書かれた木製のピン(スキットル)」を倒す、老若男女問わず楽しめるスポーツです。1〜12の数字が書かれたピンを3〜4m離れた場所から投げ、倒したピンの数や合計点数を計算し、先にぴったり50点に到達したチームが勝利となります。 】

2人で“じゃんけん”し勝ち組と負け組に分かれる。私は負け組。
なかなかうまくいかないゲームで、我が負け組チームは、試合でも四連敗するという、悲惨な結果であった。

そして待望の昼食となる。ユキノシタやタラノメを揚げた天ぷら、チシャもみ、今年取れたタケノコ入の煮しめ、トッピングに山椒の葉をあしらったばら寿司、玉子焼き、他、春の食材満載の見事な弁当であった。

その後談笑して午後2時頃散会となる。
花見こそできなかったが、ゆったりとした、愉快な会であった。



2026年4月14日(火)  ラベル414
左目、眼科検診
定例の眼科検診に行ってきた。今回が通算24回目となる。
前回は こちら→(2026/3/17)

予約時間は朝の10時。
ただし若干遅めの出発でクリニックに着いたときは10時をわずかに回っていた。
今日も患者はかなり多い。


最初がスタッフによる諸検査。普段なら30分余りで終わるのだが、今日は待機時間が長く、1時間近くかかって終了した。

その後医者の診察となる。
ここでも簡単な検査があってのち、医者のつぶやきか「画像のダブりが落ち着けば、あとは“下まぶた”のめくれを手術して終わりになるのだが」と言いつつ、最終的には「もう少し様子を見ましょう」となる。
その後もう一言つけ加えられたのだが、その言葉が聞き取れず、Mも同席したので、後ほどMに聞けば分かるだろうと聞き返さずその部屋を出る。
部屋を出たのち、Mに医者の最後の言葉を問いただすと、Mも聞き取れなかったらしい。

前月の診察時に出た「6月ごろまで様子を見ましょう」という医者の言葉が頭に残っていたので、当分は現状維持と覚悟を決め、医者の最後の不明な言葉は、自分の内では不問に付すことにした。

クリニックを出たのは普段より少し遅く12時前。その後Mの若干の買い物に付き合い、帰途に向かった。


朝来るときも気がついたのだが、江川沿いから大田市に掛けては緑がかなり進んでいる。これに比べ八色石は、漸く葉が出始める頃。
季節の進み具合の違いを感じつつ家に戻ったのであった。



2026年4月13日(月)
「義衛台」の清掃
明後日の15日に老人会の花見が里庭で予定されていて、そのための準備である。

過去開催の時は、母屋からすぐ上がったところの「欅台」で行っていたのだが、 
 こちら→(2025/4/16)
今年はも少し上にある「義衛台」で開こうと言うことになり、そのための清掃作業である。


周りは雑木群であるから、秋から冬にかけて多くの落ち葉が落ちる。それらすべての落ち葉を除去するわけにはゆかないが、吹き溜まりになった場所や、あるいは小枝など、大きく目立つものを集めて取り除くことにした。
もう一つは、手植えした雑木類の剪定。この10年前後は剪定して居なかったので、鬱蒼としている。この際と思い少しばかり丁寧に剪定をした。

選定の一例を示せば次。




もう一つ行ったのが、下の小道から義衛台に上がる階段の修理。
この階段は、知足庵を建てた時一緒に併設したものだが、 こちら→
それ以後整備した記憶がないので、以後およそ20数年経っているであろう。
土が崩れて、ほぼなだらかな傾斜になっている。


一部横木が残って見える個所もあったが、どれだけ使えるか分からないまま掘り返してみると、思いのほかしっかりと残っていた。
とりあえずは、出てきた横木を使う形で修理をする。


そんなこんなで、とりあえず作業を終えた。要した時間はおよそ2時間半。

あとは15日を待つばかりであるが、問題は15日の天候。今日時点の天気予報では、15日は雨の予報となっている。



2026年4月12日(日)
里庭は今 春がピーク
普段小欄を埋める写真の大半はKが撮影したものであるが、今日に限っては、掲載の写真はすべてMの手によるものである。

Kの場合は、話の内容を説明するために写真を使うわけで、写真の出来栄えについてはほとんど考慮しない。行き当たりばったりで、対象のものが映っておればよいという立場なのであるが、Mは写真に対する思いが全く異なる。

光の具合を確かめ、構図を考え、背景を考慮したりなど、できる限り写真の出来上がりが良くなるよう配慮をするのである。

そんなMが今日里庭ないの写真を撮った。
撮られた写真の中からここに一部抜粋して掲示する。


Mに言わせると、里庭では、「今桜がピークだ」と言う。
里庭では、彼岸桜から始まって、染井吉野、山桜、そして八重桜と続くのだが、この一連の桜が咲く状況の中にあって、今が一番だと評するのである。


Mの手になる、こだわりの春の写真。
ご覧いただきたい。



2026年4月11日(土)
スマホの契約先を変更した
一昨日記事の冒頭に、広島県境の街まで出向いたとしているが、それに関連する話。
その折資料が揃わずと言っているが、その資料が整ったので、今日の午後再度出かけ目的の作業をしてきた。

何をしたかというと、県境の町千代田町にあるドコモショップを訪ね、KとMそれぞれのスマホの契約先の変更である。

これまでの契約先は、いわゆる”格安スマホ”のOCNであった。
Kが最初にスマホを使い始めたのは2014年で、その時からOCNと契約し、そのままずっと使い続けてきたわけである。

Mがスマホを使い始めたのは、2017年である。
この時契約先をどうしたかと言うと、やはりOCNである。ただしその手続きが少し変則的であった。

OCNで調べてみると、OCNの制度で「容量シェア」どういう方式があり、これは月1000円加算するだけで、SIMをもう一つ追加することができるという制度である。これを利用することにした。
OCNに対しては、Kが2台のスマホを利用する形になっているのである。
その内の1台を内々でMが使うということになる。

そのような次第でかなり格安で使っていた。契約当初は2台で月当たり5000円程度であったが、その後少しずつ値下げがあり、昨今では3000円前後の料金になっている。

この安価で使えるOCNのサービスを、ドコモに切り替えることにした。
これには若干のわけがある。

OCNの場合、手続きはすべてネット上で行うか、あるいは電話をOCNにかけて助けを求めるという方法で、代理店に出向いて処置してもらうことができない。
それをこれまではKが担当して実施してきた。

ただこれから先が問題である。万一Mが先に死んだときはKが対応ができるが、Kが先に死んだときの処置をすることが誰もできない。
今のうちに何か処置をしておこうという話が、以前から持ち上がっていたのである。

丁度そんな折である。
およそ一ヶ月位前のことと記憶するが、OCNからドコモに切り替えませんか、という提案の案内書が郵送で送られてきた。今なら安くしておきますよという案内である。


これを機に契約先を変更しようと思い立ち、パンフレット持参でドコモショップへ行ってきたという次第である。


これまでは一名義で2人分のスマホを管理していたのだが、次はK・Mそれぞれの別名義にすることにした。したがって、価格は安くはならない。これは覚悟の上で致し方ない。

ただし別名義にしたことで、思わぬ恩恵に預かることもできた。
MのスマホでM名義の“d払い”が可能になったわけである。

Mはこれまでキャッシュレスの機能を全く使っていなかった。ただご時世で、何か作らなければと言っていた矢先で、この度d払いを開設したわけである。
相手をしてもらったスタッフがとても親切な方で、アプリの導入からその他d払いのための設定をすべて実施してくれ、帰る時にはd払いで買い物ができる状態になっている。

帰る途中店により、買い物をして、“d払い”の初使用を試み、戻ってきた、という次第。

言うならば、これも「終活」の一つ。前からなんとなく気になっていた事項で、終了して安堵した。



2026年4月10日(金) ラベル410
 私の履歴書 時計製作課時代 その1
私の履歴書シリーズその38である。
前回は こちら→(2026/4/4)

表題にある“時計製作”と言えば、いかにも時計自体を作ったかのように思われるが、そうではなく、腕時計のケースになる部分のみを亜鉛ダイカストで制作したという話、しかも相手になる会社はカシオ計算機株式会社(以下カシオという)のみ、一つの会社を相手にした業容のことである。

このカシオ社を相手にした、腕時計のケースを亜鉛ダイカストで製造するという話は、私が製造第一課の課長代理になった年、昭和55年(1980年)から急に浮上した仕事であったと記憶する。
当時の業務メモの中にその様子が残っていた。


最初のメモが1月29日付、タフクロムと言う表面処理を施し、月産5万個と10万個の見積もり提示をしたという内容になっている。また2月15日付けでは、主だった課の代表が出席した打ち合わせが行われた様子も示されている。生産開始にあたっては、プロジェクトチームを編成して対応するという記事も見える。
5月20日付では、も少し踏み込んだ内容が記載され、昭和56年1月以降、月産10万個で量産が始まりそうな雰囲気も記してある。
同じページには、見積もり価格の一例が示されているが、その値は349円。
低価格商品を戦略の一つと考えるカシオ社にとっては、これまでの鍛造品に比べ破格の安さで、魅力のある数字であったと思われる。

その後の様子を示す別のメモは見当たらなかったが、昭和56年1月から生産開始と決まったのであろう。
1981年(昭和56年)の業務メモには、生産個数の数字が並んでいる。


1月27日付のメモでは月産数の数字が見える。このメモで「#○」の記号は金型を示す金型ナンバーである。
1月の時点ではすでに四つの金型が立ち上がっている。6月のメモで8型立ち上がり、9月のメモでは、12月からは13番の金型まで立ち上がっている、という形になっている。
毎月、1から2の新しい金型を立ち上げていくという、激しい動きになっている。

この時点では、私は鋳造現場の管理職としてこの動きを見、そして、その動きに対応していたのであった。

一方、会社全体としては、生産管理課を中心にしてプロジェクトチームが編成され、生産管理課の主事がプロジェクトチームの長になっていた(と思われる)。

この体制で、1981年(昭和56年)は、生産が続けられた。


余談になるが、チャットGPTに、当時のカシオ計算機の評価について、特に時計事業を含めて、まとめてもらうと、次のような回答になった。

【カシオ計算機株式会社は1957年に創業され、純電気式計算機の開発により事業を開始した企業である。機械式に代わる電卓の小型化・低価格化を実現し、1970年代の電卓戦争を勝ち抜いて市場を拡大した。特に「カシオミニ」により電卓の大衆化を達成し、企業から個人へと需要を広げた。その後は電子技術を応用し、電子手帳や電子楽器などへ多角化を進めた。時計事業では1974年のデジタル時計を起点に、多機能化と低価格戦略によって従来の時計観を刷新し、実用電子機器としての市場を開拓した。さらに耐衝撃時計の登場により独自性を強化した。当時の評価としては、革新性と価格競争力を備えた「実用電子機器の先進企業」として広く認識されていたのである。】

この記述にあるよう、カシオ社は戦後生まれの先進企業である。
それに比べて三井金属は体制的には古い。
対カシオ社向けのプロジェクトチームが出来ているとは言え、その管理方法は、一般他社と変わらない。

カシオ社の生産システムについていけない部分があり、わが社の幹部に対して何らかの働きかけがあったのであろう、対応策として、わが社の中に新しい動きが始まることになった。
1982年(昭和57年)1月1日付である。

本日の予定はここまで、続きは次回に廻す。



2026年4月9日(木) ラベル409
またしても一汁二菜
今日はMの運転で広島県境の街まで出かけたのだが、今日だけでは出かけた問題が解決せず、後日資料をそろえて再度出直すことにした。
したがって本件は後日すべて解決してから、小欄に掲載のこととする。

となると掲載ネタが無く、またしても一汁二菜である。

今日はお昼が当番。したがって今回掲載する一汁二菜は昨夜のもの。
品は、塩鯖の味噌煮と菜の花のお浸しそして汁である。



まず塩サバの味噌煮。
最初に塩鯖の塩抜きをした。水200ccに酒とみりんをそれぞれ大匙一杯入れたものに浸す。
今回は長めに4時間浸した。
これ以降は、鯖の水煮のレシピに従う。今回参考にしたレシピは こちら→
切り身に熱湯をかける”霜降り”もレシピ通り実施した。
あとは原則レシピ通り。ただ材料が塩鯖ということで、味噌の量を少し減らした。
途中で火を止めるという行為もレシピ通りに実行。

その結果である。極上であった。
これまで作った塩鯖のメニューの中では、一等かもしれない、と思うくらいであった。


次は菜の花のお浸し。
今、菜の花の晩期である。
このまま放っておくと大きくなりすぎるということでMが大量に摘みとっていたものを使う。それでも今回使うのは、摘み取った量の半分ほどである。

私のおひたしは、以前ほうれん草のおひたしで学んだ方法。レシピは こちら→
それをそっくり菜の花に応用するわけである。

最初に少し塩を入れた熱湯に入れ湯がく。時間は2・3分。茎の部分をつまんで柔らかくなれば火を止める。
これを水に浸してのち、茎を揃えて水気を絞る。
あとは所定の長さに切り揃え、別に用意した漬け汁に浸すのみ。
浸す時間は、一時間程度はとることにしている。

私の十八番の一つであり、Mの評判もかなり良い。


最後、椎茸の汁。
今し椎茸が採れる時期。
前々回植菌したものが今最盛期である。


その椎茸を使った汁である。
普段汁は我流で作ることが多いが、今回はレシピを参考にした。 こちら→

椎茸とねぎを薄く切って乾煎りするのが味噌。はじめて学ぶレシピである。
しかも塩気は、お椀に取った後、銘々が好みの量の醤油を垂らすという。
ちょっと不思議なレシピであった。
味も良い。
これからも登場しそうなレシピであった。



2026年4月8日(水)
「知足庵」 の腰壁修理
今日の表題にある「知足庵」とは、昨日電柵を修理した場所、この場所は「義衛台」と名付けているのだが、に建っている丸太小屋の名称である。昨日の写真にも写っている。

この知足庵は平成18年(2006年)に建てたもので  こちら→
丁度20年経ったわけであるが、この間に屋根の葺き替えを一度している。 こちら→
他に大きな修理はしていない。

ところが、昨年から腰壁の痛みが出始めた。
腰壁の板を固定している横木が腐食してきて、腰壁の板が落ち始めたのである。
昨年の秋に一枚はずれ、そして今年の春になって三・四枚落ちかかっている。

気にはなりつつも、横着が優先し放置していたのだが、今月の15日、この場所で老人会の花見を催すことになり、この際と思って修理をすることにした。


昨日電柵修理を終えたのち、こちらの腰壁修理に入ったわけである。


昨日は壊れた腰壁の部分を取り外し、外した材料の中で、使えるものと使えないものを仕分けし、母屋に戻って、不足する部材を仕上げるまでの作業をした。
要した時間は2時間余り。

そして今日である。
調達したん部材を道具類と一緒に現地に持ち運び、貼り付け作業を行った。



最初に2本横木を固定し、その後、腰壁になる板をこの横木に固定して行くという作業である。

予想してなかった問題点も発生したりして思いのほか時間がかかり、2時間弱を要して終了した。
昨日と今日合わせて4時間の作業となった。



2026年4月8日(水)
春迎え  猪用電柵修理
ここのところ、晴れていれば「春迎え」の一環として、猪用の電柵修理を行うことが多い。
一日で終える作業ではなく、数日をかけてする仕事で、母屋から順に離れて行く方向で修理を行っている。


これは3日午後の写真。

そして今日の写真はこちら。


今日も午後の作業である。
ただし今日は風が冷たい。上着を着ての作業になった。

昼過ぎまで仕事に出ていたMが戻ってきて、春模様になってきつつある里庭の風景を写真に撮ろうと思ったのであろう、カメラ持参で登ってきて私を見つけたらしい。
電柵修理をしている私の様子を写真に収めてくれた。

この電柵修理、昨年までは一日2・3時間かけて、3日間程度ですべて終了していた。
ところが今年は様子がかなり違っている。
腰が痛くなってくるなどして、せいぜい作業時間は一時間程度。
今日で3日間作業をしたが、未だ全工程の半分程度である。

本格的な春が来るのはもう少し先。慌てることはない、と自分に言い聞かせている。



2026年4月6日(月) ラベル406
スマホにイヤホンジャックが無い!
昨年スマホを更新した。 こちら→2025/7/13)

そのとき気がついたのだが、この新しいスマホには、イヤホンを挿入して音楽などを聴くための挿入孔(イヤホンジャック)が着いていない。
この時点では、“スマホも進化したものだ”と感心したわけで、古い有線タイプのイヤホンを使うのではなくBluetooth接続のイヤホンを使う設定になっているのか、と納得したのであった。


当時すでにBluetoothタイプのイヤホンを所有していたので、外出用のバッグのポケットにBluetoothタイプイヤホンをしのばせ、外出時、例えば病院などに行った折音楽などを聴くときは、このBluetoothタイプのイヤホンを出して聞いたりなどしていたのである。

しかし、このBluetooth接続のイヤホンは意外と面倒である。
有線イヤホンは本体に接続すればすべて手順は完了なのだが、Bluetoothイヤホンは、まずイヤホンの電源をオンにし、その後本体と接続するという行為が必要になる。また、Bluetoothイヤホンは充電が必要で、それを怠ると充電不足で接続できないこともある。
有線イヤホンが使えれば良いのに、という思いが常々内心していた。


数日前のことである。
たまたま目の前にあるスマホを見たとき、充電用の穴が目に入り、この穴を使って接続するイヤホンは無いのと頭にひらめいた。
この穴は「USB-Cタイプ」という名称の穴である。

ものは試しで探してみることにした。アマゾンを開き「C イヤホン」と入力して検索をかけると、ものの見事に、いくつでも事例が出てきたのである。

なかには1000円以下のものもあるが、そうは言ってもと思い次の品を選んだ。



その品が今日届いた。


説明書的なものは何もない。
スマホに接続して音楽をかけると、音楽が流れてきた。

“世の中は、進んでいる”の感である。



2026年4月5日(日)
棚田と桜
Mの提案で、金城町(現在は平成の合併で浜田市金城町)の棚田を見に行ってきた。
私は全く承知して居なかったが、棚田百選にも選ばれている、結構有名な棚田らしい。

Mがおにぎりを作り、家を10時頃出発した。運転もM。すべてMにお任せの見物となった。
折りしも、ただいま県下は桜が満開の時期。
途中さくらを愛でながらの旅となった。


金木町の棚田は結構複雑な形態となっている。
金木町について、地元の人に聞いて詳細を理解した。
まず、二つの棚田がある。それは「イズモジョウの棚田」と「津川の棚田」の二つである。

最初に見たのが、「イズモジョウの棚田」。


かなり大きな棚田で、石垣が美しい。

この棚田から2キロあまり上流にあるのが「津川の棚田」である。


この津川の棚田は案内の掲示板によると三つの棚田から構成されているらしい。
下から上に向かって、「田代の棚田」「大屋形の棚田」「熊ゲ谷の棚田」の三つである。



それぞれの棚田とも、一軒の持ち主が運営しているらしく、少々驚きである。
この石垣の石を一つずつ積み上げる労苦を考えると、何十年という歳月をかけて積み上げたと推察され畏敬の念を覚えた次第である。

この棚田を見ながら遅めの昼食を取り、帰路に向かう。
帰り道Kの姉が嫁いでいる親戚を尋ね、家についたのは午後の4時頃であった。



2026年4月4日(土) ラベル404
私の履歴書 製造第一課管理職になる
私の履歴書シリーズその37である。
前回は こちら→(2026/3/30)

前回まで2回にわりアルミダイカスト事業への進出について述べてきたが、このアルミ事業には足かけ4年間従事したわけである。
そのアルミ事業がほぼ軌道に乗ってきた昭和54年(1979年)4月、人事異動が発表された。

メモが残っている。


昭和47年末に課長に就任された横山さんが こちら→(2025/7/4)
7年余りの課長勤務を終え技術室長に転出、代わりに槇原さんが、表面処理課と兼務で製造第一課の課長に就任された。


同時に私は、これまでは企画員という監督職であったが、「主事」と言う管理職として働くことにななる。


槇原さんは九大工学部応用化学卒業の人。私より6・7年先に入社されている。
これまでは、ダイカスト鋳造の後工程になる、ダイカスト製品にメッキ処理を施す表面処理課という職場で長年働いて来られた。
余談だがものすごく囲碁の強い人、九大時代氏にかなう人がいなかったと言う。
将来の幹部候補生。そのためには、ダイカスト事業部の中心母体である鋳造部門の経験も必要という配慮があったのかもしれない。事実後年、事業部長になられている。


当時の製造第一課についてその概要を述べてみる。
亜鉛とアルミのダイカスト製造を行う職場で、現場は三交代で操業をする職場である。

以前も掲載したことがあるが、当時の三交代勤務表が残っていて、ここでもう一度再掲する。


作業長を長とする現業部門で三交代勤務者が100名弱、そして現場常一スタッフが10余名という構成である。

この他に諸改善を担う、事務所スタッフというメンバーがいる。


すべて合わせると約120名という大所帯の課であった。


このような組織形態の中において私の立ち位置であるが、先も述べた通り昭和54年4月に、「主事」という管理職に登用された。
昭和44年に入社したわけで、したがって入社後11年目のこと。年齢は35歳のときであった。


管理職としては“序の口”であるが、席次としては課長に次ぐ課内第2位である。
しかも課長は表面処理課と兼務であり、製造第一課の経験は私の方が長いこともあって、日々の業務遂行においては、私が中心になって動くことも少なくはなかった(と思われる)。

先に示した三交代配役表と同じ年月、昭和54年11月の予定表と業務メモが残っていた。
仕事ぶりを示す一例として表示してみる。

最初が予定表。


次が業務メモ。


生産対応、将来計画対応、災害対応、来客対応、他さまざまなことが起こる。
これを日々、考えたり、相談したりなどして答えを出していくのが業務である。

そして、よく年の昭和55年には、主事から課長代理に職位が昇格した。
またしても相撲に例えれば、一応関取と呼ばれる十両格に昇格した感じである。



ただし、仕事の内容は主事時代と大差は無い。

あまり苦労した記憶もなく、言うならば、鷹揚に、かつ真剣に仕事に取り組んだと言って良いのかもしれない。そんな時代が、昭和58年まで3年間続いた。


少し話が変ずるが、我々はこの間に2度ほど住まいを変わっている。
結婚当初住んだのが川崎市のアパートであった。こちら→(2025/7/4)
ここで長男が生まれた。

次に移り住んだのが、三井金属の家族寮。
移り住んだのは昭和50年6月。スイスやアメリカに出張した年のこと。
帰国して直後の出来事である。

場所は東京の駒場にあり、三井金属駒場寮と呼ぶ。鉄筋3階建てで4棟あり、48戸収容した。
子供が2人以上というのが入居の建前であったが、お腹にもう一人いるという話で入居がかなった。
三井金属が羽振りの良い時代に建てたもので、当時は新聞記事になったとも聞く。
お風呂は檜造りであった。


この家族寮には3年間住むことになった。
なお長女は、この三井金属駒場寮に居住している間に生まれている。

次に移り住んだのが神奈川県大和市である。
移り住んだ時期は昭和53年の4月。親子4人で移り住んだ。
3LDKの一戸建てである。

建物の持ち主は槇原課長と同期入社の総務課長で室さんという。
熊本県阿蘇村の出身。高校時代遊んで暮らしたと本人は話すが、現役で東大法学部に入学した逸材である。
この課長が神岡鉱山の総務課へ転勤することになり、持ち家が空き家になるので、我々に住まないかと声がかかったもの。周りが三井金属社員ばかりの家族寮より気楽に住めるだろうと入居させてもらうことにした。

古くからある家と、新しく建った家とが混在するような地域。
入ってみると近所には我が子と同年輩の子供さんたちが大勢いた。
家の裏側には松林があり、その向こうには芝生の畑が広々と広がる、今だ長閑さの残る地域でもあった。


この住居には3年間住むことになる。

だらだらと書き綴ったきらいがあるが、今回はここで一旦筆を置く。
続きは次回。



2026年4月3日(金)
春祭り
毎年4月3日は曜日に関係なく、地域の鎮守様である龍岩神社の春祭りである。
参道になる階段を清掃しながら神社に向かうのが恒例となっている。

例年なら、麓に着いたときにはすでに数名の人が集まって、掃除を始めているのだが、今年はすこしばかり早めに着いたので、掃除をしている人はまだいない。

私は毎年麓近くの掃除は任せ、頂上に近い部分の掃除をすることにしている。
1/3程度登ったところで振り返ると、数名の人の姿が見え、麓の掃除が始まっていた。


小一時間経つと掃除を終えて、皆が境内まで登ってくる。
集まったところで、祠のは裏に立つ大岩のしめ縄交換。

それが終わって祭礼という、いつも通りの段取りである。

祠まで登って、祭礼に参加した人の数を数えてみると15名。
見回すと私が最長老であった。


平成20年(2008年)の春祭りの様子を写した写真が残っていた。
 こちら→
参加者の顔ぶれがかなり変わっている。

 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 (唐詩選)

の感である。



2026年4月2日(木)
M用スマホのトラブル対応
M用のスマホが昨日から調子が悪い。電話が使えないのである。
電話を使おうとして電話のアプリボタンを開くと「ネットワークが接続されていません」と言うエラーメッセージが出て、受信も発信もできないのである。

ネットにエラーメッセージの文面を入れて対策法を尋ねると「再起動する」とか「SIMカードを出し入れする」とかさまざまの対応法が表示される。
ものは試しで、これらの対応法を実行してみたが、結局トラブルは解消されなかった。


今日Mは仕事で、電話がかからない状態のスマホを持参して仕事に出かけたのである。

その間に、私には一つ閃きがあった。
実は私は使えるスマホ本体を二つ所有している。
経緯は こちら→(2025/7/13)

充電ができなくなり、新規に本体を購入したのだが、その後充電ができないと思ったスマホの充電口を清掃したりなどすると充電が可能になり、結果としてスマホ本体が2台になった次第である。
この復活した古い本体が使えないかと思ったわけである。

ただしそのままで使うことはできない。その本体にはKの情報が入っていて、M用に使うなら、そのデータをM用に変換する必要がある。

具体的には、その本体を「購入時の状態に戻す」という操作をして、Kの情報を消去し、その後、今使っているMの本体に残っている情報を一旦バックアップして保存し、そのバックアップされたデータを当該スマホにインストールするという手順を取ることになる。
ただその方法を覚えているわけではない。
ネットに一つ一つ相談しつつ、操作をするわけで時間がかかる。
およそ半日をかけてやり終えた。


その後午後になりMが仕事のから帰ってくる。

Mが仕事に持って行ったスマホからSIMカードを取り出し、取り出したSIMを、先に情報入れ換えたスマホ本体にセットする。

電話をかけて通話ができるかできないか、少々ドキドキもの。
私のスマホ宛にかけてみたら、見事に成功したのであった。


あと自分好みに設定を変更すると言うこまごまとした作業が残るが、私が一部応援したり、またMが自分で実施したりなどして、夜には完全に使えるようになった。

大団円である。



2025年4月1日(水)
鼻血で病院へ行く
ここにきて、鼻に少々異変が起きている。

もともと鼻には時病があって、そのことについては以前触れた。
 こちら→(2025/12/22)
それ以後も薬を飲みつつ、過ごしていたわけである。


さて異変とは、ここにきて急に鼻血が出始めたのである。
出た回数をまとめてみると次のようになる。


最初が2月20日の夕食前。少し強めに鼻をかんだら出始めた。これが最初である。
なかなか血が止まらず、少々驚いたわけであった。

以後は朝が多い。
朝起きたとき、鼻が詰まっていることが多く、そのとき鼻を強くかむ。すると鼻血になるのである。
その後は鼻をかむとき弱めに行うよう注意して過ごしてきた。

毎日出るわけでもないので、これで様子見かなと思っていたら、少し思わぬことが起きる。
3月28日のこと。保養館で来年度の組長会が開かれた。
Kは順番で、来年度5組の組長で、その組長会に出席した。

その会議のさなかに、特に何かをしたという記憶は無いのに、突然鼻血が出始めた。
ティッシュなどで鼻を押さえその場を凌ぎ戻って来たのだが、これまでのように、原因が見当たらないのに血が出たことに不安を覚え、病院へ行ってみようかと思い始めたわけである。

近くで耳鼻咽喉科があるのは、以前も行ったことのある川本町にある加藤病院しかない。
しかも診察は水曜日の午前中のみ。島根大学の先生が来られて対応されるらしい。

そんな次第で、今日病院に行ってきたわけである。

11時半の予約で行ったのだが、診察が始まったのは12時半過ぎであった。

40歳台半ばと思われる先生で、物言いの明確な人であった。
ファイバースコープともう一つ何かわからぬ器具を鼻の穴の中に挿入し、(挿入のときは両者ともかなり痛く、顔をしかめて耐える程であった)観察したのち、診断となった。

結果を整理して箇条書き的に言うと、
・二つの装置を使用して両方の穴の奥深くまで観察したが、現在特に傷らしいものは無い。さらに癌などの兆候を示す組織的な変化も見られない。
・加齢の性と思われるが、鼻の粘膜はかなり弱まっている。強い刺激があれば傷ついて血が出る可能性は充分あろう。
・血が止まりにくいのは、血液サラサラの薬のせいと考えられる。対策として薬を止める手があるが、この場合は脳梗塞になる可能性が出てくる。脳梗塞になるよりは鼻血を選ぶべきと思うが如何か。
・鼻血が出たら皆あわてて、興奮するが、こうなると血が出やすい。“またか”と思って心を落ち着かせ、下を向いて、鼻をつまんで、30分程下を向いていること。そうすれば大概の鼻血は止まる。

という診断が下り、薬の処方もなかった。


今日の診察、Mも川本に用事があるらしく、Mの運転で出向いた。
江川沿いに出るに従い、気温が高いのであろう、あちこちで桜が満開であった。
診察が終わった後Mの案内で少し高台に登り、下に見える桜を観ることになった。


昔の校庭周りから山の上まで、あちこちで桜が満開。八色石では見ることの出来ない光景であった。