| 2026年5月31日(日) |
| 集落 泥落としふれあい祭り |
晴れわたった、薫風のもと、集落の最大イベントである「泥落としふれあい祭り」が賑やかに行われた。
毎年この時期開催されていて、昨年は こちら→(2025/6/1)
宴会前の軽スポーツは、今年もグランドゴルフ。
未就学児童から90歳を超すオールドパワーまで参加するという、にぎやかなゲームとなった。
5組に分かれて、30名弱の戦い。私の成績は5位てあった。
グランドゴルフの後は宴会。料理はすべて手作りである。
女性連が昨日から準備を始め、今日は朝の7時から出ての奮闘。
見事な料理が山盛り供された。
女性連代表から料理の説明があり、そののち乾杯。
12時少し前から始まって、14時近くまで。
全参加者は、写真から数えて35名程度と思われる。
にぎやかな、八色石集落の一日であった。
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| 2026年5月30日(土) |
| Mの実家の手伝い 採蜜 |
毎年この時期行われるMの実家の作業、採蜜の手伝いに行ってきた。
これまでに1・2度触れた気がするが、実家の父は養蜂を営んでいた。
それが20年余り前に亡くなり、その後を義母と義妹が継いでいた。
その母も3年前亡くなり、以後は義妹一人で頑張っている状況である。
蜂の管理は、かなり難しい技術を必要とする。
特に近年、蜂が訳もなく逃げるという現象が起きるらしく(実家に限らず、全国的な話し)、蜂の箱数が減っている。
以前は採蜜となると一日仕事で、特に多い時期は、家に帰れば夜の8時過ぎという時代もあった。
ところが近年は箱の数が減り、採蜜に要する時間も減少してきている。
特にこの2・3年は半日で完了する。今年もそうであった。
昼食用の弁当は持って行くのだが、結局作業が終わり家に帰って弁当を食べるという状況である。
手伝う身になってみれば、早く終わって有難いわけであるが、生業としている人にとっては悔しいことであろう。
さりながら、作業自体はなかなか厳しい。
終わればかなり疲労感が残る。特にこの1・2年はその感が強い。
自宅に戻って弁当で昼食を取ったのち、Mは再び後始末の手伝いに出かけたが、私は家にとどまり昼寝を長めにした、と言う次第である。
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| 2026年5月28日(木) |
| 緑 進む |
出かける用事があったり、雨が降ったり、で3日ほどウォーキングを休む結果となった。
今日は曇り。時折り霧雨のような小粒の雨が降ったりする。
小雨の合間を縫って久しぶりにウォーキングに出かけたら、この間に緑が一層進んでいた。
山の木の緑はいっそう濃くなり、田圃に植えた稲株も太ってきて、景色としては緑が濃くなる。
兎も角緑だらけ。
当分の間はこの景色も仕方がない。
景色に変化が出てくるのは8月の終盤。
稲穂が色づく頃である。
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| 2026年5月27日(水) ラベル527 |
| 私の履歴書 「神経症」との戦い その1 龍澤寺参禅 |
私の履歴書シリーズ その49である。
前回は、技術部長に就任後間もない時期に、「神経症」を発病し、対応策として、休みの取りやすい技術開発室長に任命されるまでを記載した。
こちら→(2026/5/24)
「神経症」という病気は心の病で、簡単に治る病気ではない。
その治療のために思わぬ経験を2度した。以後2回にわたって、そのことに触れてみようと思う。
今回はその1回目として、禅寺での参禅である。
参禅したのは、静岡県の三島市にある龍澤寺という臨済宗の禅寺である。
記事の中にもあるが、第ニ次大戦末期、当時の鈴木貫太郎首相が当時の山本玄峰管主に、戦争の終わり方を相談したという話は特に有名である。
参禅に、お世話を頂いた方があって、Uさんという、協力会社の社長さん。
韮崎市在住の方で、工場が山梨に移ったのち協力会社としてお世話になった。
地元の有力者で、私は移転室次長時代から懇意にしていただ方である。
奥さんが静岡県出身の方で、龍澤寺とは懇意らしい。
「気晴らしに行ってみたら」と誘われて。参禅の運びとなった。
上の写真右は、参禅の許可をいただくため奥さんにご足労をかけ、管主の了承を頂いた時の奥さんからの返事の手紙。手紙には管主直筆の色紙2枚が添えられていた。
(余談だが、この時奥様に託した「志」は、相当の額であった)
当時の管主は鈴木宗忠氏の時代である。
参禅をしたのは、平成2年(1990年)1月10日から。18日から24日にかけて行われる「接心」という特別な修行期間に合わせて参加することになった。
写真上段は、参禅したおりの修行内容の簡単なメモ。業務予定表の中に残っていた。
簡単なものだが、修業内容を振り返るには参考になった。
私が参加したのは1月10日から。その時一緒に参加した在野の人は4人であった(と思う)。
その後順次参加者が増え、「接心」が始まる17日には、在野の人は10人程度まで増えた。
その時の正式な修行僧は、これも記憶で約20名。一番年長者は30代半ばの僧であったと記憶する。
修行僧と在野の人との寝る場所は異なったが、その他の修業内容は両者とも同じ内容であった。
食事も、場所も内容も同じであった。
修行内容は、作務と言われる屋内外の作業と座禅である。
接心に入る前は、少しは暇な時間もあったが、接心中は座禅漬けであった。
接心最後の日の24日には、午後から焚き火をたきながら酒を飲み交わした。修行中酒を飲むのはこの時のみである。
正式な僧たちも、この時ばかりはハメを外して騒いでいた。 参禅中、写真撮影は禁止されていたので、当時の様子を知る写真類は何も残ってない。
写真下段はその折貰い受けた経典類である。
2週間に及ぶ修行は、睡眠も少なく、かつ食べる量も少なく、この間にかなり痩せた。その間ひげも剃らずである。
帰宅の折りは、ひげは剃ってもよいとされたが、そのまま剃らずに帰宅した。
その痩せた髭面の姿を帰宅後写真に撮った記憶があるのだが、今回、探したが見つけることができなかった。
さて、その効果である。
病気に対しては、ほとんど効果は得られなかった。
ただし、経験としては、貴重な体験をしたと思っている。
その以前から、「禅」に対する興味がなかったわけではないが、この経験を踏まえ一層関心が深まり、禅に関係する書籍を購入して読むようにもなってきた。
昨今はほとんど目を通さないが、捨てずに残っている禅に関する本は、今でもかなりある。
龍澤寺参禅という機会がなければ、おそらくこれほど禅に関心を抱く時期も無かったはずで、そういう意味では、参禅という機会を与えてくれた我が病気に、若干ながら許してもよいか、という気を起こさせてくれるのである。
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| 2026年5月26日(火) |
| 老人会グランドゴルフ 予選会 |
年に3回開催される、邑南町老人会のグランドゴルフ大会の予選会である。
も少し詳しく言えば、6月に開かれる石見大会の瑞穂予選会。
今回は80余名が参加し、上位50名が石見大会に参加できる資格を得るという趣旨の大会である。
今回はMも参加した。八色石からの参加者はMも含めて合計4名。
かつては八色石から、7・8名が参加者した時代もあったが、随分少なくなってきた。
さて我が成績であるが、前半が28、後半が23で合計51のスコア。
成績は58位であった。
Mの成績はも少し悪い。
もともと本大会に出場する意識はほとんどなかったので、順当な成績というところである。
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| 2026年5月25日(月) ラベル525 |
| 今回の 一汁二菜 |
ネタ切れ時の一汁二菜をシリーズものに格上げすることにした。
シリーズものにすると、前回のレシピをラベルで連結するので検索が容易になる。
前回は こちら→(2026/4/9)
さて今回の一汁二菜は今日のものではない。数日前に作ったものだが、ネタ切れ時のピンチヒッターとして登場させることにした。
レシピは、煮込みハンバーグ、玉ねぎと薩摩揚げの煮物、そしてわかめの簡単汁である。
最初は煮込みハンバーグ。今日のメインディッシュである。
レシピは こちら→ 私が作ったレシピ集の中では、初期の頃集めたレシピの一つである。
手間はかかるが、技術はいらないというレシピ。
というのは通常ハンバーグを焼くとき中まで火を通すのはかなり熟練の技を要するが、このレシピはその必要がない。後で煮込んで火を通すため、ハンバーグが半煮えでも問題がないのである。
私が作るハンバーグの中では、登場頻度はこのレシピが一番多い。
次が玉ねぎとさつま揚げの煮物。
レシピは こちら→
Mが貰い受けた新玉ねぎがあり、また冷蔵庫にさつま揚げがあったので、作ることにした。 レシピ集を探すも、適当なものがない。
先に示したレシピは今回新たに探し出したものである。
作るのはいたって簡単なレシピで、食べた結果も思いのほか美味しかった。
最後がわかめの簡単汁。
私が愛用する粉末だしの、汁(スープ)の素である。
今回たまたま残りがわずかになったのでアマゾンに発注し、届いた未開封の袋があったので写真に載せてみた。
私が汁を作るとき、別にダシを用意することもあるが、かなりの高頻度でだしに使うのが上に示した「わかめスープ」のもとである。
一人に一袋使うと塩味が濃すぎるので、私の場合は一袋でお椀3杯ぐらいの量を作る。普段は眼見当で鍋に水を注ぐが、今回測ってみたらおよそ600ccの水を入れていた。
あと、このスープの素を使う時の私の一工夫は、これに料理酒を加える。量はおよそ50cc。
これで俄然味がまろやかになる。
あとは汁の具材を適当に加えれば完成である。
今回は塩わかめを水に戻して塩抜きし、具材とした。
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| 2026年5月24日(日) ラベル524 |
| 私の履歴書 技術部長就任とその後の発病 |
私の履歴書シリーズ その48である。
前回は、韮崎への工場移転の総括を行ない、その文末では、自動車部品関連事業の伸長について触れた。
こちら→((20265/19)
今回は、移転完了後3年を過ぎた平成元年(1989年)に、ドアロック部門とダイカスト部門を分離するという動きが始まった。
今回はその分離にまつわることにことについて触れる。
この時期、国内での自動車生産数は毎年増加し、事業部内の売上も、前回示したように、ドアロック部門がダイカスト部門を上回る状況を踏まえて、ドアロック部門をダイカスト部門から切り離して独立させるという動きが始まったものと思われる。
私はその計画に参画していなかった(と思われる)ので、少々驚いたと言う印象が強いが、同年7月19日に「新組織発表会」が開催され、これまで「機器事業部」として一つの組織であったものが、翌20日付で、「部品加工事業本部 ダイカスト事業部」と「部品加工事業本部 自動車機器事業部」の二つの事業部に分離されることになったのであった。
この分離の結果、私が次に拝命した業務は「ダイカスト事業部」の技術部長であった。
年齢45歳の時である。同期内では、部長就任は早い方と聞かされた。
この時技術部は、設計、生産技術、金型製作の三つの部門からなる社員約90名の所帯であった。
この折り事業部長に就任されたのは、私が会社に入社した時配属された鋳造課での最初の上司、松谷さんであった。 こちら→(2025/6/9)
技術部3課の業務を実際に担当したことはないが、それまで3年間従事した緊迫した生産管理課の業務に比べると身近なものであるし、上司になる事業部長も懇意の人。何か実家に戻ったような安堵感を覚えたという記憶が残っている。
その安堵感もつかの間、思わぬ事態に遭遇することになった。
当時、韮崎移転後からすぐの時期に始まった行事があって、それは月頭の「一日の日」に、各管理職が輪番で自分担当以外の職場に周り、朝礼のような形で、各課の社員に話をするという場が設けられていた。
その慣例は事業部が分離後も継続されていて、技術部長に就任した直後の9月1日であったと思うが、私に番が廻ってきた。
ドアロック部門の組立課であったと思うのだが、およそ80名前後の人を前にして話を始めた。
これまでなら何事もなく話が進むのだが、そのときは最初からなぜか上がった状態になり、全く喋れなくなった。数秒かあるいは1・2分か、沈黙と震えののち、なんとかその場を切り抜けて、自分の席に戻ったが、当分の間我を忘れた状態であった。
その後も、例えば技術部の中でも、何事もなくできる時と、前記と同様に出来なくなる時があったりして、人前でしゃべる時「また喋れなくなるのではないか」という恐怖感に囚われるようになってきたのである。
またその後間おかずに、今度はを人前で字を書こうとすると、手が震えるようになってきた。
例えば、人を前にしてホワイトボードに字を書こうとすると手が震えて字にならないのである。
とりあえず山梨医大の精神・神経科を外来で受診した。医者の判断では「神経症」と判断が下され薬剤療法を受け、2・3ヶ月もすると軽快するであろうと言われた。
しかし、管理職にとっては「しゃべること」と「字を書くこと」が仕事である。この二つができなくなるということは致命的である。
このままでは会社に迷惑をかけることになると思い、事業部長の松谷さんに相談をした。
相談をした時期は確定することができなかったが、おそらく10月の初旬か半ばの頃であろう。
松谷さんは親身になって相談にのり、即座に手を打って下さった。
とりあえずは休んだ方が良いという判断で、生産ラインに直結している技術部長を解任し、一旦事業部長付という名目にして、その間に、ラインに直結しない組織を私用に新たに作り、提供して頂いたのである。
新しくできた組織は技術開発室と言う。
発病した翌年の1月5日付けであった。将来のだめの新技術を開発するのが主目的の組織で、マグネシウムダイカストとMIMと言う粉末冶金の一種である技術の確立を目指すものである。
わたし以外に7名の部下が配置されたが、いずれも最優秀のメンバーで、私が不在でも充分に運営でき、私がいつ休んでも問題が起きないような配慮がなされていた。
技術開発室の具体的な内容については、後日触れることになろう。
話を再度病気の事に戻す。
先に山梨医大を受けて「神経症」との判断が下されたと記述したが、後になってわかったことであるが、それは「簡単な神経症」ではなく、それは日頃のストレスなどに起因する(私の場合、生産管理課での業務が災いしたかもしれない)病気で、今日では「適応障害」と呼ばれる病名に近いものであった。
こういう言い方をして良いかどうかわからないが、現在皇后である雅子様のご病気も、宮内庁発表では「適応障害」とされていて、「強いストレス環境の中で心身の適応が難しくなり、公務への参加が制限されることがある」という状況である。
いずれにしても、原因は複雑で、簡単に治る病気ではない。
今日はここまで。
次回以降、如何にこの病気(便宜上、「神経症」と呼んだり、「適応障害」と呼ぶ場合がある。具体的に表に出る症状としては、人前で喋れなくなったり、また手が震えて字が書けなくなったりする状態を指す)に対応してきたかを述べることにする。
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| 2026年5月23日(土) ラベル523 |
| 2階自室 窓外の景色 |
2階の自室で、朝、カーテンを開けた時の景色。
山々の緑が濃くなったという思いと、ヤマボウシの白い花が鈴生りという印象を受けて、とりあえず一枚写真に収めたという経緯である(写真、上段)。
毎日このような景色を見ることができるわけで、有難いことである、としみじみと思うこともある。
話し変わるが、昨年まではこの景色が少し今とは異なっていた。
それが下段の写真(2025/5/5撮影)。
もう一つ屋根に近い場所に別の木が立っていた。名前はウラジロノキという(赤丸印)。
葉の裏が白くなるという面白い木で、それなりに楽しんできたのだが、大きく育ちすぎて邪魔に感じ始め、昨年の12月に切り倒したのであった。 こちら→(2025/12/19)
そう言う出来事を踏まえると、今見ている景色は昨年とは少し異なって、広々とした印象を与えるわけで、一層気持ちが良いと思うのかもしれない。
毎日同じようなことを繰り返している日々ではあるが、そんな中にも時々こうして新しい発見だと気づく場面があったりして、それなりに面白い。
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| 2026年5月22日(金) |
| 山水出し と メンテナンス通路の笹刈り |
一週間近く晴れで暑い日が続いたあと、一昨日と昨日は雨模様。しかも比較的強い雨が降った時もあった。
畑などもカラカラに乾いていて、その後の雨であるから、まさに干天の慈雨となった。
一方山水の方は、昨日から止まっている。
増水の影響で取水口が詰まっている可能性もあり、修理に向かうことにした。
これまで比較的長い間山水は出続けていて、修理に向かうのは久しぶりのこと。修理道具一式を抱えて「山水メンテナンス通路」の入り口まで来てびっくりであった。
笹が通路全面を覆い、どこが通路か一瞬は迷う程。
とりあえず山水の復旧が優先。笹をかきわけて取水口に向かう。
途中ホースの接続部が外れている可能性もあり、注意をしながら取水口に向かうが、結局は取水口そのものが詰まっていたという結果である。
ただし詰まる原因が珍しい出来事。
取水口に手をやり詰まったものを引き出してみると、沢ガニが一緒に出てきた。
過去20余年の経過の中で、沢ガニが原因で詰まったという出来事は、過去に3・4回はあるかもしれない。
まあ珍事といってよいほどの出来事であった。
家に戻ってみると、雨で増水した満々の水が、出口から流れで出していた。
ところが今日はこれで作業が終わりではない。通路の笹刈りをせねばならない。
毎年笹が出てきたこの時期、一度は行う作業なので、 こちら→(2025/6/5)
今日続けて実施することにした。
今年になってからの草刈りは紐の草刈機ばかり使用している。一方笹を刈るとなれば丸刃の草刈り機が必要。丸刃用の草刈機を出し、丸刃も研磨して装着し、準備を整えて現地に向かう。
笹の濃い入り口側100m程度の笹を刈ったが、例年より笹の量が多いようにも感ぜられた。刈るに1時間半程度かかる。
山水出しは午後1時過ぎから始めたのだが、笹刈りを終えたのは4時を回っていた。
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| 2026年5月21日(木) |
| 新聞記事から |
今日の読売2面に掲載されたコラム記事である。
高田文の随筆集「季節のかたみ」を引用している。
この随筆集「季節のかたみ」なる書名については、なんとなくピンとくるものがあって、それは以前、入院入所の準備として一括まとめした本 こちら→(2024/3/9)
の中にあるような気がしたのであった。
この一括まとめした本は、今でも手つかずのまま、そのまま席の後方の座り机に置いてある。
振り返って確認してみると、確かにそこに並んでいた。
取り出して中を確認してみる。
新聞に掲載された引用先の文章は、そのままタイトルも「伸びる」となって載っていた。
長い文章ではなさそうで、読んでみようかとも思ったが、入院した時読めばよいので、今日のことが思い出されるよう栞紐をこの「伸びる」の場所に挟んで、読むのは先のことにした。
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| 2026年5月20日(水) |
| サロン田屋 |
毎月第1水曜日と第3水曜日に開かれるサロン田屋である。
ただし、今月は第1水曜日である6日がゴールデンウィークに引掛かり休みとなったため、今月としては今日が初めてのサロン開催であった。
Mは月1回だけ最初のサロンにスタッフとして参加していて、したがって今日も8時過ぎから出かけ昼食の準備などに当たっている。 一方私はサービスを受ける側。11時前にサロンに付くようを家を出た。
着いてみると先客の女性が2人。この2人の他に、普段よくされ参加される男性が2人いるのだが、待っていても今日は姿が現れず。結局受ける側は私を含めて3名であった。
スタッフはMを含めて3名。したがって、すべて合わせて、今日の参加者は6名であった。
最初が昼食会。
エンドウご飯にメインディッシュは手作りコロッケとエビフライ。その他に3菜とおつゆ。
普段私が作る「一汁二菜」とは比べようもない「一汁四菜」という豪華さである。
昼食後私は昼寝。
30分あまり昼寝していたら、Mに起こされて体操となる。
体操は休みを入れながら小1時間。
その後はお茶会である。
お茶に添えられていたのは、スタッフの一人が家で作ってきたというケーキと苺。
甘さ控えめのケーキで、誠にこれも美味であった。
のんびりとそして豊かな時間を過ごして、午後3時過ぎに帰ってきた。
言う事の無い会であるが、昨今、参加者が減ってきたのはかなり寂しい。
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| 2026年5月19日(火) ラベル519 |
| 私の履歴書 移転後の韮崎工場諸元 |
私の履歴書シリーズ その47である。
前回は生産管理課時代の出来事、協力工場で構成される「三親会」の人とアメリカ旅行をしたことについて触れた。
こちら→(2026/5/13)
またその際、思わぬ出来事にぶつかったりしたので、その内容を、余話という形で話を載せた。
こちら→(2026/5/16)
今回は少し話が遡ることになるが、大崎、川崎の両工場から引っ越してきた、新しい韮崎工場の大まかなまとめをしようと思う。
本来なら順番として、生産管理課時代に入る前に述べるべき項目であるが、その時点ではここに載せる資料が無く、その後新たに見つかったわけで、やむなく、ここに載せると言う経緯である。
まず、韮崎工場の全体図である。
自前の写真がないのでGoogleマップから拾ってくることにした。したがって映像は最近のものである。ただし基本的には移転した当時と大差は無いと思われる。
写真上段、全景図の右下に、50mを示すスケールが表示されていて、これを元にすれば、それぞれの建物等の大きさが推定できる。
メインの工場は3棟建てられ、手前からA棟、B棟、C棟と名付けられた。
収容された各設備は、概略次のとおりである。
A棟;事務所関係、表面処理設備、粉末冶金設備。
B棟;ドアロック関係設備、プラスチック成型設備、精密加工設備、発送センター。
C棟;ダイカスト設備、金型製作設備。
この移転を推進した当時の管理職の写真が残っていた。
昭和57年(1982年)12月、山梨県の石和温泉で撮られた写真で、移転作業が具体的に始まる直前のもの。移転作業を前に、移転先の山梨県に出向き親睦を図ったものと思われる。
移転作業がもっとも盛んに行われたのは、私が移転室次長に任命された昭和59年(1984年)4月ころから生産管理課長に任命された昭和61(1986年)年4月ころまでの2年間であったが、その後、移転後の新組織が編成される。
前にも述べたが、その新組織で、私は思わぬ生産管理課長に任命されたのであった。(余談)
その新組織も落ち着きっを見せ始めた思われる昭和63年当時の、韮崎工場の工場諸元が残っていた。
私が手書きで書いた資料である。
同時に、昭和63年度の販売実績も残っていた。合わせて提示してみる。
事業部社員の他に、地元の協力工場3社が敷地内にはいり、労働力を提供してもらっている。それら全部を合わせると、900名を超える人数となる。
大工場と言って良い規模に成長している。
また昭和63年の売上規模も300億円を超え、内訳をみるとドアロック関係の売り上げが58%で、ダイカスト関係ほかの売り上げの過半となっている。
以上述べてきたように、社員の努力、地元の協力、そして時勢にも恵まれて、韮崎工場での仕事は順調に拡大してきた。特にドアロック関係の伸長が目覚ましい。
これが次の新しい展開を呼ぶことになるのだが、その話は次回以降に回す。
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| 2026年5月18日(月) |
| 雑木の倒し作業 |
冬の時期からMに頼まれていた作業で、春になったら実施すると答えていたのだが、その後すっかり失念していて、2,3日前にMに再度催促され、着手した作業である。
「欅台」と呼ぶ場所の奥の片隅に名もわからぬ雑木2本が大きくなっていて、もう一段下の、主としてMが管理する畑があり、その畑の奥に大きな椿の木があって、さきの雑木が椿に被さる形になっている。
その椿の一部が去年頃から枯れ始めて、この雑木による日陰が枯れの原因とも思われ、切ってほしいという要望が出ていたのである。
さて、作業であるが、 この2,3日は、当地でもすこぶる暑い。涼しいうちにと8時過ぎから作業を始めることにした。 手伝ってほしいこともあって、Mも一緒に行ってもらう。
最初は2本ある右の木から倒すことにする。
この木の右側には「二合庵」と呼ぶ丸太小屋が建っているのだが、この小屋に当たらない方角に倒すつもりである。
少しチェンソーで切ってみると、どうも思う方向に倒れそうに無い。安全を見てロープ式手動ウィンチを準備し、このウィンチをMに引っ張ってもらって倒すことにした。 結果としては、申し分ない方向に見事に倒れた。
ついで左側の木。
この木は何もせずに倒せば左側に倒れる。当初はこの木も右に引っ張って、右側に倒す予定にしていたが、Mが「そのまま左に倒したら」と言うので、「それもそうだ」と思い直し、左側に倒すことにする。
左側に倒すなら造作はない。問題なく倒れた。
あとは枝類の整理。運搬車に載せれるよう小さくする。
この間思案をしたり、また休憩をとったりなど、思わぬ時間も取ったりして作業を終えたのは10時半を回っていた。ほぼ2時間半を要したことになる。
今日の作業はここまで。運搬車で運んで始末するのは後日行うことにした。
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| 2026年5月17日(日) |
| その後の草刈り その2 |
4月中旬から始めた今年の草刈作業であるが、その途中経過を5月3日に載せている。
こちら→(2026/5/3)
その後も雨が降らなければ原則草刈りをしていて、第1回目の草刈りをしなければならない場所の作業は粗方終えた。
この間に作業を終えた場所の写真と月日、要した時間を示せば次の通りである。
これから第2回目の草刈に入ることになるが、第1回目の時は、草丈の低い場所は刈らないところもあるのに対し、第2回目は大方全部の個所を刈ることになる。また草の量も多い。
したがって1回目のときよりは時間がかかり、第2回目を終えるのは8月半ば過ぎのことになろう。
ただし、今年はこの間に目の手術が入るかもしれず、そうなると計画は狂う。
その時はその時。
無理しないよう、できる範囲で実施することにする。
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| 2026年5月16日(土) ラベル516 |
| アメリカ旅行余話 その2 |
事業部勤務中の生産管理課長時代、協力工場「三親会」のメンバーとアメリカ旅行をした時の余話である。
余話としてはその2。その1は一昨日に記述した。 こちら→(2026/5/14)
すべての旅程を終えてニューヨークから日本に帰国しようとしたときの話である。
空港(おそらくJFK国際空港)に勢揃いした時、横長でビニールにくるまれた荷物を持っている人が現れた。
どうやらニューヨークでゴルフのアイアンセットを買い求めたと思われる荷物である。
現地で購入すれば、日本で輸入品を購入するより確かに安い。
この時期は、私もゴルフを始めて5・6年経った頃。夢中になり始めた時期で、私も買えばよかったと思ったが、立場上そうもゆくまいと諦めた記憶が残っている。
そして成田空港に着いたときである。
チーム解散のため空港ロビーの一角に参加メンバーが一同に集まったおり、その横長の荷物を持った人が私の方に来て、「お礼の気持ちで、みんなで買ったもの」という趣旨の言葉を添えて、その横長の荷物を私に渡してくれた。
大いにびっくりはしたものの、返却するわけにもいかず、お礼を言って貰い受けて戻ってきた。
アメリカ製のPINGアイアンセットであった。
その頂いたアイアンセットは、その後ゴルフをプレーするときは使わせていただき、ゴルフを止めた今でもそのまま残っている。
その戴いたクラブセット、当時としてはどのような評価のものか、またしてもチャットGPTに調べてもらった。
結果が次である。
ゴルフの腕は最後まで上達はしなかったが、プレーに使った道具だけは立派なものを使っていたわけである。
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| 2026年5月15日(金) ラベル515 |
| 左目、眼科検診 |
定例の眼科検診に行ってきた。今回が通算25回目となる。
前回は こちら→(2026/4/14)
今日の予約時間は10時となっていて、いつも通りMの運転で9時に家を出た。
快晴の良い天気。まぶしいほどである。
クリニックには予定通り10時頃到着した。
いつもの通りのスタッフによる使用検査がある。途中目薬を入れて瞳孔を開くための待ち時間があって検査が終わるのにほぼ一時間かかる。今日も、いつも通り、そんな過程であった。
ついで医者による検診になる。通常ならあまり間をおかずに診察になるのだが、今日は少し間隔が開いて11時半頃から始まった。
検診で最も重要視されるのが、ものが二重に見えるという症状。時間をおけばその症状が軽くなる可能性があり、そうなると手術の必要がなくなる。
医者はこの時間経過による改善を期待しているらしく、様子見の期間がしばらく続いているのである。
一方私の方は、早く区切りをつけたいという気もあって、手術を迫る発言をした時期もあったが、ここにきて、月1回の検診を受ければ済む話で、もはや医者の言う通りにしようと思い始めている。
そんな状況下での今日の診察。
医者の言うには「検査結果では、ズレの量が少し減っている節がある。もう少し様子を見ましょう」とのこと。私の方は「分かりました」と答えて診察を終えた。
太田の街で買い物をするMに付き合い、12時をかなり回ったので、そのまま大田で昼食を取り、家に着いたのは午後3時頃であった。
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| 2026年5月14日(木) ラベル514 |
| アメリカ旅行余話 |
昨日記述した記事の中身に関する余話、まあ一種の遊びである。
ワシントンDCで宿泊したホテルの写真を掲載しているが、昨日の記事では“豪勢なホテル”とだけの言葉を添えているのみで、具体的には何もわからない。
泊まったホテルの内容がもう少し具体的にわからないかと思い、チャットGPTに尋ねてみることにした。
チャットGPTに写真をアップして尋ねてみる。3回質問をした。
それぞれについて詳細な回答が出されてくる。
回答の内容をここにすべて表示することができないが、写真に写る賓客の部分についての回答は次であった。
ここでもモナコ公妃(グレース・ケリー)の文字が出るので、グレイス公妃が泊まったホテルに間違いないのかもしれない。
ここには、長い文章を提示できないので、内容を手短くまとめてもらった。次のようになる。
現在の感覚で言えば、かなり高価なホテルに泊まっている模様である。
バブル時代の公費旅行。笑い話の種の一つにはなる。
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| 2026年5月13日(水) ラベル513 |
| 私の履歴書 生産管理課時代 その5 |
私の履歴書シリーズ その46である。
昨日の続き、アメリカ視察旅行の具体的な内容である。
出発日は1988年(昭和63年)9月4日。成田空港を出発した。
ただし、協力会社「三親会」のメンバーとは別の行動である。
と言うのは、当時デトロイトにドアロック関係の営業事務所を設置するという動きがあって、この動きを「Dプロ」と呼んでいた。おそらくデトロイトプロジェクトの略なのであろう。
この「Dプロ」の見学は私一人で行い、「三親会」のメンバーとは、次の視察地であるGECOM社で合流すると言う計画となっていた。
したがって、他の一行は私より2日遅れで成田空港を出発している。
本題に戻ろう。
私一人デトロイトに向かう。
ただし今回調べてみると1988年当時は成田からデトロイトに向かう直行便は無いらしく、通常のルートは、まずロスアンゼルスに向かい、ロスアンゼルスで別便に乗り換えてデトロイトに向かうのが一般的な航路らしい。
従って昨日示した航路図はそのような形で現した。
最初の目的地「Dプロ」の事務所に入った。9月5日である。
事務所は未完成の状態らしい。「Dプロ」メンバーは最終的には3名となる計画であるが。当時は2名の人が配置されていた。一人は顔見知りのSさん。もう一人は初対面の若い人。仮にここではAさんとする。
Aさんがデトロイト市内を案内してくれて、フォード博物館とそれに隣接するグリーンフィールド・ビレッジ(アメリカの歴史村らしい)を見学し、また次の日は大リーグの観戦を行っている。
次の視察地はGECOM社。
GECOM社は1987年に三井金属が設立した会社で、ドアロックなどの一連の製品を製造している、アメリカでの拠点会社である。場所はインディアナ州のグリーンズバーグと言う町にある。
「三親会」のメンバーとはここで合流した。メンバーの数は22名である。
私が移転室次長の任に当たった時、ドアロック関係の業務を担当したもう一人の次長、I・Kさんが、ここで工場長の役をしていて、会社説明などをしてもらった。
グリーンズバーグには飛行場がなく、車で1時間程度かかるインディアナポリス市まで送ってもらい、そこで市内見学などしたのち、飛行機で次の目的地に向かうことになった。
さて次である。
視察旅行としてはこれからが本番というところかもしれない。
カナダのトロント市に行き、ナイアガラの滝の見物をした。 9月8日と9日の出来事。
観光遊覧船に乗り滝が落ちる近くまで行って、かなり水しぶきを浴びた記憶がよみがえる。
そして次、再びアメリカに戻ってワシントンDCである。
アーリントン墓地を訪れケネディの記念碑をみたり、またスミソニアン国立航空宇宙博物館を訪れ、ライト兄弟が乗った初めての飛行機とか、アポロ11号の司令船とか、の珍しいものなども見ている。
また宿泊したホテルは、かなり豪勢な物で、中には高貴な方が宿泊されたのであろう、その写真を展示したりなどしていた(赤丸)。
(この展示パネルだけを撮った写真が別にあって、写っている5枚の写真の中で最下段の一枚をGoogleフォトで調べてみたら、モナコのグレイス公妃夫妻と出た!)
そして最後はニューヨークである。
国連ビルを見、またエンパイアステートビルにも。
エンパイアステートビルでは中に入り、屋上まで登った形跡が読み取れる。
また夜は食事の後、女性同席のカラオケが歌える店に寄っている。
という10日間にわたる旅であった。
世話役という理由での、アメリカ研修旅行であったが、世話をしたという記憶は殆どなく、むしろ世話を受けたという印象が強い、申し訳ないような旅であった。
今では考えられない、バブル期真っ最中の出来事である。
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| 2026年5月12日(火) |
| 私の履歴書 生産管理課時代 その4 |
私の履歴書シリーズ その45である。
前回は こちら→(2026/5/5)
ここでは、機器事業部の協力会社である「三親会」のことに触れた。
一方、時代はバブル最盛期であるとも述べた。
1980年代後半、日本経済はプラザ合意後の急激な円高と、それに対応する金融緩和政策を背景として、空前の好景気に包まれていた。バブル期といわれる所以である。
当時、日本の自動車産業は輸出中心の体制からアメリカ現地生産へ急速に移行しつつあり、これを受けて三井金属でも、北米にGECOM社を立ち上げた。1987年のことである。
一方、先に述べた円高の実態を調べてみると1985年頃は1ドル240円程度であったものが、1988年ころには130円までに値上がりしている。いわば海外旅行費用が実質半額近くになった時代でもあった。
そのような背景の中、事業部が言い出したのか、あるいは「三親会」側から要望が出されたのか記憶がないのだが、GECOM社の見学を理由にアメリカの視察旅行が行われることになった。
ただ、視察旅行とは言いつつ、実態は観光旅行である。
実施されたのは1988年の9月であった。
具体的には二つの班に分かれて実施されることになる。それぞれの班には生産管理課から世話役が付き添う形である。
その世話役の一人が私であり、もう一人がダイカスト担当の主事、Tさんとなった。
私の班が先行し、Tさんの班が後発であったと記憶する。
その時の飛行経路図を示せば次のようになった。
ただしこの経路図は、何かベースになる資料があって、それを元にして作成したものではない。
当時の資料は、一切残っておらず、 こちら→(2026/2/1)
残されていたのはその旅行時に写された写真のみである。
以下余談になるが、実際の旅行内容に触れる前に、この飛行経路図を作るための苦労話を先に記述してみたい。
残されていた写真というのが次である。
透明なフィルムに写真を挿入する形でおさめる写真ファイルである。一冊のファイルは用紙が8枚で構成されている。一枚の用紙には表裏各3枚の写真が挿入できるので、全個所に写真を挿入すれば一冊あたり48枚の写真が保存される形式になっている。
ただ結果的には満杯では挿入されておらず、およそ8割前後の割合で写真が収められていた。計算を簡単にするためにざっと見積もると一冊あたり40枚の写真である。
そのような写真ファイルを収めた箱が二つあって、上段の写真で示す箱では3冊のファイルが、写真下段の箱には4冊のファイルが納まっていた。
したがって、写真枚数で言うと、上段の方が120枚、下段の方が160枚、合わせて280枚前後の写真の塊である。
写真の撮影者であるが、上段にしめす写真の方は、どうやら私が写した写真が中心で収められている。
一方、写真下段の方は、他人が写した写真を貰い受けて収めているようにも思われた。
当時の写真であるから、現在のデジタル写真のように写した場所や撮影日がわかるわけではない。
ただし一部の写真に、写真撮影日をフィルムに写し込む機能を使用している写真があって、その写真撮影日は資料をまとめる上で大いに参考となった。(ただこの撮影日は、日本時間で表示されていることを配慮する必要があった)
写真の並べ方は完璧ではないが、ある場所を写した写真はひと固まりになって挿入されてる様子はうかがえた。
写っている写真の中で、人の場合はある程度内容がつかめるが、建物や物品を収めた写真の場合、何を意味する写真なのかを全く思い出せない。
これらの写真の中身を読み解くためには、Googleレンズの新機能
こちら→(2026/3/4)
を使用した。
何を意味するか分からないものに、スマホでGoogleレンズを開いて画面に写真を写すと、その物体がが何であるかをAIが判断して、示してくれる機能である。
これらの準備を前提にして具体的な作業に入った。
最初に行ったのが出張日程の確定である。
写真に撮影日を映し込んだ写真が何枚かあり、その日付を見ると1988年9月の8日から11日というような日にちが表示されている。ならばと、1988年9月の行動予定表にそのような記載があるかを調べてみた。
確かに出張している様子が窺えた。
4日の欄に「米国出張」の文字があり13日の欄に「米国出張帰国」の文字がある。
この間の旅行と考えて間違いなさそうに思われた。
次に行ったのが、先に述べた写真ファイルの中身の確定である。
3冊の箱入りにはファイルごとに1から3のナンバーを振り、4冊の箱入りの物にはAからDの番号を振り、それぞれに入る写真はどの場所で何を見たかを、Googleフォトで確認しながらメモをして行く作業である。
その結果を示したのが、次の写真の上段である。
Googleフォトで写真に写し内容を調べながらメモするわけで、この作業にはずいぶんと時間を要した。
そして次に行ったのが、それぞれの出来事を日付順に並べる作業。日本とアメリカの時差を配慮しつつ並べ変えてゆく。
その作業を示したのが写真の下段である。
このような経過を踏まえて出来上がったのが冒頭に示した飛行経路図である。
この間、およそ5日を要した。時間数にしておよそ15時間はかけているものと思われる。
今日はここまで、次回は、それぞれの場所でどのようなことを行ったのか、写真を整理して示すことにする。
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| 2026年5月12日(火) |
| 長姉を次姉と共に見舞う |
私は姉弟の3人兄弟である。
構成は、長姉とは10歳離れ、次姉とは6歳離れていて、私が末っ子の長男という形である。
姉2人とも同じ町内に嫁いでいる。
我々が八色石に j ターンして後のこと、この姉弟とその連れ合いを基本メンバーとする会が自然発生した。
名を「如月会」という。
この会の経過報告は、小欄に何度も登場したが、その間にメンバーも年を重ね、最後に会が開かれたのは2022年3月であった。 こちら→(2022/3/26)
この間に上の兄が亡くなり こちら→(2017/4/3);(会のメンバーは長男が継ぐ)
次兄がなくなり こちら→(2025/5/20)
その後姉たちも体が弱ってきて、
長姉は2023年1月に施設に入所。
次姉も2023年秋ごろから軽い認知症がで始め、一人で自由に動けぬ状況になっていた。
以上が長い前置き。
そして今日である。
Mの尽力で、我々姉弟3人が顔を合わせる機会を作ってくれた。 長姉が入所している施設に、私と次姉を連れてゆき、姉弟3人が顔を揃えるという企画である。
私はMの運転で施設に向かい、次姉は娘の運転で施設に向かった。 全ての顔が揃ったのは午後一時半すぎ。場所は施設のロビーである。
会っていた時間は30分程度であったが、有意義な時間を過ごすことができた。
それぞれ老い先が長い身ではない。事の次第によっては、私が一番先に逝く可能性もある。
ひょっとしたらこうやって3人が並ぶ写真は、これが最後になるかもしれない、と覚悟した。
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| 2026年5月10日(日) |
| 和辻哲郎著「古寺巡礼」 がらみ |
今回図書館で借りた本の中に「大活字版岩波文庫」と言う類の書籍がある。書名は和辻哲郎著「古寺巡礼」。
図書館の司書の方が推奨する本を並べている棚があって、その中に並べてあり、偶然目に入ったので借りてきた。
いわゆる文庫本として発刊されている書籍を、老人向けというのか、サイズを大きくした形で再発刊するという動きらしい。
帰ってから、そのサイズを測ってみると、文庫本が15×10.5Cmに対し、大活字版は21×15Cmとなっていて、面積は丁度2倍となる。
借りてきた「古寺巡礼」は、文庫本で所有しているはずで、比べてみようかと思い、2階自室のパソコンの横にある書棚を探してみたが見つからない。
書棚はもう一つあって、それは2階の廊下の端にある。
そこには小説ほかの単行本をまとめておいているのだが、万一そこにあるかと探してみると、思いもしなかったことに、単行本の「古寺巡礼」が目に入った。
昔この本を探した記憶があり、そのときはどうしても見つからなかったもので、なぜ今回そこにあるのか分からないまま持ち出して、大活字版と並べてみた。
単行本の方は、第1冊発行が大正八年5月。所有の本は昭和38年6月印刷の第35印刷版で価格は450円となっている。一方、大活字版は2025年11月第1刷発行となっていて、価格は3100円となっている。
印刷されている内容は、原則、全く同じである。
大活字版と単行本で、活字の大きさはほとんど変わらない、しかも内容は同じとなれば、慌てて大活字版の本を読むことはない。前書きと第一章のみさらりと読んで返却することにした。
先ほど“以前この本を探したことがあり、見つからなかった”と記述した。
この探したときのことはっきりしていて、以前別の文章に記載した。
こちら→
平成21年、、65歳の時書いた文で、当HP内「折々雑記」というコーナーに載せている。
開いたついでに、今回この文章を読み返してみた。
なかなか良く書けている。
自賛ながら、文章がさらりとして、かつ、瑞々しい。
もはやこのような文章はかけそうにもない。
文章を書く力も衰えてきたかと、少々愕然としたわけである。
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| 2026年5月9日(土) |
| 今年もブッポウソウがやってきた |
今日のウォーキング時のことである。
私のウォーキングコースは、最初の部分で、母屋の横を通る町道を一旦下るのだが、この時母屋の横にある畑にブッポウソウの巣箱を設置していて、そのブッポウソウの巣箱の下を通ることになる。
今日のウォーキング時にたまたまその個所を通ったら、頭上でなにやら鳥が飛び立つ羽音が耳に入ってきた。
思わずその方に目をやると、ブッポウソウが巣箱から飛び立ったらしく、山の方角に向かって飛び去っていく。さらにその先を追うと、ブッポウソウは50m程度離れた場所の杉の木の頂上に止まり、周辺の様子を伺い始めた。
ウォーキングの時はいつもスマホ携帯しているので、スマホで写真をとってみることにした。
画面を最大の8倍まで拡大して撮った写真である。 近年、もはやブッポウソウには慣れっこになっていて、めったに写真をとることはない。
そういう意味では珍しい写真である。
ただし、一時は仏法僧に夢中になった時期もある。
それは小欄を始める以前のことで、別の形式で、当ホームページに載せている。
ブッポウソウの巣箱を設置したのが平成19年(2007年)であるから、19年前のことになる。
こちら→
ただし一度姿を見せたことがあり(2012年5月)
こちら→
巣箱の修理を行って(2013年4月)
こちら→
それでも、ほとんど入らないので、巣箱の移動を行った。(2014年5月)
こちら→
その後一気に来るようになり、写真撮影の開始(2014年6月)
こちら→ 子育てのための餌運びをしている(2014年7月)
こちら→
以後2・3年は夢中になった時期があったが、以後は慣れと加齢の両方が原因で、現在のような冷めた時期となっている。
そういえば、今年は5月5日にブッポウソウの鳴き声を初めて聞いたとMが言っていた。
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| 2026年5月8日(金) |
| 草刈機紐の保持具更新 |
4月になって以降、雨でなければほぼ毎日のように行う草刈り作業に関する話である。
今時の草は、背丈もそこそこで、しかも柔らかいので、草刈り機で用いる刃の形式は、丸刃でなく紐形式のものである。
その紐形式の保持具がこの度寿命になり、新しいものに取り替えた。
購入先はアマゾンなので、購入履歴がわかる。前回購入した時期を調べて見た。
前回が2025年、その前が2023年となっている。どうやら、1・2年で交換しているようである。
この紐の保持具には、いろいろな種類のものがあって、今時は自動で繰り出す方式のものが主流となっていると思われるが、我が家で購入するものは、紐の操作は手動のものである。
かなり以前、私に草刈機の操作方法を教えてくれた人が、紐の先端は時々切り落として、鋭角にしておいた方が草は楽に刈れる。一方、自動繰り出しの方式の紐は、摩耗で細くなったまま。
手動方式で、紐を長くするときは、必ず紐の先端を切るようにしたが良い、と教えられたことによる。
以来、手動方式を固く守っているわけである。
さて今回治具を新しいものに取り換えた。次は1年余り先のことであろう。
そしてその繰り返しを、あと何回できるのだろう、と考えてしまう訳である。
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| 2026年5月7日(木) |
| 邑智病院の定期検診 |
邑智病院での、3ヶ月ごと定期健診に行ってきた。
上の写真は諸検査が終わってのち、医者の診察を受けるために待っている、待合室の風景である。
前の方に座っていたので分からなかったが、後ろの方で声がして「今日は患者が多いね」と言うことらしい。
30分程度待ったのち医者の診察となった。 最初が血液検査の結果である。
医者の言うに「血液検査は総じて問題はない」ということであるが、その中で、私が飲酒の指標にしている、γ-GPTの結果は、前回まで3回続けて上昇していたが、今回は下がり正常範囲内に戻ってきた。
まずはめでたしというところ。またこれで、心置きなく酒が飲めるということである。
次にグラフで示したPSAは、半年に1回検査を受けている前立腺の腫瘍マーカーの値。6以上の値が出れば注意が必要だのことであるが、今のところこれも問題なし。
そして最後がHbA1cの値。
これは 前回 こちら→(2026/2/12)
で、医者が問題にした値である。
最初に手を打ったのが、昼間に飲む缶ビールを糖質を含まない種類のものに変えるという案(同日の記事に記載)である。
以降、継続して今日まで続けている。
もう一つが医者の指示に従って、運動量を増やす策も実施した。
ウオーキングを”ミドルコース“から”レギュラーコース“に変更するというもので
こちら→(2026/2/14)
現在、8・9割方、“レギュラーコース”を歩いている。
でその結果であるが、前回は7.3という値が今回は7.1。
思ったほどの効果が出ず、期待外れの値であるが、もう少し様子見ということになる。
そして今回からもう一つ新しい動きが始まった。
それは、以前は安佐市民病院で年に1回受診していた胸部を中心とする諸検査を邑智病院での受診に変更すると言う件である。
移す経緯は以前小欄に載せた。
こちら→(2024/6/25)
調べてみたが、昨年は実施されておらず、今回が変更後第1回目である。
実施された検査項目は、心電図、エコー検査、CT検査である。
それらをもとにした医者の診断は、「今のところ大きな問題はない」という結果であった。
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| 2026年5月6日(水) |
| 山は新緑 |
今八色石は、“山笑う”の時期 こちら→(2023/4/21)
から一つ季節が進み、”新緑”に包まれた時を迎えている。
実は、写真は昨日のもの。
ウォーキングのおり撮影してきた。
この生命力に溢れた”新緑”の景色を見ながらウォーキングができるわけで、誠に有り難いことである。
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| 2026年5月5日(火) ラベル505 |
| 私の履歴書 生産管理課時代 その3 |
私の履歴書シリーズ その44である。
前回は こちら→(2026/4/30)
これまでの回は生産管理課の主要業務である客先に物を届けるという話が中心であった。
今回はその前の段階、製品を作り上げる工程の話である。
物作りの主力はもちろん内製工場であるが、内製工場ではできない工程も多々ある。
その内製ではできない工程の部分は、外部の協力工場、いわゆる外注さんに頼むのであるが、この協力工場の管理をするというのも生産管理の主要業務の一つであった。
移転前の、川崎工場および大崎工場で協力いただいていた工場が主力ではあるが、山梨で新たに協力工場になってもらったところも10社前後はある。一方、川崎・大崎時代の協力工場で、場所を山梨に移転するという工場も何社かあった。
資料がないので記憶に頼ることになるが、工場移転後の協力工場の総数は合わせて60社程度の工場数であったと思われる。
我が社と協力工場との関係、あるいは協力工場間での関係をスムーズに運ぶための親睦会が組織されていた。名前を「三親会」という。
この「三親会」のお世話をするのも生産管理課であった。
三親会がらみの資料を探してみたが、出たのは宴席の写真ばかり。
ただ左上には「三親会発足20周年記念」という文字が写る写真も残っていて、このような動きも実施したのだと、懐かしく振り返った。
三親会のメンバーである会社は、数社例外はあるにしても、その他大半の協力工場は事業部が主要取引先であり、わが社からの仕事があるかないかは協力工場にとっては死活問題になる。
どの協力工場にどの仕事を依頼するかの、配分先の決定権は生産管理課が持っていて、生産管理課のご機嫌を損なうわけにはいかない。ある意味では手厚い心くばりがなされることになる。
その一例がお盆や暮れのお中元やお歳暮である。
しかも私が生産管理課長を勤めた期間は1987年から89年の3年間で、バブルの絶頂期に相当し、世の中は好景気であった。
ウイスキーとかハムの詰め合わせ、あるいはお菓子や果物の詰め合わせなど、おびただしい数の品が送られてくるのである。
それも高級品ばかり。ウイスキーなら「山崎」とか「響」。あるいは、ニッカのウイスキーの年代もの。
ハムなら直径10Cmは近い一本ものの詰め合わせ。普通に食べていたのでは消費できないので、1Cm厚の輪切りにして、そのまま焼いて食べるなどの贅沢をした。
当時子供は小学校の高学年の時期。後年、「あの時は贅沢な食べ方をした」と話題になることがたまにある。
また、記憶に残る品としては、「入善ジャンボ西瓜」と言うらしいが、楕円形をした大きなスイカが送られてきてびっくりしたこともある。
今の時代では考えられないことであるが、バブル期を含め、当時の世情を思い出す便(よすが)としてここに述べてみた。
この送られてくる品に対する礼状を書くのはMが担当した。毎回、何10枚という礼状書くことになる。後年、この話もたまに話題になる。
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| 2026年5月3日(日) ラベル503 |
| その後の草刈り |
4月18日付けで、今年の草刈り第1号の記事を載せたが、 こちら→(2026/4/18)
その後はこの種の話を載せていない。
かといって、草刈りをしなかったわけではなく、雨でなければ、外出の用事がない時には、草刈り作業を行うようにしていて、ここで一挙まとめて載せてみることにする。
ただ、今日は雨なので、直近の話は昨日のことになる。
写真は、古い順に作業した場所の、作業後の写真を載せてみた。
ただいまの草刈りは、草が伸び始めたところで、あまり丈は高くない。ナイロンひもの草刈り機で刈ることができ、刈った後の草の草の始末も少なくて済む。
徐々に体を慣らして、本格的な夏以降の草刈り作業を迎えることにする。
それにつけても、だんだんと体力がなくなってきたことを感じるこの頃ではある。
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| 2026年5月2日(土) |
| 田植えが始まる |
例年なら4月の末頃から始まる田植えであるが、今年は、苗の生育が遅かったのか、田植えがなかなか始まらなかったような気がする。
おかげで水鏡に映る緑の景色を堪能させてもらった。
ところが今日、午前中ウォーキングに出たら田植えが始まっている。
田植機が2台出ていた。
そして午後、夕食の準備で台所に立つと、台所の窓越しにまた別の田圃で田植えが始まっていた。
今度は、田植え機が3台出ている。
今日だけでもずいぶん田植えが進んだ感じ。
周辺の緑も随分と色が濃くなってきた。
季節はいよいよ初夏に向かうことになる。
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| 2026年5月1日(金) |
| またしても鍋 |
昨日と今日、日中はほぼ雨模様。ウォーキングに出ることもなく家に引きこもっていた。
私は小欄の前日分を日付が変わった翌日の早朝から書いている。
昨日と今日は、私の履歴書の生産管理編を2日にわたって書いていて、特に今日の分はダラダラと長い物になり、ほぼ半日使う結果となった。
おかげで、家で閉じこもっていた割には、暇を持て余す状態にはならなかったのであるが、小欄のネタになりそうな話題は無い。
致し方なく、今日の夕食に供した鍋料理でお茶を濁すことにする。
今日作ったのは“鳥団子鍋”。
参考にしたレシピは こちら→
豆腐と鶏のひき肉を混ぜて団子にするという簡単な鍋である。
以前も作ったことがあり、悪くない印象が残っていて再度作ってみたのだが、今日はあまり美味しいと思わなかった。
というのも。豆腐のざらざらした感じが口に残るのである。
Mに言わせれば「豆腐の量が多すぎるのでは?」というが、レシピ通り豆腐は半丁しか入れなかった。
とにかく、理由はあまりよくわからない。
どこかの時点で、もう一度再兆戦してみようかとは思っている。
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